第5話 後ろにいる
翌日、前線に出た。
レオンには「もう一日休んでください」と言われた。無視した。
「昨日も同じこと言いましたよね」
「言った。で、今日も出る」
「判断として——」
「私の判断で出る。あんたの判断は後方で発揮して」
「……分かりました」
渋々だった。でも止めなかった。レオンは、本当にだめなときは絶対に引かない。引いたということは、大丈夫だと判断したということだ。
前線に立つ。
剣を握る。空気が冷たい。敵の気配がある。
いつもと同じ戦場だ。いつもと同じ配置。いつもと同じ私。
——でも、全然違う。
後ろに、レオンがいる。
後方治療天蓋にレオンが入った瞬間から、空気が変わったのが分かった。衛生兵たちの動きが揃い始める。声が落ち着く。無駄が消える。
振り返らなくても分かる。後ろが、回ってる。
「団長、前線動きます!」
「了解」
号令。前線が動く。
敵が来る。踏み込む。斬る。戻る。
——軽い。身体が軽い。剣が軽い。同じ剣なのに、昨日までと全然違う。
「団長、右!」
「見えてる」
斬り返す。一人落とす。味方が崩れた。
「下げて!」
後方が動く。
——速い。半拍の遅れがない。負傷者が出た瞬間に、もう後ろが動いてる。迷いがない。
これだ。これが、あの人が後ろにいる戦場だ。
「第三小隊、左に寄せて!」
叫ぶ。前だけ見て叫ぶ。後ろを気にしなくていい。自分は前だけでいい。
一人で二人分やらなくていい。
——こんなに、楽だったのか。
左翼が押され始めた。敵の増援が来てる。数が多い。
判断しなきゃ——と思った瞬間、後方からレオンの声が飛んだ。衛生兵への短い指示。それだけで後方が動き、負傷者が処理され、兵が前線に戻る。
私が判断する前に、もう終わってる。
そして——それだけじゃなかった。
前線が、押し返され始めた。
さっきまで膝をついていた兵が立っている。下げたはずの負傷者が、もう列に戻っている。一人じゃない。二人、三人、四人。次々と。しかも動きがいい。さっきまで血を流していた人間の動きじゃない。
「——え、あいつさっき腕やられてなかった?」
隣の兵が呟いた。私も見ていた。左腕を深く斬られて、自力では剣も握れない状態で下げられたはずだ。
それが今、両手で剣を振っている。
後方から光が見えた。治癒魔法の展開。
——え、なにあれ。規模がおかしい。
普通、治癒魔法って一人に一人だ。一人に集中して、全力でやって、やっと傷が塞がる。
あれは違う。天蓋全体を覆ってる。しかも——ちょっと待って、光の強さが場所によって違う? 重傷の人のところは強くて、軽傷の人のところは薄い。一人ひとり変えてるの? 全員同時に?
嘘でしょ。
しかもあの人、片手で治癒魔法やりながら、もう片方の手で止血して、口で衛生兵に指示出して、目で前線見てる。同時にいくつやってんの。四つ? 五つ? 数えるのが馬鹿らしくなる。
右翼で悲鳴が上がった。兵が一人、胸を貫かれて倒れた。致命傷に近い。普通なら——もう助からない。
後方からレオンの声。
「右翼の負傷者、こちらに。四十秒で戻します」
四十秒。胸を貫かれた人間を、四十秒で。
担架が走る。天蓋に運び込まれる。——本当に四十秒後、その兵が立ち上がった。自分の足で。
周りの兵が凍りついた。ありえないことが、目の前で起きている。
でも、まだ終わらなかった。
敵の増援がさらに来た。数で押してくる。左翼が再び崩れかけた。右翼も押されている。さすがにきつい。
治癒だけじゃ足りない。回復が追いついても、敵の数が多すぎる。
——そう思った瞬間だった。
後方から、別の光が広がった。
治癒魔法の光とは違う。もっと硬くて、白に近い、鋭い光。
それが後方から前線に向かって伸びてきた。地を這うように、兵たちの足元を滑るように。
光がセレナの身体に触れた。
——は。
熱い。身体の奥から力が湧いてくる。腕に力が漲る。さっきまでの疲労が嘘みたいに消えた。剣がもう一段軽くなった。足が速い。視界が広い。
強化魔法だ。
——ちょっと待って。治癒魔法と同時に、強化魔法を展開してる? 前線の全員に?
正気?
治癒だけでもありえなかったのに、そこに強化重ねてるの? 二種類同時? しかもこの範囲?
そんなこと、できる人間いるの?
——いる。後ろにいる。
前線の兵たちの動きが変わった。さっきまでと次元が違う。
みんな速い。強い。さっきまで怯えてた新兵が、迷いなく踏み込んでる。身体が軽いから怖くない。怖くないから迷わない。迷わないから正しく動ける。
「なんだこれ——身体が勝手に動く!」
「強化魔法だ! でも誰が——」
「後方からだ! 後方から強化が飛んできてる!」
「嘘だろ!? 強化魔法は触れてないとかけられないはずだぞ!?」
「しかもこの強さ、おかしくないか!? 今までの強化と全然違う!」
兵たちがざわめいてる。当たり前だ。強化魔法の遠距離展開なんて、この世界の常識ではありえない。触れて、集中して、一人にかけるのが普通。それを後方から前線全体に、しかもこの強度で?
