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『必ず戻る』って言って消えた相棒へ。——三年待った女英雄より  作者: はやんえでぃ


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第9話 遺書が書けない

 王都の家は、静かだった。


 叙勲の翌日。グラオヴァント戦線への出立まで、あと四日。準備期間という名の猶予。


 セレナは何もしていなかった。


 剣を整えていない。装備も確認していない。食事も、まともに取っていない。昨日は一日中ベッドにいた。起き上がる理由が見つからなかった。


 身体が重い。鉛みたいだ。何もしていないのに疲れている。息を吸って吐くだけで、ひどく消耗する。


 テーブルの上に紙とペンを置いた。今朝のことだ。


 遺書を書こうと思った。


 次の戦場で死ぬ。それはもう確信に近い。レオンなしで、あの戦線に立ったら、生きて帰れない。


 だから、書いておこうと思った。レオンに宛てて。最後に伝えたいことを。


 ——書けなかった。


 何を書けばいいか分からない。


 ペンを持って、紙を見つめて、一時間が経った。一文字も書いていない。


 何を伝えたい? 何を残したい?


 分からない。全部ありすぎて、どこから始めればいいか分からない。


 ペンを置いた。椅子に座ったまま、天井を見る。


 ……いつから話せばいいんだろう。



 十五歳。王都に来た日のことを思い出す。


 孤児院を出て、そのまま志願兵になった。家族はいない。帰る場所もない。剣を振るしか生きる方法がなかった。


 石畳が冷たかった。空がやけに高かった。思わず「でっか」と声が出て、教官に叱られた。


 整列した新兵の中で、隣にいた少年。登録番号48。同じ孤児院の出身だった。孤児院ではよく一緒にいた。少なくとも、私はそう思っていた。


 あの子は静かだった。いつも少し離れたところにいて、でも気づくと近くにいた。何か話しかけると、短く答えてくれた。笑うことはほとんどなかったけど、嫌な顔もしなかった。


