第31話 ドアの前
レオンを避け始めて、三日が経った。
朝、一緒に家を出る。でも訓練場に着いたら離れる。昼は一人で食べる。訓練が終わったら先に帰る。
家にいるときも、自分の部屋にいる。居間に行かない。ソファに座らない。
レオンは何も聞かない。初日に「何かありましたか」と聞いて、「何もない」と返したら、それ以上聞かなくなった。
翌日も聞かなかった。その翌日も。
——普通だった。レオンは普通だった。
いつも通り訓練で強化を展開して、いつも通り衛生兵を指導して、いつも通りミラと話して、いつも通り家に帰ってきて、いつも通り「おかえりなさい」と言う。
何も変わってない。私がいなくても、この人の日常は回ってる。
——ああ、そうか。
私がいなくても、この人は大丈夫なんだ。
訓練場。
後方でレオンが衛生兵たちを指導してる。ミラが隣にいる。今日もいる。明日もいるんだろう。
ミラが笑ってる。レオンが何か説明してる。ミラが「はい!」って元気に返事してる。
レオンが「よくできました」と言った。
あの声で。あの低い声で。あの穏やかな顔で。
——私以外の人間に。
「団長、模擬戦お願いします!」
トーマ。
「……うん」
剣を構えた。踏み込んだ。強すぎた。トーマが一合で吹っ飛んだ。
「つ——!」
「……ごめん」
「だ、大丈夫です! もう一回——」
「今日はやめとく。ごめんね」
剣を置いた。手が震えてる。力の入れ方がおかしい。自分で分かる。壊れてる。
マルクが遠くから見てる。リーゼも。何か言いたそうな顔。でも何も言わない。
トーマが心配そうに聞いた。
「レオンさんと何かあったんですか?」
「……なんで」
「最近一緒にいないから。前はいつも二人だったのに」
「何もないよ」
「そうですか? レオンさんはいつも通りですけど」
——いつも通り。
レオンはいつも通り。
私が三日間避けても。昼を一人で食べても。先に帰っても。
あの人は、いつも通り。
……私がいてもいなくても、同じなんだ。
三年間離れてた。それでもレオンは大丈夫だった。各地の戦線を回って、英雄医になって、カイルと一緒に仕事して、ミラを指導して。
私がいなくても、この人の世界は完成してる。
——私だけだ。この人がいないと壊れるの、私だけだ。
午後。訓練を途中で抜けた。
リーゼが「団長?」と声をかけたけど、「体調悪い」とだけ言って帰った。嘘じゃない。体調は悪い。胸が痛すぎて、立ってられない。
家に帰った。自分の部屋。ベッドに横になった。
天井を見てる。
——何やってるんだろう。
ミラと歩いてるのを見ただけ。たったそれだけで、こんなに壊れてる。
おかしいのは私だ。レオンは何も悪くない。ミラも何も悪くない。後輩を指導してるだけ。一緒に歩いてるだけ。笑ってるだけ。
それなのに私は、勝手に絶望して、勝手に距離を取って、勝手に壊れてる。
——三年前と同じだ。
レオンが離れたとき。「必ず戻る」と言って消えたとき。あのときも、レオンは正しいことをしてた。各地の戦線を立て直してた。必要なことをしてた。
壊れたのは、私だけ。
いつも、私だけ。
レオンが何をしても、壊れるのは私。レオンが離れても壊れる。レオンが他の人と笑ってても壊れる。
——この人に出会わなければよかった。
また、それを思ってしまった。
遺書を書こうとした夜と同じ。死にたくなった夜と同じ。あの暗い場所に、また落ちてる。
出会わなければ。あの孤児院で「髪、伸ばしてみたら」って言われなければ。白銀の髪を目で追わなければ。碧い目に心臓を掴まれなければ。
こんなに苦しくなかったのに。
——すぐに取り消した。前にも取り消した。出会わなかったら、十五歳で終わってた。
でも。
取り消すのに、前より時間がかかった。
天井が滲んだ。泣いてる。いつから泣いてたか分からない。
声を出さないように泣いた。壁の向こうにレオンがいるかもしれないから。この人に泣いてるのを知られたくない。今だけは。
——ねえ、これなんなの。
三年前の空白より痛い。グラオヴァントの前夜より痛い。遺書を書けなかった夜より痛い。
あの人がいなくなるかもしれない、じゃない。あの人はここにいる。同じ家にいる。半歩後ろに立ってくれる。
なのに痛い。いるのに痛い。
いるから痛い。
この人が私のものじゃないと分かったから。この人の隣に、私じゃない誰かが立てると分かったから。この人が私を失っても平気だと分かったから。
——私だけが、この人に縋ってる。
この人がいないと戦えない。この人がいないと眠れない。この人がいないと息ができない。
でもこの人は、私がいなくても大丈夫。
その非対称が、殺しにくる。
——死にたいとは思わない。もうそこまでは落ちない。