聞いたこともない。
でも——私は知ってる。これができる人間を一人だけ知ってる。
セレナは叫んだ。前線全体に響く声で。
「後方にいるのは英雄医のレオンだ! 後ろは全部あの人が支えてる! お前たちは前だけ見ろ!」
——空気が変わった。
「英雄医——レオン様が!?」
「あの伝説の——各地の戦線を渡り歩いてるっていう——」
「神出鬼没で、姿を見た者がほとんどいないっていう噂の!?」
「レオン・グラハムが後ろにいるのか!?」
「だからこの強化——! ありえない強さの理由はこれか!」
「レオン様がいるなら——負けない!」
名前が広がっていく。英雄医レオン。伝説の衛生兵。その名前が前線を走る。
兵たちの目が変わった。恐怖が消えた。確信に変わった。後ろにあの人がいる。負けるわけがない。
同じ人間だよ? 名前一つでこんなに変わるの?
——変わる。後ろを信じてる兵は、強い。
もう別の軍隊だ。
左翼が押し返した。右翼も持ち直した。中央は完全にこちらのものだ。
もう一方的だった。
こっちは倒れても治されて、強化されて、戻ってくる。敵から見たら最悪だろうね。倒しても倒しても立ち上がって、しかもさっきより強くなってるんだから。そりゃ逃げたくもなるよ。
敵の動きが鈍った。迷いが見える。指揮系統が揺らいでいる。
「全隊、押し込め!」
セレナが叫んだ。声がよく通る。強化のおかげだ。
前線が一斉に動いた。怖さのない兵は強い。後ろを信じている兵は、もっと強い。
敵が退いた。最初は一歩ずつ。それがすぐに崩れて、走り始めた。
撤退じゃない。潰走だ。
追撃はしない。それがセレナの判断。でも後方からも同じタイミングで声が出ていた。「追撃不要。負傷者の最終確認を優先してください」。レオンの声だった。
同じ判断。同じタイミング。言葉を交わしてもいないのに。
敵の姿が消えていく。土煙だけが残っている。
セレナは剣を持ち上げた。
前線の兵たちが振り返る。全員がセレナを見ている。
「——ヴェルデン戦線、奪還!」
声が戦場に響いた。
「我々第五騎士団の、勝利だ!」
一瞬の静寂。それから、爆発するような歓声が上がった。
剣を掲げる者。叫ぶ者。膝から崩れ落ちて泣く者。
三年間、この戦線はずっと押されていた。何度攻めても取り返せなかった。何人も失った。何度も崩れた。
それが今日、たった一日で奪還された。
セレナは剣を掲げたまま、笑っていた。
団長として。英雄として。——じゃなくて、ただの一人の人間として。
嬉しくて笑ってる。初めてかもしれない。戦場で、本当に嬉しくて笑ったのは。
後方の治療天蓋のほうを見た。白い天蓋の入り口に、レオンが立っていた。器具を手にしたまま、こちらを見ている。
遠い。表情は見えない。
でも、分かる。あの人も今、同じことを感じている。
セレナは剣を下ろして、小さく呟いた。兵たちの歓声にかき消されて、誰にも聞こえなかった。
「——ありがとう」
完全勝利だった。
戦場全体が、たった一人の人間を中心に回っていた。後方にいる、たった一人の衛生兵。
これがレオンだ。
私が三年間、ずっと後ろにいてほしかった人。この人がいないまま、一人で全部やろうとしてた。
無理に決まってる。こんなの、代わりなんかいるわけない。
笑った。声を出して笑った。
これだよ。これ。この感覚。
三年間、ずっとこれが欲しかった。
「お疲れ様です、団長」
「うん」
笑ってみせる——じゃなくて、普通に笑った。作り物じゃない笑顔。
「……団長、今日なんか楽しそうですね」
「そう?」
「いつもと全然違います」
そうだよ。全然違う。昨日まで毎回死にそうな顔で立ってたんだよ、私。でも今日は違う。後ろが空いてないから。
負傷者の報告が来る。
「死者ゼロ。重傷者ゼロ。軽傷者七名、全員処置済み、全員前線復帰済み」
……死者ゼロ。重傷者ゼロ。全員復帰。
この規模の戦闘で、この数字は聞いたことがない。
全部、後ろの力だ。
天蓋に向かって歩いた。
入り口にレオンがいた。器具を片づけている。白銀の髪が汗で少しだけ額に張り付いてる。でも疲れた顔はしていない。息も乱れていない。あれだけのことをやって、この人は平然としている。
……ずるいな。こんなことしておいて、涼しい顔してる。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
「今日、やばかったね」
「通常の業務です」
「あれが通常なわけないでしょ。治癒と強化を同時に前線全員にかけてたじゃん」
「必要だと判断したので」
「あんた、三年前より強くなってない?」
「……どうでしょうか。必要だったので、努力しました」
さらっと言った。この人はいつもそうだ。とんでもないことを「必要だったので」で済ませる。碧い目が、何でもないように器具を見てる。その横顔がきれいで、ちょっと腹が立つ。
「ねえ」
「はい」
「今日の戦場、後ろから見てどうだった」
「セレナの判断は正確でした。ただ、左翼への意識の割き方に癖が出ています。昔はなかった」
「……一人で後ろも見てたからね。左が一番崩れやすかったから、つい」
「もうその必要はありません」
「……うん」
もうその必要はない。その言葉が、胸に染みた。
「ねえ、レオン」
「はい」
「ずっとこうだったらいいのにね」
軽く言った。本音だけど、軽く。
レオンは答えなかった。
少しだけ間があって、器具を片づける手が一瞬止まって、また動き出した。
「……明日の休息日、食堂で昼を一緒にどうですか」
答えになってない。でも、誘ってくれた。この人から誘ってくることなんて、ほとんどない。
「うん。行く」
即答した。即答しすぎたかも。でもいい。嬉しいんだから。
セレナは笑った。
いい日だ。昨日もよかったけど、今日はもっといい。
明日も、明後日も、きっとこうだ。
そう思えることが、三年ぶりだった。




