携帯水没物語【短編】
BAR“PIANISSIMO”には川村早智子一人がカウンターに座っていた。
「今日は遅いですね」
BARのマスターが早智子にカクテルを差し出しながら笑顔で言ってきた。
毎週火曜日、早智子はこのBARで同じ会社の上司三浦修平と会っていた。
修平には家庭がある。
そう、早智子とは一時だけの関係…
火曜日の夜、このBARで待ち合わせし少し他愛もない会話を重ねながら軽く飲むとそのままホテルへと移動した。
夜明けを待つ事無く修平はホテルを後にする。
そんな関係が2年も続いたであろうか。
早智子は修平に家庭があることを知って近付いた。
同年代や年下には興味がもてない早智子には中年の域に達した修平であったのだがそれが良かったのかどうか分からない。
だが男としての魅力を感じてしまった以上早智子の積極的な性格が高いハードルであるはずの不倫という道を躊躇なく選ばせてしまったのは確かである。
「本当…遅いったら…ねぇ」
カクテルを口に運びながら口をすぼめて言う早智子にマスターはグラスを拭きながら苦笑いでかえしてくれた。
肩口で切りそろえられた髪に一重の切れ長の目は23歳とは思えない大人びた風に見えてしまう早智子であったがポーチから取り出した携帯電話は年相応なのか淡いピンク色をしたものであった。
…メール送ろうかしら…
スライド式の携帯のディスプレイを眺めながら二人で一緒に選んだストラップを指で軽くはじいた。
その時、扉に着いた鈴がなり早智子はわざとゆっくりと入り口の方に顔を向けた。
「遅くなってすまん」
走ってきたのだろうか額に汗を浮かばせながら三浦修平が早智子の隣の席に着いた。
「何か飲む?」
ポーチからハンカチを取り出して修平に手渡ししながら早智子は特に遅くなった理由を聞こうとはしなかった。
早智子とはそういう女なのである。
「あぁ、オンザロックを」
「はい」
マスターには其れだけで話が通じる。
毎週火曜、それも2年も続けて通っているのである。
要らぬ説明は必要なかった。
中年とはいえ大学までラグビーをしていた修平の身体つきはがっちりと引き締まりオールバックにした風貌も年よりは若く感じられる。
マスターが修平の前にグラスを置くと、何時ものように二人から一番離れた場所に移り壁に並べられているLPレコードを選び始めた。
「せっかくの時間をすまなかった」
「いいのよ…」
早智子にとっては一分一秒も無駄にしたくない思いがないかといえば嘘になる。
しかし男の言い訳を聞くのが大嫌いな早智子の性格がそれ以上修平の内向きな言葉を聞く事を拒んでしまうのだ。
「あっ、もしかして俺にメールした?」
カウンターに置かれた早智子の携帯を見つめながら修平は何故か一瞬引きつったような表情を見せた。
「メール…してないよ。ただ時間を見たかっただけ」
「そうか…」
何か何時もと違う修平の挙動に早智子はそ知らぬ振りを見せながらも内心神経を尖らせてしまう自分がいた。
修平は半ば一気にグラスに入っていた琥珀色の液体を喉に流し込むとマスターに同じ物をお願いした。
「いや~走ってきたから喉がカラカラだ」
普段は余計な言葉を交わさない二人であったのが今日は修平が先に先に話を何処か他所に持って行きたがっているように見受けられた。
「何かあったの?」
早智子は聞くべきか聞かぬべきか悩んだ末ちゃんと修平に逃げ道を用意した形の質問をした。
別に何もないよ…と言って欲しくて
しかし、修平はスーツの内ポケットから黒い何の飾りもない二つ折りの携帯を取り出して呟くように言った。
「昨日うちのにこの携帯見られてね…勿論ロックをかけているから中身は見られていないんだが…」
二人の連絡用に修平が持ち歩いている携帯であり、妻には会社から持たされていると嘘をついている事は早智子も知っていた。
「風呂から上がって寝室に戻ったら真っ暗な部屋でじっとディスプレイを睨みつけているんだよ、思わずゾッとしてしまって…な」
