一期一会
空は茜色に染まり、影法師が僕の背丈を追い抜いた。日が暮れる前には帰宅しようとは思っていたのだが、そうはできない。
ごくごく普通のなんてことのない理由から、帰宅できない訳がある。
「くぁ〜、道に迷った」
そう、道に迷ったのだ。引っ越したばかりのこの町の地理を把握したくて、昼に出かけたのだが、どうにも複雑な路地に迷い込んでしまった。
どうしたものか。民家ならそこら中にあるから、人に道を聞けば万事解決する。けど、チャイムを押して道を聞くなど、恥ずかしくて実行に移せない。
誰かに聞くなら、交番で警官に聞くか、通行人に聞いた方が自然でマシだ。だけど、交番も通行人も一度たりとも見かけていない。
まいったな。ホントまいったな。明日は学校だというのに。
頭を掻きつつ、自宅への道を勘を頼りに進む。ぐるぐると同じところを歩いているような気がするが、気のせいだろう。気のせいであって欲しいなぁ。
さて、次の十字路をどっちに行こうか。さっきは直進したから、次は右に曲がってみようか。棒になった足を動かしながら、十字路を右に曲がった。
「うぉっ!?」
曲がった矢先に人とぶつかりそうになり、思わず声を上げて立ち止まった。
幸い、互いに立ち止まったことで接触せずには済んだようだ。
「すいません」
僕はとりあえず謝罪しながら、視線を素早く移して相手を観察する。
女性だ。白雪のような肌に薄桃色の唇と合間から微かに見える八重歯。髪はやや茶髪のセミロング。後ろ髪は束ねてある。
藍色の着物を着ていて、胸部は強調するかのように、小ぶりながらも山になっていた。
着物は全体を引き締める。そのため、浮き出てくる身体のラインが、女性の魅力を最大限に引き上げる。
着物で無かったなら、彼女は貧相な身体つきであったろうに。っと、いらぬ考察まをしてしまった。見定めするなんて最低な男だな僕は。
身体つきで全てが決まるワケじゃない。美しい女性というのは、内面から輝きを発する。ま、輝きを発しているかどうかなんて、感じ取れないけどね。一体、輝きって何なのさ?
「なんと……なんとも珍しいことよのぅ。お主のような人と出逢うとはな」
「は、はぁ?」
「幾年ぶりじゃろうか。それも間際にて逢うことができようとは」
なんだか分からないが、女性はささやかに嬉々している。
幾年ぶりということは、それまで人と触れ合わなかったということだろうか。とすると、該当する人種は引きこもり――は無いな。
彼女の動きには一つひとつ優雅さがある。目を付けるとしたら箱入り娘とかそんな辺りだろう。
うん、それだ。何となく、気安く話し掛けてはいけないような忌避感がある。いや、忌避感だとニュアンスが異なるな。高嶺の花みたいな感覚だから、神聖さと言うのが妥当かな。
「お主は何処に住んでおる?」
「えーと、笹塚ア――」
「趣味は? 夢は? 妾はおるか? 親孝行しとるか? 自然は好きか? 生き甲斐は? それから――」
アパートと言い切る前に、返答することができない速さで次々と言葉の弾幕が振りかかってくる。
初対面で一方的に質問責めを受けるという、初めての出来事に僕は唖然とし、数秒経過したあとに我に帰った。
「ストップストップ!! 一気に質問されても無理!」
「おぉぅ、すまぬ。人と言葉を交わすのは久方ぶりでの。嬉しくて思わず気分が昂ってもうた」
彼女は帯から扇子を取り出して広げ、口元を覆い隠した。
口元が隠れたことにより、表情が読みづらい。しかし、耳が朱に染まっていることから、扇子の向こうにある恥ずかしげな彼女の表情が簡単に思い浮かぶ。
「と言いますと、どこかの令嬢ですか? もうすぐ日が暮れるけど、帰らなくていいの?」
「今、帰る途中じゃった。して、お主は何じゃ?」
「僕も一応帰宅中です」
ただし、道に迷っています、とまでは言わない。
だって、言っても無駄だろう。箱入り娘がちっぽけなアパートの場所なんか知る訳ない。
「笹塚……アパートじゃったな?」
「うん、そうだけど……それが何か?」
ちゃんと聞いていたんだ。えらい勢いで質問するから聞き逃したと思ったのに。
「笹塚アパートなら向こうの方角に向かって一直線じゃぞ? 笹塚アパートはわらわの住処のすぐ隣じゃからな、しかと記憶しとる」
「…………ぇ」
