アルターは繰り返される夢を見る
「それで、男が言うんです。『僕は正常だ、僕は正常だ、』そう言って手を離すんです。ベビーカーから離すんです。坂道の上でです。そう、20度も、いや、30度もあるような坂道の上で、離すんです。そしてベビーカーは落ちていくんです。速く、速く落ちていくんです。それを女性が追いかけるんです。叫びながら追いかけるんです。泣きながら追いかけるんです。でも、ベビーカーは止まらないんです。」
「それで?」
「そのまま、ずっと落ちていくんです。坂道の下には、川があります。とても、流れの速い川です。ベビーカーは落ちていくんです。止まらずに、そのまま。」
「それで?」
「それで……それで、女性が追いかけるんです。追いかけても、追いつかないんです。どんなに速く走っても、追いつけないんです。手を伸ばしても、掴めないんです。ベビーカーは落ち続けて、坂道の上で男が、『僕は正常だ、僕は正常だ、』と言うんです。それで……。」
「それで?」
「……わかりません。ここで、夢が終わるんです。目が覚めるんです。だから、それからはわかりません。」
「そうか。いや、ありがとう。」
「いいえ。」
「もしもまた、同じような夢を見たら、話を聞かせてほしい。」
「わかりました。」
「うん。では、部屋に戻りなさい。薬は忘れずに飲むように。いいね?」
「はい、先生。」
「先生。また、夢を見ました。」
「どんな夢?」
「とても幸せそうな夢です。」
「どんな夢?」
「夫婦がいるんです。2人は結婚していて、一緒に暮らしているんです。2人は、いつも笑顔で、心の底から愛し合っているようでした。」
「それで?」
「女性の方は、妊娠しているようでした。お腹が、とても大きくなっていて。もうすぐ子供が産まれるようでした。旦那さんらしい人は、女性の体を気遣って、手をとりながら支えてあげているんです。2人とも、すごく嬉しそうでした。」
「それから、どうなった?」
「それから……それから、子供が産まれるまで、2人でずっと一緒に過ごしていました。何かあるといけないと言って、仕事も休んで、つきっきりで。」
「それから?」
「……そこで、目が覚めました。だから、わかりません。」
「そうか。」
「はい。」
「それじゃあ、1つだけ聞きたいことがあるんだけど、いいかい?」
「はい。」
「夫婦の顔は、覚えているかい?」
「…………。」
「…………。」
「……わかりません。覚えていません。」
「そうか。わかった、ありがとう。」
「いいえ。」
「それじゃあ、部屋に戻ってくれ。薬は忘れていないね? ちゃんと飲むんだよ。わかったね?」
「はい、先生。」
「先生。」
「なんだい?」
「先生。」
「どうしたんだい、そんなに震えて。」
「夢を見たんです。」
「どんな夢?」
「とても怖い夢です。」
「どんな夢?」
「なんだか、変なんです。」
「落ち着きなさい。」
「……はい。」
「どんな夢だった? 教えてくれ。」
「はい。……声が聞こえるんです。」
「どんな声?」
「怖い声です。大きな声です。耳からじゃなくて、どこか、脳のどこかから聞こえてくるんです。とても大きな声です。耳を塞いでも、声は聞こえてくるんです。止まってくれないんです。黙ってくれないんです。」
「その声は何と言ってる?」
「わかりません。わかりません。でもたしかに声なんです。何かの声が聞こえてくるんです。それがなんだかわからないんです。でもたしかに聞こえてくるんです。声なんです。」
「薬は? ちゃんと飲んだかい?」
「……はい。飲みました。たしかに飲みました。」
「そうか。」
「先生。どうしたらいいですか?」
「とりあえず、落ち着きなさい。心配はいらない。きっとただの悪い夢だ。すぐに忘れるよ。気にすることはない。」
「……はい。」
「いいね。今日は少し、薬を増やそう。大丈夫だ。きっとすぐにどうにかなるよ。さあ、部屋に戻りなさい。」
「はい、先生。」
「先生。また、夢を見ました。」
「どんな夢?」
「楽しい夢です。」
「どんな夢?」
「夫婦がいるんです。旦那さんらしい人が、赤ん坊を抱いているんです。揺りかごみたいに、ゆっくりと赤ん坊を揺らしながら、あやしてあげているんです。とても楽しそうでした。」