カウンターに置かれた修平の黒い携帯を手に取った早智子は修平の妻が昨夜見つめていたディスプレイに自分の誕生日の数字を押し中身を見れるようにした。
「ほら、メール送ってないでしょ」
履歴を修平に見せながら早智子は何となく修平が言いたい事の全貌が見えてきた。
…修平は私と別れたがっている…
大切な週一の密会の場でわざわざ妻の話題を持ち出す事こそ何よりの証拠に思えて仕方がなかった。
嘘をつけない修平の性格も早智子は好きでたまらないからでもあったのだが。
…2年か…
修平には3人の子どもがいる。
一番上は確か6年生だったような。
早智子はそんな事を考えながらカクテルを飲み干した。
「マスター、今度はシャンパンちょうだい」
後は修平に最後まで言わせるか、早智子が切り出すか…
「今日は泊まっていける?」
早智子は逃げ道のない質問をワザとした。
「えっ…」
今までそんな我がままを言った事のない早智子が急に無理難題を言ってくるのである。
修平は手にした煙草を危うく落としそうになった。
「無理よね~」
喉の奥を鳴らしながら笑う早智子の横顔は修平にとってどう映ったのか…
「すまん…」
修平は早智子から顔を背けるように小さな声で言った。
最後って
こんなものか…
呆気ないなぁ。
ふと今まで積み重ねてきた逢瀬を思い出しながら早智子はマスターからシャンパンを受け取った。
早智子はシャンパングラスの中で踊っている気泡を眺めながら軽く頷いた。
元はといえば誘ったのは早智子なのである。
終わりも自分が決断しなければならないような…そんな気がしてしょうがないのである。
手にしていた修平の黒い携帯を両手で優しく閉じるとそのままシャンパングラスの中に落した。
「おいっ早智子!」
シャンパングラスの中で黒い携帯が気泡に包まれているのを早智子は何ともいえない微笑を浮かべて見つめている。
「修平さん…もうこれ以上隠し事は出来ないでしょう」
修平はシャンパングラスから目が放せないまま火の着いていない煙草を握りつぶした。
「これで私と修平さんの繋がりはなくなった…」
「まさか…本気で」
「貴方が望んだ事ではなくて?」
何も言い返せない修平は目に一杯の涙を湛えながらじっと佇んでいる。
「此れで良かったのよ」
早智子は自分の携帯に付けていたストラップを外し修平の前に置かれているグラスに落した。
「乾杯」
携帯の沈んでいるシャンパングラスを軽く上げた早智子は精一杯の笑顔で言った。
…自分が願えばまだこの関係は続けられたかな…
奪ってやろう
崩壊させてやろう
自分だけのものにしてやろう…
願えば叶う事かもしれない。
しかし早智子は願わなかった。
早智子の中にあるプライドが許さないのである。
…捨てられる女なんてまっぴら…
修平は多分まだこの関係を続けたいと思っているのだろう。
それでも今以上にびくびくしながら逢瀬を重ねるのは嫌だった。
その時シャンパングラスに沈んだ携帯が着信時に出るイルミネーションを数秒間発した。
「綺麗…」
早智子は素直に呟いた。
もう修平の分厚い手のひらも、大きな背中も耳元で響かせる荒々しい吐息も過去のものとなる。
…泳ぐ場所探さなきゃ…
修平の肩に手を置いて立ち上がった早智子はマスターに会釈すると何も言わずにBAR“PIANISSIMO”から一人出て行った。
「賢い女性ですな」
シャンパングラスの中から黒い携帯を取り出して綺麗に拭いてカウンターに置いたマスターは溢れる涙をそのままに座り続ける修平に言った。
追いかける事すら出来ない修平にはまるで見えない鎖が足首に繋がれているのか
それとも内心ほっとして動けないのか
真相ははっきりとはしないが早智子の去った後に漂う残り香に包まれたまま修平は早智子から手渡されたハンカチを眺めながらラストオーダーの時間までBARに居続けた。
「これで良かったのか…」
「多分…そうだと思いますよ」
二度と来ないであろうBARのマスターの声が修平の未練をぷつりと断ってくれたような気がした。