第6話 いい日
休息日だった。
前線に出なくていい。剣を握らなくていい。判断しなくていい。
セレナは朝からご機嫌だった。自分でも分かるくらい。
「……なんか今日、顔が違いますね、団長」
「そう?」
「いつもの三倍くらい緩んでます」
「うるさいな。休みくらい緩ませてよ」
兵たちが笑っている。最近、部隊の空気が変わった。みんな少し明るくなった。ヴェルデン戦線を奪還した勢いが、まだ残っているのかもしれない。
——違うけどね。私が機嫌いいだけだよ。
昼前に、食堂に向かった。
レオンはもう座っていた。いつもの奥の席。背筋が伸びていて、前に小さな器具の手入れ道具が並んでいる。白銀の髪が窓からの光を受けて、少し透けて見える。食堂で器具の手入れをするな。でも絵になるから困る。
「何してんの」
「メンテナンスです」
「食堂で?」
「待ち時間を有効に使っています」
「待ってたの?」
「……来ると言っていたので」
来ると言ったから待っていた。それだけ。この人はいつもそう。約束は守る。ちゃんと待つ。
——私も、三年間そうだった。
「ご飯頼もう。今日は何がある?」
「スープと、パンと、昨日と同じ煮物だそうです」
「代わり映えしないね」
「前線ですから」
「知ってる」
同じやりとり。昨日もした。でも嫌じゃない。
配膳が来た。座って、食べる。
レオンがパンを小さく均等にちぎる。私は大きくちぎる。向かい合って、黙って食べる。
たまに窓の外を見る。兵たちが歩いている。急いでいない足取り。怯えていない顔。昨日の勝利が、前線全体に安心を広げている。
「……ねえ」
「はい」
「昨日の戦闘のあと、兵たちの顔見た?」
「ええ」
「変わったよね」
「はい。明らかに」
「あれ、あんたのおかげだよ」
「セレナの指揮です」
「またそうやって逃げる」
「事実を——」
「言ってるだけ。はいはい」
スープを飲む。昨日より、ちょっとだけ味が濃い気がする。気のせいかもしれない。
「……ねえ」
「はい」
「今、幸せかも」
軽く言った。スープの器を両手で包みながら。
レオンはスープの器を持ったまま、少しだけ止まった。
「……そうですね」
短い答えだった。でもそれで十分。
食べ終わってからも、しばらく座っていた。
「どこか行く?」
「特に予定はありません」
「じゃあ散歩しよう」
「散歩ですか」
「嫌?」
「いいえ。ただ、前線で散歩というのは」
「いいじゃん。休息日だし。昨日勝ったし」
「……そうですね」
天蓋を出て、歩いた。
前線の端、戦場から少し離れた丘の方へ。ここまで来ると、空が広い。風が少し冷たいけど、日差しは暖かい。
並んで歩く。いつもの距離。半歩前と半歩後ろ。
「ねえ」
「はい」
「三年間さ、こういうことしたかったんだよね」
「散歩ですか」
「散歩っていうか——何でもないこと。何も考えないで、隣にいるだけの時間」
「……」
「戦場にいると、そういうの全部なくなるでしょ。毎日が判断で、毎日が命懸けで。ぼーっとする時間なんてなかった」
「一人だったから?」
「……うん。一人だったから」
風が吹いた。髪が揺れる。
「二人だと、こういう時間が作れるんだよね。不思議」
「不思議ではないと思います。役割が分担されるので、余白が生まれるんです」
「余白」
「はい」
「……いい言葉」
余白。三年間、私にはそれがなかった。全部埋まってた。判断と恐怖と疲労で。
今、余白がある。何も考えなくていい時間がある。
隣に、レオンがいるから。
「ねえ」
「はい」
「あんたは楽しい? 今」
「楽しいという感覚は——」
「またそれ?」
「——いえ」
レオンが少し考えてから言い直した。
「……悪くないです」
「悪くない、ね」
「はい」
「あんたの『悪くない』は、他の人の『最高』くらいだと思ってるけど」
「……どうでしょうか」
否定しなかった。
セレナは笑った。
丘の上に腰を下ろした。レオンも隣に座る。珍しい。この人が地面に座るのは、あまり見ない。風が白銀の髪を揺らしてる。碧い目が遠くを見てる。穏やかな顔。こんな顔、三年前は見たことなかったかも。
「汚れるよ?」
「洗えば済みます」
「……あんた、今日ちょっと変じゃない?」
「そうですか」
「なんか、柔らかい」
「……気のせいです」
気のせいじゃない。でも、追求しない。今はこのままでいい。
風が吹いている。遠くで兵たちの声がする。空が高い。
二人とも、しばらく黙っていた。沈黙が心地いい。気まずさがない。三年前と同じだ。
「……ねえ」
「はい」
「私さ」
「はい」
「ねえ、ヴェルデン奪還したし、来月には王都に戻れるかもね」
「……どうでしょうか」
「戻ったらさ、前に行った食堂まだあるかな。あそこのスープ、ここの三倍は美味しかったよね」
レオンは答えなかった。
風が吹いた。それだけだった。
——まあいいや。帰ったら一緒に行こう。
セレナは目を閉じて、風を感じた。暖かくて、静かで、安全な時間。
三年ぶりの余白。
三年ぶりの、何でもない日。
これが毎日続けばいいのに。
夕方になって、天蓋に戻った。
別れ際、レオンが言った。
「明日もありますから」
「うん。当たり前でしょ」
セレナは手を振って、自分の天幕に戻った。
足が軽い。身体が軽い。世界が明るい。
今日は、いい日だった。
明日も、いい日だ。きっと。
——その夜。
副官のエリクが書類の束を整理していた。
配置記録。移動命令。補給の報告。いつもの事務作業だ。
その中に、一枚の紙があった。
師団本部からの通達。
「臨時配属衛生兵レオン・グラハム、配属期間満了につき原隊復帰。移動日——」
エリクはその紙に確認印を押して、明日の報告書類の一番上に置いた。
特に何も思わなかった。一時配属の衛生兵が帰る。よくあることだ。