「奥さんは?」
「奥さんらしい人は、それを隣で、笑いながら見ているんです。白い服を着ていました。真っ白な服です。それで、ベッドに横たわっているんです。少し、つらそうでした。でも、とても、楽しそうでした。」
「顔は?」
「…………。」
「…………。」
「……すいません。よく覚えていません。」
「そうか。」
「ごめんなさい。」
「君が謝ることはない。わざわざ話してくれて、ありがとう。感謝しているよ。」
「いいえ。お役に立てれば、それでいいんです。」
「そうか。それじゃあ、部屋に戻りなさい。ゆっくり休むといい。きっと清々しい気持ちで休めるだろう。さあ、行きなさい。」
「はい。」
「…………。」
「…………。」
「……先生?」
「なんだい?」
「久しぶりに、父に会いたいと思うんです。」
「……どうして?」
「……わかりません。ただ、どうしてか。」
「そうか。……わかった。とりあえず、今日はもう戻りなさい。」
「はい。」
「薬を忘れないようにね。」
「はい、先生。」
「先生。また、あの夢を見たんです。」
「どの夢?」
「坂道の夢です。」
「どんな夢?」
「男が、ベビーカーを離すんです。坂道の上でです。20度、いや、30度はある坂の上で、離すんです。そうしながら、言うんです。ひたすら言うんです。『僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、』そう言って、ベビーカーを離すんです。そして、ベビーカーは落ちていくんです。」
「それから?」
「それから……それから、女性が追いかけるんです。叫びながら追いかけるんです。泣きながら追いかけるんです。でも、止まらないんです。掴めないんです。追いつかないんです。ベビーカーはずっと落ちていくんです。坂の下まで落ちていくんです。」
「それから?」
「それから……そう、坂の下に、川があるんです。とても流れの速い川です。坂の下で、流れているんです。ベビーカーは、ずっとずっと落ちていくんです。それで、……、」
「それで?」
「……それで、…………。」
「…………。」
「……それで、……そう、……ベビーカーは、川に落ちて……。」
「…………。」
「……すいません。思い出せません。」
「そうか。わかった、ありがとう。」
「……いいえ。」
「思い出せなくても、気にすることはない。夢は忘れるものなんだ。大丈夫だよ。」
「でも、先生。もう少しなんです。もう少しで、思い出せそうなのに……。」
「いいんだ。今日はもう、戻っていい。薬は忘れないように。いいね、絶対だ。わかったね?」
「……はい、先生。」
「先生。」
「なんだい?」
「先生。」
「どうしたんだい? 落ち着きなさい。」
「またです。またなんです。」
「何があった?」
「また声が聞こえるんです。前よりも大きくて、前よりも怖いんです。脳の、脳のどこかから、聞こえてくるんです。痛いんです。頭が、すごく痛くて、痛くて、それで、」
「落ち着きなさい。」
「まだ、まだ、聞こえてきて、それで、今もずっと、痛くて、聞こえてくるんです、あの声が、また。また……また聞こえて、聞こえて! また、ああ、また……。」
「大丈夫だ。落ち着きなさい。」
「ああ、先生、先生、お願いします、先生、声が、まだ聞こえてきて、何を言ってるのか、全然わからないんです、もうどうしたらいいか、わからないんです、お願いします、どうか、」
「落ち着きなさい!」
「…………。」
「いいね? しっかりしてくれ。正気は戻ったか? 声はどう? まだ聞こえてくるかい? どうだ?」
「……いえ、……大丈夫です。平気です。」
「そうか。それなら、よかった。」
「先生……ごめんなさい。でも、どうしたらいいか、本当にわからなくて……。」
「いいんだ。困った時には、いつでも私を頼りなさい。薬は? まさか、飲み忘れていないだろうね?」
「はい、はい。ちゃんと飲みました。たしかに飲みました。忘れていません。本当です。」
「わかった。いいかい、これからも決して、忘れてはいけないよ。必ず飲むんだ。薬は大切なものなんだからね。いいね?」
「はい。わかりました。」