 怯えも虚勢もない目。碧い。深い。自分を大きく見せようともしない。ただ、この場の情報を全部整理し終えている目。


 最初から、後ろに立つ人間の目だった。白銀に近い髪が風に揺れていて、周りの志願兵たちとは明らかに違う空気だった。


「あんた、剣は?」


「最低限は、扱えます」


「じゃあなんで衛生兵志願?」


「必要だと思ったので」


 十五歳の返事じゃなかった。


 訓練が始まると、違いはすぐに分かった。私は前に出すぎだと何度も叱られた。レオンはほとんど注意されなかった。動きは小さいけど、無駄がない。


 数日後、訓練中に膝を打った。大したことはない。でもレオンが来て「動かないでください」と言った。治癒魔法を使えた。十五歳で。


「もう治癒魔法使えるの」


「必要だと思ったので努力しました」


「ふーん。えらいわね」


「終わりましたよ」


 この人はいつもそうだった。必要だから、やる。それだけ。


 気づけば並んで歩くのが当たり前になった。食事の列も、訓練の列も、自然と隣になる。


 私の階級が上がった。周りが変わり始めた。


 「セレナ」と呼んでいた兵たちが「ヴァレンティス殿」になり、やがて「団長」になった。話しかける声が慎重になった。距離が開いた。


 レオンだけが「セレナ」と呼び続けた。


 食堂で隣に座る人間がいなくなった。席が一つ、二つと空いていく。私が座ると、周りが少し離れる。


 レオンだけが、何も言わずに隣に座った。いつもと同じ顔で。


 階級が上がるたびに、声をかけてくれる人が減った。気を遣われるようになった。遠巻きにされるようになった。


 レオンだけが「怪我はありませんか」と、いつもと同じ声で聞いてきた。初めて会った日と、同じ距離で。


 いや——少しずつ、近くなっていた気がする。


 私が孤立するほど、レオンの距離が縮まった。周りが離れた分だけ、この人が近づいた。意識してやっていたのか、無意識だったのか、今でも分からない。


 でも結果として、気づいたときにはレオンだけが隣にいた。


 それがどれだけ特別か、あの頃の私はまだ分かっていなかった。



 十九になる頃には、何度も戦場に立っていた。


 レオンは英雄医になっていた。戦場で発生するあらゆる重症例に対し、最終判断を下す役職。名目上は衛生兵。実態は、戦局に直結する位置だった。


 そして、私の担当医になった。


 治療記録の対象欄に、自分の名前が載っているのを見た。


 「第五部隊指揮官候補 セレナ・ヴァレンティス。担当医 レオン・グラハム」


 文字として並んだだけなのに、笑いそうになった。


 あの頃から、構造ができた。


 私が前に立つ。レオンが後ろにいる。


 私が無茶をすればレオンが止める。判断を間違えても、レオンが後ろでカバーする。


 負傷者が出ればレオンの判断で処理される。私は前だけ見ていい。


 ——それだけで、最強だった。


 どんな戦場でも負けなかった。どんな前線に立っても、足がすくまなかった。


 全戦無敗。その二つ名がついたのは、この頃だ。


 でも私は知ってた。強いのは私じゃない。後ろにレオンがいるから、強いだけだ。



 壊れたのは、二十二のとき。


 訓練を終えて戻る途中で、呼び止められた。


「セレナ」


 振り返ると、レオンが立っていた。白衣じゃない。書類を抱えている。碧い目がいつもより暗く見えた。


 それだけで嫌な予感がした。


「場所を変えましょう」


 人目を避ける言い方。立ち話で済ませない態度。


 訓練場の端の、使われていない倉庫の前で止まった。


「……前線を離れることになりました」


「は」


「配置換えです」


「誰が決めたの」


「上です」


 嘘だ。知ってる。この人は命令に従っただけじゃない。自分で判断したはずだ。


「なんで」


「今の体制では、守れないものが増えるからです」


 守れないものが増える。この人はいつもそう言う。正しい理由を、正しい言葉で。


「勝手に決めないで」


 声が荒れた。


「私は、どうなるの。私の担当医としての役割を捨てていくの」


「後ろにいるって言ったじゃない。言ったよね」


 涙が落ちた。


「……状況が、変わってしまいました」


「変わったのは世界のほうでしょ。あなたは何も変わってない。それなのに、なんでいなくなるの」


 レオンは動かなかった。逃げなかった。否定しなかった。


「戻ります。必ず」


「嘘っ!」


「ここにいないってことは、同じことでしょ」


 怒りが悲しさを追い越す。


「……私は待たない」


 嘘だと分かっていた。


「待たないからっ」


 踵を返した。振り返らなかった。倉庫の外に出た瞬間、膝が震えた。壁に手をつき、声を殺して泣いた。


 ——あれが、三年前のこと。


 あの日から、全部が変わった。



 ペンを手に取る。


 紙を見る。


 まだ白い。


 無意識に、自分の髪に触れていた。ポニーテール。ずっとこの髪型だ。


 孤児院にいた頃、短く切り揃えた髪を見て、レオンが言ったのだ。「伸ばしてみたら」と。理由も脈絡もない、ただの一言。


 それだけで伸ばした。ずっとロングだ。戦場では邪魔だからポニーテールにしてるけど、短くはしなかった。


 ——あんた、覚えてるのかな。こんなこと。


 たぶん覚えてない。レオンにとっては何でもない一言だったはずだ。


 でも私にとっては全部の始まりだった。あの一言で、この人のことを見るようになった。白銀の髪を目で追うようになった。碧い目が自分を見てるとき、心臓がうるさくなるようになった。