でも、消えたい。
この痛みごと、消えてしまいたい。この人への感情ごと、全部消えてしまいたい。
名前をつけたら終わりだと思ってた。でも名前をつけなくても、もう終わってる。
こんなに痛いなら、名前なんかどうでもいい。
好きだよ。
——ああ、認めてしまった。
好きだ。レオンが好きだ。相棒とか友達とか、そんなものじゃなく。あの碧い目が好き。あの声が好き。あの手が好き。あの横顔が好き。後ろに立ってくれるのが好き。パンを小さくちぎるのが好き。「必要だったので」って言うのが好き。全部好き。
好きだから、あの人が他の女の子と笑ってるだけで死にそうになる。
好きだから、あの人が私を失っても平気なことが耐えられない。
好きだから、壊れてる。
——言えない。絶対に言えない。
言ったら、相棒が終わる。言ったら、あの人は困る。言ったら、半歩後ろの足音が消える。
だから言わない。飲み込む。この感情ごと、全部。
でもこんなもの飲み込んだら、私は——
何時間経ったか分からない。
部屋が暗い。夜になってた。
廊下に出た。暗い。静かだ。
レオンの部屋のドアの前に、立っていた。
——また、ここにいる。
前にもやった。夜中にドアの前に来て、呼吸音を確認した。いるかどうか。消えてないかどうか。
今は違う。いるのは分かってる。
確認したいのは——この人が、まだ私を見てくれてるかどうか。
ドアに額をつけた。冷たい。
声が聞こえる。ページをめくる音。本を読んでるんだ。普通に。穏やかに。
——この人は大丈夫。私がドアの前で泣いてても、この人は大丈夫。
帰ろう。自分の部屋に。このまま泣いて、朝になったら顔を洗って、いつも通りの顔をする。三年間やってきたことと同じ。
立ち上がろうとした。
ドアが開いた。
内側から。
レオンが立っていた。パジャマ姿。白銀の髪が少し乱れてる。碧い目がこっちを見てる。穏やかで、静かで、いつも通りの目。
「……セレナ」
「……なんで開けたの」
「気配がしたので」
「……ごめん。何でもない。戻る」
「待ってください」
レオンの声が、少しだけ変わった。いつもの穏やかさの中に、何かが混じった。
「……顔を見せてください」
「やだ」
「セレナ」
「やだって言ってる」
「……泣いてますね」
「泣いてない」
「声で分かります」
——ずるい。分かるなよ。平気な顔してるくせに。私がいなくても大丈夫なくせに。声だけで泣いてるの分かるなよ。
「……中に入りますか」
「……いい。帰る」
「入ってください」
命令じゃない。お願いでもない。ただ、静かに、当たり前のこととして言ってる。
あの日と同じだ。「見せてください」と同じ声。
……逆らえない。あの声には。
レオンの部屋に入った。きれいに片づいてる。本が開いてある。灯りがついてた。
「……ねえ」
「はい」
「あんたは平気なの」
「……何がですか」
「私が三日間避けてたこと」
「……避けていたんですか」
「気づいてなかったの」
「少し距離を感じてはいました。でも、セレナにも事情があると思ったので」
——事情があるなら待つ。いつものレオン。いつもの穏やかさ。
「……それだけ?」
「それだけ、とは」
「寂しくなかったの」
「……」
「私がいなくて、寂しくなかったの」
レオンが少し間を置いた。碧い目が私を見てる。何かを考えてる顔。
「……セレナがいない時間は、静かでした」
「……そう」
「静かで——少し、長く感じました」
——それ、寂しいって言ってるの。言ってないの。どっち。
分からない。この人の言葉は、いつもギリギリのところで止まる。
「……ねえ」
「はい」
「今日、ここで寝ていい?」
「……ここで?」
「ソファでいい。あんたの部屋のソファ。……一人だと眠れない」
「……はい。どうぞ」
レオンが毛布を持ってきた。ソファに敷いてくれた。丁寧に。あの長い指で。
横になった。毛布がレオンの匂いがする。清潔な、薬品と石鹸の匂い。
灯りが消えた。暗い部屋。レオンがベッドに横になる音がする。
同じ部屋にいる。
レオンの呼吸が聞こえる。静かで、穏やかで、均等な呼吸。
——この音を聞いてると、死にたいとか、消えたいとか、全部嘘みたいに消える。
好きだ。この人が好きだ。さっき認めてしまった。もう戻れない。
でも言わない。言えない。
言ったら全部終わるから。この距離が。この呼吸が。この匂いが。全部。
だから飲み込む。好きだって気持ちごと。全部。
——でも、もう少しだけ。
この呼吸を聞いてていい?
もう少しだけ、この人の近くにいていい?
答えは聞かない。聞いたら壊れるから。
セレナは目を閉じた。涙の跡が乾いていく。
レオンの呼吸を聞きながら、三日ぶりに眠った。