彼女は僕が進もうとした方角とは真逆の方角に指をさした。あちらの方角に笹塚アパートがあるらしい。
何それ。知ってたのかよ。うわぁ〜、『帰宅中です』と答えたさっきの僕を殴りてー。素直に言えって殴りてー。殴る機会があっても、痛そうだから自分は殴らないけど。
「もしや、迷っておったか?」
「いえ、健康のためにジョギングしようと思って、周り道を使いながら帰宅中でした」
「嘘じゃ。さっきは歩いてたではないか」
「はい、嘘です。あなたの言う通り、迷ってました」
苦しい嘘は一瞬で看破された。元より嘘を押し通せるとは思っていなかったからいいんだけど。
しかし、今更ながら思った。笹塚アパートの近くに、箱入り娘が住んでいそうな家なんてあったかな? うーむ、普通の住宅と小さい雑林、コンビニ……あ、あったあった。なんか屋敷みたいなのが一軒。たぶん、そこの家の人なのだろう。
「なら、お主が迷わぬよう案内してくれよう」
「じゃあ、お願いします」
「うむ、任せよ任せよ」
行く道が同じなら別に構わないと思い、お願いすると彼女は、八重歯を露にして破顔一笑した。 つられて僕も口元を弛めた。今までこのようなタイプの人と交流したことがないから、とても新鮮な気分だ。
心地よい。実に心地よい。彼女の発する雰囲気は僕の淀んだ心を浄化し、包み込む。
ああ……思えば家族以外の人とまともに話をするのは、久方ぶりかもしれない。学校での僕は、上っ面だけ整えた仮面で対応していて、本音を出さない。しかし、今は本音で話している。
彼女に対して本音でしゃべらなくては、という思いに何故か駆られるのだ。ま、いいか。嫌じゃないから。
「いきなり何ボサッと突っ立っておるのじゃ? はよ行かんと日が暮れてしまう。といっても、ここから十分くらいで着くじゃがな」
「ゴメンゴメン、行こうか」
ハッとなって気付き、慌てて先進む彼女と肩を並べて、笹塚アパートを目指して歩む。
「して、して……お主。名は?」
「あー、ほずみ 悠樹」
書き方の説明も付けるべきかと一瞬迷ったが、説明してもしょうもない事なのでやめた。
「八月一日じゃな」
「え、うん、そう。八月一日と書いて『ほずみ』と読むやつさ。でも、よく知ってるね」
虚を突かれた。
まさか僕の名字が読める者が現れるとは思いもしなかった。
「はて、これくらいの読みくらいは当然じゃろう?」「いやいや、ほとんどの人に『ハチガツツイタチさんですか?』なーんていつも言われる」
十九年生きてきたけど、初対面には正しい読みで呼ばれなかった。後の親友はおろか、国語の教師ですら読めなかった名字だ。
それを今日、初めて書き方を知ってる者に出会えたとなると、少し嬉しいものがある。
「君の名前は?」
「しーくれっとで頼む。どうしても呼びたければ、名無しのナナと呼ぶがよい。あ、詮索するでないぞ」
冗談混じりの口調で彼女は言った。その際に向けられた微笑は、僕の目には儚げに映った。
何かを哀しみ、諦めたような……そんな想いが顔に出ていた。
「まぁいいですけど」
家の事情とかがあるのだろう。例えば町を出歩いたら、誘拐されてもおかしくない身分であったりとか、庶民と口を聞くことが出来ないほどの高い身分にいるかとかね。
どういう家の者なのかが多少は気になるが、僕は追及しない。
話したくないことは無理に話させない。人間関係を円滑にする大切な対応だ。
「悠樹はこの町に来たばかりか?」
「うん、昨日の引っ越してきたばかりでね。今日は町の地理を把握しようと出掛けたら、この様さ」
「印象はどうであった?」
印象か……。この町の印象……。通行量が少なく、田畑があり、大きな公園があり、子どもたちは元気よく遊ぶことできる町。喧騒に包まれた都会とは遠く離れた町並みである。だが、そこが良い。
「静か過ごしやすい町だね。他は……着眼点が見つからない」
「わらわもそう思う。これといった特色がないが、誰にでも過ごしやすい町であるの。良き町じゃ」
ナナは嬉しそうに頬を綻ばせる。が、すぐに何かを思い出して意気消沈し、静かに言葉を紡ぐ。
「ただ……昔と比べて人のつながりは希薄になってもうて、お主のような者がいなくなったし、友も消え去った」
町から出ていったというこということだろうか? でも……僕のような者というのはどういうことか? なにかがおかしい。
ナニガ?
