第32話 いない
朝。レオンの部屋のソファで目が覚めた。
毛布がレオンの匂いがする。目が腫れてる。
ベッドはきれいに整えられてる。レオンはもういない。台所から音がする。朝食を作ってる。いつも通り。
「おはようございます」
「……おはよう」
「目が腫れていますが」
「寝すぎた」
「そうですか。——朝食、できています」
テーブルに座った。パンとスープ。レオンが向かいに座る。パンを小さくちぎる。いつも通り。
好きだ。その手が好きだ。
もう止められない。
「今日の訓練ですが——」
「行けない」
「……え?」
「今日は休む。体調悪い」
「……どこか痛みますか。診ましょうか」
「いい。大丈夫。ちょっとだるいだけ」
レオンの碧い目が私を見てる。穏やかで、静かで、いつもの目。
「分かりました。無理はしないでください」
「……うん」
レオンが出て行った。「行ってきます」って言って。ドアが閉まった。
一人になった。
家が静かだ。
ソファに座れない。あそこに座るとレオンが見えるから。台所にも行けない。エプロンしたレオンが見えるから。
自分の部屋に戻った。ベッドに横になった。天井を見てる。
——全戦無敗の女英雄が、ベッドから動けない。
敵にやられたんじゃない。戦場で怪我したんじゃない。
好きな人が他の女の子と笑ってただけで、こうなった。
天井を見てると、想像が始まる。止められない。
レオンとミラ。
ミラは毎日レオンの隣にいる。同じ天蓋で、同じ仕事をして、同じ時間を過ごしてる。まっすぐで、素直で、好きだって隠さない子。
いつかミラが「好きです」って言う。あのまっすぐな目で。
レオンは最初は「分かりません」って答えるかもしれない。でもミラは諦めない。毎日隣にいて、毎日笑って、毎日「レオンさん」って呼ぶ。
いつか。レオンが「はい」って言う。あの低い声で。
——やめろ。
やめられない。
レオンがミラと付き合ったら。
「セレナ、少し話があります」って言われる。
「ミラと、一緒に暮らすことになりました」
あの穏やかな声で。あの碧い目で。
この家から出て行く。
遺書を隠した引き出しがある家。スープを作ってくれた台所。ソファでごろごろした居間。髪を下ろしたら固まった夜。雨の日に上着を貸してくれた帰り道。
全部、ここにある。全部消える。
半歩後ろの足音が消える。「おはようございます」が消える。パンを小さくちぎる手が消える。隣の部屋の呼吸が消える。
全部消える。また。
そしてレオンとミラの間に、子どもができる。
白銀の髪の子どもかもしれない。碧い目の子どもかもしれない。
レオンが抱き上げる。あの長い指で。あの丁寧な手つきで。子どもが笑う。レオンが笑う。あの微かな笑顔。世界で一番きれいな顔。
ミラが隣にいる。幸せそうに。
普通の家族。普通の幸せ。朝起きて、ご飯を食べて、一緒に出かけて、夜は一緒に眠る。
レオンにも、それが手に入る。手に入るべきだ。この人は幸せになるべき人だ。
——そこに、私はいない。
一人で。前線で。剣を振ってる。後ろが空いてる。
三年間と同じ。いや、もっとひどい。
三年前は「必ず戻る」があった。
今度はない。レオンが自分の家族を選んだら、私のところには戻らない。
「セレナの相棒なので」が「ミラの夫なので」に変わる。
——私は、あの人の人生に必要ない。
必要なのは私のほうだけ。壊れるのは私のほうだけ。いつも、いつも、私のほうだけ。
涙が出た。止まらない。枕が濡れてる。
——この人に出会わなければよかった。
また思った。取り消さなきゃ。出会わなかったら十五歳で終わってた。
……取り消せない。
今日は、取り消せなかった。
好きだって認めたら楽になると思った。嘘だった。もっと苦しくなった。好きだから想像する。想像するから壊れる。
——消えたい。
死にたいんじゃない。消えたい。この感情ごと。全部。
三年間はそうやって生きてた。感情を殺して、仮面を被って、前に立ち続けた。
またそうすればいい。
——できない。もう無理。好きだって認めてしまったから。仮面が被れない。
あの碧い目を見たら溢れる。あの声を聞いたら崩れる。あの手に触れられたら壊れる。
どうすればいいの。
誰か教えてよ。
時計を見た。夕方だった。一日中ベッドにいた。食べてない。飲んでもいない。
叙勲のあとの夜と同じだ。遺書が書けなかった夜と同じだ。
あのときは、レオンがいなくて壊れた。
今は、レオンがいるのに壊れてる。
いないから壊れるのと、いるのに壊れるのと。どっちが残酷か。
どっちも地獄だ。
玄関のドアが開いた。
「ただいま戻りました」
返事をしなきゃ。声が出ない。
「……セレナ?」
足音。部屋のドアの前。
「入ってもいいですか」
「……うん」
ドアが開いた。レオンが立ってる。白銀の髪。碧い目。いつも通り。何も変わってない。
——この人は平気だ。私が一日中ベッドにいても。訓練を休んでも。
「……一日中、ここにいたんですか」
「……うん」
「食事は」
「……取ってない」
「水は」
「……飲んでない」
「起きてください。水を飲みましょう」
「……動けない」
「動いてください」
「……無理」
「セレナ」
あの声。静かで、低くて、でも強い声。
「僕の患者は、僕の言うことを聞いてください」
——ずるい。
起き上がった。水を飲んだ。冷たい。
「……明日は、訓練に出てください」
「……」
「セレナが休むと、部隊が不安になります」
——部隊が。
部隊が不安になる。「僕が」じゃなくて「部隊が」。
……そうだよね。この人にとって、私が休むのは「部隊の問題」。それ以上でもそれ以下でもない。
「……出る」
「はい。——何か作ります」
レオンが台所に行った。あの背中。白銀の髪。
あの背中がいつかこの家を出ていく。ミラの隣に行く。普通の家族になる。普通の幸せを手に入れる。
そこに私はいない。
スープの匂いがしてきた。レオンが作ってる。
——今だけは、まだここにいる。
今だけは。
セレナは水を飲みながら、涙を飲み込んだ。