 ——別に、そういうのじゃない。たぶん。分かんないけど。


 でもこの髪は、あの人の一言で伸ばした髪だ。それだけは確か。


 ……レオンは、別の前線に行った。配置換えで。


 三年間、別の戦線で、別の部隊の後ろに立ってた。


 ——もしかして。


 もしかして、私の後ろにいるのが嫌だったんじゃないか。


 私がだめだったから、離れたんじゃないか。


 「守れないものが増える」って言ってたけど、本当は、私の後ろに立つのに疲れたんじゃないか。


 別の誰かの後ろのほうが、楽だったんじゃないか。


 「必ず戻る」って言ったのに三年間戻ってこなかったのは——戻りたくなかったからなんじゃないか。


 ……違う。たぶん違う。分かってる。


 でも、こういう考えが止まらない。夜になると、ずっとぐるぐる回ってる。否定しても否定しても、また浮かんでくる。


 死ぬ前の人間って、こういうことを考えるんだ。


 知らなかった。


 ……何を書けばいいんだろう。


 出会いから全部振り返った。でも言葉にならない。


 「ありがとう」は違う。「恨んでる」も違う。全部本当で、全部違う。


 この人との関係に名前がつかないのは、最初からだった。


 相棒とも違う。親友とも違う。家族でもない。でも他人じゃない。どの言葉を当てはめても、足りないか、余る。


 それを、遺書にどう書けばいいんだ。


 ペンを置いた。


 明日にしよう。


 そう思って立ち上がって、ベッドに横になった。


 眠れなかった。


 目を閉じても頭の中がうるさい。レオンの声がぐるぐる回る。「必ず戻る」「セレナは強い人なので」「分かりました」。どれも静かな声で、どれも優しくて、どれも私を置いていく言葉だ。


 あの声が好きだった。世界で一番安心する声だった。今は一番つらい声になってる。


 何時間経っただろう。窓の外が白み始めた頃、やっと意識が途切れた。


 眠ったというより、身体が限界になって落ちただけだった。



————



 同じ夜。王都の衛生兵宿舎。


 レオンは机に向かっていた。


 目の前に書類が二枚。一枚目、第五騎士団への入団申請書。二枚目、セレナ・ヴァレンティスの担当医申請書。


 ペンを持っている。迷いはない。


 あの日のことを思い出す。七日目。天蓋の中。セレナが崩れ落ちた。白衣を掴んで、泣いて、「いかないで」と言った。


 あの声が、まだ耳に残っている。


 知らなかった。三年間で、セレナがどれだけ壊れていたか。


 七日間、後ろに立って、戦場は回せた。セレナの指揮は正確だった。判断も速かった。強くなったと思っていた。一人でやれるようになったと。


 違った。


 セレナは壊れていた。立っていただけだった。壊れたまま、折れないように踏ん張っていただけだった。


 死にたくなった夜があったと言った。治療棟にも行けなかったと言った。誰にも頼れなくなったと言った。


 全部、聞いていた。全部、覚えている。


 僕が離れた三年間で、セレナは壊れた。


 正しい判断だったかもしれない。セレナのことになると頭が真っ白になる自分が怖かった。このまま後ろに立ち続けたら、いつか判断を誤ってセレナを殺す。だから離れた。


 でも、離れたことで別の形でセレナを壊していた。


 ——もう、離れない。


 ペンが走る。


 入団理由の欄。何を書けばいいか。「セレナが壊れていたから」とは書けない。


 英雄医としての権限を使う。英雄医は、特定の部隊への配属を自ら申請できる。通常の衛生兵にはできないことだ。三年間各地を回って積み上げた実績と、その肩書きが、今ここで意味を持つ。


 配属先の欄に書く。「第五騎士団」。


 担当の欄に書く。「セレナ・ヴァレンティス」。


 配属期間の欄——空欄にした。


 期限はつけない。


 カイルが部屋の入り口に立っていた。


「……レオンさん、まだ起きてるんですか」


「もう少しで終わります」


「何書いてるんですか」


「……申請書です」


「申請書? こんな時間に?」


「……明日の朝一番で提出したいので」


 カイルが書類を覗き込んだ。目を見開いた。


「……第五騎士団への入団申請。担当、セレナ・ヴァレンティス。——レオンさん、これ」


「はい」


「本気ですか」


「本気です」


「……あの日のこと、ですか」


「……はい」


 カイルは少し黙った。それから、小さく笑った。


「三年間一緒にいましたけど、レオンさんがこんな顔で書類書いてるの、初めて見ました」


「……どんな顔ですか」


「怖い顔です。でも——いい顔です」


「……意味が分かりません」


「分からなくていいです。——行ってきてください」


「……ありがとうございます」


 カイルが部屋を出て行った。


 レオンは申請書に最後の署名をした。


 レオン・グラハム。英雄医。


 ペンを置く。手は震えていない。迷いもない。


 同じ夜、同じ王都で。


 セレナは遺書が書けなくて眠れない夜を過ごしている。


 レオンは、セレナのもとに戻るための書類を書き終えた。


 同じ空の下にいる。でもまだ、繋がっていない。


 ——もう少しだけ、待っていてください。


 誰にも聞こえない声で、そう思った。

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