なにがって……なんだろう? 奇妙な感覚がするんだ。幼い頃に体験した感覚が。成長したら突如消えた感覚だ。そう……アレは確か――
「悠樹のぅ」
「あ、うん? 何かな?」
名前を呼ばれて思考を遮断し、ナナの方へ顔を向けると、彼女は扇子で僕の横の方を指していた。
敷地内の入口を告げる石柱代わりに桜の樹が二本。その先に二階建ての全八部屋ある古錆びたアパートがあった。
1DKで風呂とトイレ付きで月八万。僕が越してきた笹塚アパートだ。ちなみに家賃の支払いは親だ。
「笹塚アパートに到着じゃ。いやはや、あっという間だの」
「そう……だね」
ほ、ほ、ほ、と愉快げに笑う彼女。まだ、話がしたかった。あれっぽっちじゃ全然足らない。
だってさ……君は仮面を着けずに会話することが出来る、唯一の他人だから。僕の真の友、真の理解者となってくれるに違いない。
だから――
「ナナさん、また会おうよ。いや、絶対に会おう。会って話をしよう?」
「…………人というもの真に自分勝手な生き物、自己中心な者じゃの。無理矢理わらわを勝手に祀り上げて役割を押し付け、必要が無くなるとすぐに忘れ去ってしまう」
「何を言って……」
遠く、遥か遠くを見据えて彼女は語る。その言い方……まるで君が人じゃないみたいじゃないか。
嘘だろう? 君はちゃんと人間の身体を持っているじゃないか。冗談はやめろよ。
「そうして信仰を一定量維持できなくなった、わらわ達は消え去る。また、存在する社が無くなっても消え去る。わらわの社はのう……半年前に撤去されてもうた。そして今日、溜めておいた信仰が尽きる」
彼女は笑う。神聖にして侵されることのない神の笑顔。そこに儚げはあれども悲観は無い。
存在が薄れる。彼女を維持する信仰が尽きるのだ。どうして……どうして君は笑っていられる。
言葉には出せないが、ナナさんには伝わったようだ。
「神はあるがまま全てを受け入れる。良しことだろうと悪しきことだろうと、受け入れるしかないぞよ。それが己の存在の消滅でも……人を恨みはせん。最期まで人を慈しみ、愛す。それがか――」
ナナさんの身体が光の粒子となって離散した。あぁ……消えてしまった。また……消えてしまった。
そうだ……僕は経験していた。幼い頃に神社で同じようなことを……。それだけじゃない。僕は――
「神さんも消えてしまったか。残念なことだ。ま、せめての救いは最期を人の前で迎えたことかな」
笹塚アパートから出てきたのは英語がプリントされた長袖、藍色のジーンズを着ていて、離縁パイプを付けたタバコを吸っている女性。髪はウェーブかかった金色に翠眼をしていた。
この人はナナさんについて何か知っている。
「八月一日悠樹さんだな。人ならざる者が住む笹塚アパートへようこそ」
「人ならざる……?」
「ああ、色んなものが視える君とか、座敷わらしとか雨女とかな。あとは管理人であるこの私だな」
芝居を演じるかのように管理人は、身振りを大げさにする。
管理人の言うことは当たっている。五、六年前からは視なくなって忘れていたが、僕は人に視えないものが視える。幽霊であったり神であったりあやかしであったりと。
「管理人さんは彼女ことを知っているんですか?」
「んーまぁ知ってるちゃあ知ってる。アイツの話はあとにしよう。今は君だ。六十三年振りの入所者だ。君のために歓迎会を開いたんだ――」
「はぁ、それはどうも?」
「――正午からな」
「え?」
正午からって……僕が出かけた時間じゃないか。ってことは皆さん待ってる? それってまずくないか?
「しかし、あいにく君は居なかったからな。君抜きで歓迎会を開いて、みーんなべろんべろんに出来上がっている」
…………僕は絶句した。それは歓迎会と言うのだろうか?
「それって僕いなくても良くない?」
「良くなくない。主役は君なんだ。神さんの話でもしてやる。さ、行くぞ」
管理人さんにもの凄い力で首根っこを掴まれて、笹塚アパートの裏へと引きずられて行く。その最中、僕は日の落ちた空を見上げる。ポツリポツリときらめく星がそこにいた。
……ナナさん。一度だけの出逢いだけれども、君と過ごした時間は絶対に忘れないさ。
一期一会、その出会いには必ず意味がある。意味の無い出会いや物事など存在しない。みーんな何かしらの意味がある。