第8話 叙勲
レオンが去って、三日。
王都に戻された。叙勲だって。ヴェルデン戦線の功績で勲章をもらうらしい。
通達を読んで、何も感じなかった。あの戦場をひっくり返したのは私じゃない。後ろにいたあの人だ。でもそんなこと、誰にも言えない。
式典場は広かった。
高い天井。磨かれた床。並ぶ文官と騎士たち。前線の泥と血とは別の世界。ここにいる人間は、誰も剣を振ったことがない。
正装を着せられた。鎧じゃない。白い布の礼服。勲章を留めるための、飾りみたいな服。
鏡に映った自分を見た。知らない人がいた。目の下に隈。頬が痩けてる。それなのに正装だけは立派。
——ちぐはぐだ。中身がボロボロなのに、外側だけ綺麗にされてる。
名前を呼ばれた。前に出る。足は動く。笑顔は作れる。もう慣れた。
偉い人が何か言ってる。功績がどうとか、国のためにどうとか。聞いてない。
胸元に勲章が留められた。
金属が触れた瞬間、息を吸い損ねた。
重い。思ってたより、はるかに。
拍手が鳴る。大きい。式典場全体に響く。
「素晴らしい」
「三年間押されていた戦線を、たった一日で奪還した英雄だ」
「やはり全戦無敗は伊達じゃない」
——たった一日で奪還した。
その一日に、何があったか知ってるの? 誰が後ろにいたか知ってるの?
知らない。誰も知らない。
見てるのは勲章と肩書きだけ。
「セレナ殿、握手を」
差し出された手を握る。笑顔で。何人も。何人も。
「娘が騎士を目指しておりまして。あなたのような方が目標だと」
「光栄です」
嘘。あなたの娘をこんな場所に立たせないでほしい。
「私の部隊にも、あなたのような指揮官がいれば」
「ありがとうございます」
いない。こんな人間はいないほうがいい。壊れてるだけだから。
「次の戦線も、期待しております」
——次。
まだ勲章の重さに耐えてるのに、もう次の話をされてる。
「セレナ殿。少しよろしいでしょうか」
上官に呼ばれた。式典場の裏。人の少ない廊下。拍手の余韻が遠ざかっていく。
地図が広げられる。赤い線。青い線。
「グラオヴァント戦線です」
指が置かれた場所を見た瞬間、分かった。
——無理だ。
敵の戦力が厚すぎる。地形が悪い。補給線が細い。後方の衛生体制は、レオンが去った今、元に戻ってる。
ヴェルデンのときとは全部違う。あのときはレオンがいた。あの白銀の髪が後方にいた。あの碧い目が全部を見てた。あの手が全部を回してた。
今はいない。
「今回の功績を鑑みて、あなたなら可能だと判断しました」
——あの功績は、私一人のものじゃない。
言えない。言ったところで誰にも伝わらない。勲章が胸にある。それが全てを証明してしまってる。「この人にはできる」と。
地図を見つめる。答えは一つしかない。
ここで死ぬ。
レオンなしで、この戦場に立ったら、死ぬ。
「……承知しました」
自分でも驚くほど滑らかだった。声は震えてない。表情も崩れてない。
「やはり」「さすがだ」「期待に応えてくれると思っていました」
期待。この言葉が一番重い。勲章より重い。
期待に応えてしまった人間は、次の期待を断れない。断ったら、今まで応えてきた全部を否定することになるから。
これは祝福じゃない。終わらない命令だ。
——でも、もう断り方を知らない。
気づいたときには、トイレの個室にいた。
いつここまで歩いてきたのかも覚えてない。
扉を閉めて、鍵をかけて、壁に背中を預けた。
膝から力が抜けた。正装のまま、床に座り込む。
涙が出た。止まらない。
勲章の上に涙が落ちる。ぽた、と。金属の表面が濡れて、光が歪む。
——こんなもののために。
違う。これは褒美なんかじゃない。
罰だ。期待に応えてしまった者への、静かで逃げ場のない刑罰。
正装が涙で濡れていく。さっき鏡で見た綺麗な自分が、今は床に座って泣いてる。
式典場では、まだ拍手が聞こえてる。私を称える声が。
その声が聞こえる場所で、一人で泣いてる。
——誰にも聞こえない。誰にも見えない。それが英雄だ。
ふと、思ってしまった。
グラオヴァント戦線。あの地図。一人じゃ無理な場所。
そこで、もし。もし自分が戦死したら。
その報告が、レオンのもとに届いたら。
あの碧い目が揺れるだろうか。あの静かな声が震えるだろうか。あの白銀の髪が——揺れるだけで終わるだろうか。
衛生兵としてでも、担当医としてでもなく。ただ一人の人間として。
——後悔してくれるだろうか。
戻ればよかったと。あのとき後ろに残るべきだったと。
ほんの一瞬でも、胸の奥を掻きむしられるような後悔を、してくれるだろうか。
私がいなくなったとき、あの人の中に何か残るだろうか。
三年間待ち続けた馬鹿な女がいたことを。あの人の声が好きで、あの人の手に触れられるだけで安心できて、あの人の後ろに立つためだけに生きてた女がいたことを。
——ちゃんと覚えていてほしい。
それだけでいい。それだけで、少しだけ楽になる気がした。
——ああ。
私はもう、助かろうとしてない。
生きたいとも、死にたいとも、ちゃんと思えてない。
ただ、これ以上期待に応える力が残ってない。
グラオヴァントで死んだら、レオンが後悔してくれる。
そう思ってる自分がいる。
醜い。分かってる。
でも。
セレナは涙で濡れた勲章を握りしめながら、もうその自分を否定しなかった。
式典場からは、まだ拍手が聞こえていた。




