第7話 七日目
朝は、いつもと同じだった。
目が覚めて、天幕を出る。空気が冷たい。でも嫌じゃない。今日もレオンがいる。それだけで朝が軽い。
「団長、おはようございます」
「おはよう」
エリクが書類を持って立ってた。朝の報告。毎日のこと。
「本日の配置確認です。前線は休止、哨戒のみ。補給が午後に到着予定。それと——」
エリクが書類をめくる。
「臨時配属の衛生兵が本日付で配属解除です。原隊復帰の手続きを進めます」
「……なに?」
「臨時配属の衛生兵です。七日間の期間満了で——」
「誰の話」
「レオン・グラハムです。団長、ご存じなかったんですか?」
エリクは何でもない顔をしてる。報告事項の一つ。よくあること。
足の裏から、冷たいものが這い上がってきた。
「……七日」
「ええ。初日が団長の負傷された夜ですから、今日でちょうど七日目ですね」
「……下がっていいよ」
「顔色悪いですが、大丈——」
「下がって」
エリクが去った。
手の中の書類を見る。臨時配属。期間七日。配属解除日——今日。
あの日、天幕のテーブルに置いてあった配置記録。嬉しくて泣いて、涙で滲んで読めなかった部分。
最初から、ここに書いてあった。
東の第二治癒天蓋に歩いた。走れなかった。
中にレオンがいた。荷物をまとめてる。器具を一つずつ布で包んで、箱に入れてる。
帰る準備をしてる。
「レオン」
振り返る。セレナを見て、一瞬だけ目が揺れた。
「……七日だったんだね」
「……はい」
「知ってたんだ。最初から」
「……はい」
「……ねえ。私が来月の話をしたとき。王都に帰れるかもって。あんた、黙ってたよね」
「……はい」
「なんで止めなかったの」
「……セレナは知っていると思っていました」
「……え?」
「配置記録は天幕に置いてありました。期間も記載されていた。だから知った上で、それでも前を向いて話しているのだと」
「……知ってると思ってた」
「はい。セレナは強い人なので」
知ってると思ってた。
七日で終わると分かった上で、それでも笑えるくらい強い人だと。
違う。何も知らなかった。ただ馬鹿みたいに信じてただけ。
「……私は、知らなかった。涙で滲んで、読めなかったの」
レオンの表情が変わった。自分が取り返しのつかないことをしたと気づいた顔。
「知ってたら、あんなふうに笑わなかった。全部本気だったんだよ。全部本気で幸せだったんだよ」
レオンの手が震えた。初めて見た。
「……すみません」
「すみませんで済むわけないでしょ……!」
ここまでは、まだ耐えてた。
でも——怒れない。レオンが決めたことじゃない。命令だ。レオンは悪くない。誰も悪くない。誰にも怒れない。怒れないから全部自分に返ってくる。
「……ねえ」
「はい」
「いかないで」
声が、壊れた。
自分でも驚いた。こんな声が出るんだ。こんなみっともない、ぐちゃぐちゃの声が。
「いかないでよ」
白衣を掴んだ。両手で。力いっぱい。
「いかないで。お願い。お願いだから」
「セレナ——」
「もう無理なの。一人は無理。三年やった。三年やったんだよ。もう十分でしょ」
涙が止まらない。鼻水も出てる。顔がぐちゃぐちゃ。団長の顔じゃない。英雄の顔じゃない。
そんなこと、もうどうでもいい。
「死にたくなったって言ったじゃん。聞いてたでしょ。あんたの前で言ったでしょ」
「……」
「嘘じゃないんだよ。本当に死にたかった。立てなくなった。剣が持てなくなった。食べられなくなった。眠れなくなった」
「怪我しても治療棟に行けなかった。あんたがいた場所だから。行ったら思い出すから。傷を放置して熱出して、誰にも言わなかった」
「あんたがいなくなってから、誰にも頼れなくなった。もう二度と誰かに頼ったら壊れると思って、全部一人で抱えた。エリクにすら弱音吐けなかった」
「治癒魔法の光を見るたびに心臓が止まりそうだった。別の衛生兵の光があんたに似てて、毎回一瞬だけ期待した。毎回違った。それを何百回も繰り返した」
「部下が死んだとき、泣けなくなった。泣いたら立てなくなるから。感情を殺した。人が死んでも何も感じないようにした。壊れてるのに壊れてないふりしてた」
「『強い』って言われるたびに死にたくなった。強いんじゃない。壊れてるだけ。壊れてるから感情が出ないだけ。それを英雄って呼ぶの」
「誰にも言えなかった。全部。三年間、全部一人で」
「それでも立ったの。あんたが戻ってくるからって。それだけで」
「やっと帰ってきたと思った。やっと終わったと思った。もう一人じゃないって。もう壊れてるふりしなくていいって——」
声がひっくり返る。嗚咽が混じる。
「なのにまた行くの? また一人にするの?」
「次は耐えられない。絶対に耐えられない」
「……セレナ」
「いかないで」
「……」
「いかないって言って。言うまで離さないから」
白衣をぐしゃぐしゃに握りしめて、縋りついて。
みっともない。分かってる。でも止められない。理性が全部吹っ飛んだ。残ってるのは「いかないで」だけ。
「お願い……お願いだから……」
膝が折れた。白衣を掴んだまま、崩れ落ちた。
「私から行かないで……もう一人はいやだよ……」
床に膝をついて、白衣に顔を押し当てて、泣いた。子どもみたいに。三年分の全部が壊れて、溢れて、止まらない。
レオンは動かなかった。
逃げなかった。否定しなかった。触れなかった。
ただ、そこにいた。
——それが一番残酷だった。
逃げてくれたほうが楽だった。突き放してくれたほうが諦められた。
でもこの人は逃げない。逃げないのに、去る。
優しいまま、そこにいたまま——去る。
泣き声が小さくなっていった。枯れたんじゃない。身体が限界になっただけ。
白衣に顔を埋めたまま、最後にもう一度だけ言った。
「……いかないで」
レオンは答えなかった。
答えられなかった。