「それならいい。もうすっかり平気だね。さあ、部屋に戻りなさい。気を落ち着かせるんだよ。ゆっくりとね。そうすれば、きっと大丈夫だ。わかったね?」
「はい、先生。」
「先生。」
「なんだい?」
「父に会わせてください。」
「…………。」
「……駄目、ですか?」
「……どうして、会いたいと思う?」
「わかりません。でも、何かが引っかかっていて、……そう、頭の中で何かが、つっかえているような気がして、そして、考えていたら、ふと、父に会いたいと思ったんです。」
「…………。」
「……先生。会わせていただけませんか?」
「…………。」
「……どうして、何も言ってくれないんですか?」
「……いや、……それは……。」
「父に何かあったんですか?」
「…………。」
「そうなんですね?」
「…………。」
「会わせてください。父に会いたいんです。お願いします。」
「…………。」
「……わかりました。先生、あなたがそういうつもりなら、……。」
「……落ち着きなさい。」
「落ち着いています。」
「…………。」
「落ち着いていますよ、先生。……もう少しだけ、考えさせてください。もう少しで、何かが見えそうなんです。思い出せそうなんです。すいません。部屋に戻ります。」
「……ああ。薬は、忘れずに飲むように。いいね?」
「…………。」
「…………。」
「……はい、先生。」
「思い出しました。」
「どうした?」
「思い出しました、先生、何もかも思い出しました!」
「……落ち着きなさい。」
「先生、また、あの夢を見たんです。坂道の夢です。やっと思い出したんです。ベビーカーに乗っていたのは――そうだ、僕だ! 僕が乗っていたんだ! それで、坂道を落ちていったんだ! ベビーカーと一緒に! 僕が!」
「…………。」
「そうだ、そうだ……思い出した、やっと、思い出した……。僕が、落ちていったんだ、坂道の下まで! そうして、女性が……いや、違う、母が、僕の母が、僕のことを追いかけて……だけど追いつかなくて、それで、」
「…………。」
「…………。」
「……それで?」
「……それで、……、」
「それからどうなった?」
「…………。」
「ベビーカーはどうなった?」
「……ベビーカーは、……そう、川に、川に落ちて、だから僕も川に落ちて、それで、」
「君はどうなった?」
「…………。」
「…………。」
「……わからない、……わからない……。」
「…………。」
「どうして? 何もかも、……思い出したと思ったんだ、それなのに、なんで何も……わからない……わからない……。」
「……顔は?」
「……顔?」
「男の顔は?」
「――――」
「覚えているかい?」
「――男の、……男の顔は……あ、……、」
「…………。」
「――父だ。父の顔だ! あの男は僕の父親だ! そうだ! 思い出した! あれは父だ! たしかに、あれは……。」
「なら、声は?」
「声――声、そうだ、――声も父だ、そうだ! あれは父の声だ! ずっと頭の中で聞こえるんだ、脳のどこかから、聞こえてきて、止まらないで、ずっとずっと聞こえてくるんだ、あの声は、そう、……たしかに父で……それで……、」
「なら君の顔は?」
「――――」
「君の声は?」
「――――」
「…………。」
「……あ、……、」
「…………。」
「…………わ、……わから、ない……、僕の、僕の顔、……声、…………わからない……わからない……わからない……。」
「……落ち着きなさい。」
「ああ、ああはは、あはははああははあははははあははは、」
「…………。」
「あは、あはははは、はははあはは、あはははあはは、先生、先生、」
「…………。」
「先生、はは、あはははは、僕は、はは、僕は正常だ、先生、僕は、あははあはあはは、正常だ、正常だ僕は、僕は正常だ、ははははは、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、」
「…………。」
「僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は正常だ、僕は、」
「先生。」
「なんだい?」
「父に会おうと思うんです。」
「どうして?」
「言いたいことがあるんです。」
「どんなこと?」
「『きっとあなたは異常だった』って、一言だけ。」