第3話 おかえり
東の第二治癒天蓋は、小さかった。
入り口で足を止めた。
中に、一人。白衣の背中。兵の腕に包帯を巻いている。
動きが、美しかった。
静かで、無駄がない。長い指が包帯を一巻き、二巻き。一度も迷わない。一度もやり直さない。まるで最初から答えが見えているみたいに。
白銀の髪が、天蓋の薄い光に透けている。
振り返った。
目が合った。
——レオンだった。
碧い目。少しだけ痩せた。目の下に疲れがある。三年分の。でも目の色は変わっていない。静かで、深くて、全部見通すような碧。
——ああ、この目だ。三年間、ずっと見たかった目。
レオンが治療中の兵の包帯を結び終えた。最後まで手を止めなかった。患者を放さなかった。私を見ても、手だけは止めなかった。
——この人は、こういう人だ。
包帯を結び終えてから、静かに立ち上がった。
「……セレナ」
名前を呼ばれた。あの低い声で。たった三文字。それだけで涙が落ちた。
一歩踏み出す。もう一歩。レオンの胸を、拳で叩いた。弱く。何度も。
「ばか」
「……」
「三年だよ」
「……ええ」
「三年。一回も連絡なし。一回も顔見せなし。しかも昨日こっそり来てこっそり治して消えようとしたでしょ」
「……消えるつもりはありませんでした」
「じゃあなんで名乗らなかったの」
「……先に、治すべき人がいたので」
——ずるい。
怒ってるのに。怒りたいのに。そういう言い方されたら怒れない。「先に治すべき人がいた」。私より前線の兵を優先した。それがレオンだ。それが正しい。正しいから怒れない。
「……最っ低」
「……はい」
素直に受け入れた。否定しない。言い訳しない。ただ「はい」。
この人は言い訳をしない。昔からそうだ。どんなに責められても、正しいと思ったことを曲げない。でも相手の怒りは全部受け止める。
叩く手が止まった。代わりに白衣を掴んだ。
「……あんたがいない間、私がどうしてたか知ってる?」
「……いいえ。知りません」
「でしょうね」
声が震える。でも目は逸らさない。
「一人で前に立って、一人で後ろも見て、一人で全部判断してた。毎日。三年間」
「あんたの代わりなんかいなかった。誰がやっても半拍遅い。その半拍で人が死にかけるの」
「英雄って呼ばれた。全戦無敗って。笑えるでしょ。限界だったのに、誰にも言えなかった」
「夜、眠れなかった。朝、立てなかった。剣が重くて、足が動かなくて、全部どうでもよくなった日があった」
「死にたくなった夜もあった」
レオンの碧い目が揺れた。一瞬だけ。でも確かに。あの冷静な目が、揺れた。
——初めて見た。レオンの目が揺れるの。
「……でも前に立った。あんたが戻ってくるまで恥ずかしくない自分でいようって、それだけで」
レオンは動かない。逃げない。否定しない。でも触れない。
ただ、まっすぐ立って、全部聞いている。全部受け止めている。一言も遮らない。一歩も引かない。
——この人は逃げない。どんな言葉を投げても。それが、ずるい。
「……すみません、では足りないことは分かっています」
「……」
「でも、それしか言えません。今は」
「……なにそれ」
「いつか、全部話します。今はまだ——言葉にできないことがあります」
——ずるい。「いつか」なんて言われたら、待っちゃうでしょ。また。
「……ねえ」
「はい」
「おかえり」
レオンの呼吸が、一瞬だけ止まった。碧い目がわずかに見開かれた。
それから——ほんの少しだけ、表情が緩んだ。口元が。目元が。この人にしか分からないくらい微かに。
「——ただいま戻りました」
静かな声だった。低くて、深くて、胸の奥まで響く声。
それだけで、十分だった。
しばらく、二人とも動かなかった。セレナが泣き止むのを、レオンは何も言わずに待っていた。手を出さなかった。慰めの言葉も言わなかった。ただ、そこに立って、待っていた。
——この人の優しさは、いつもこう。言葉じゃなくて、在り方で示す。
涙が止まって、呼吸が落ち着いた頃。
「セレナ」
「なに」
「昨夜の傷、見せてください」
「……今それ言う?」
「はい。今言います」
「泣いてる人間の前で——」
「泣き止みました。今はもう患者です」
「患者って……」
「僕の患者です。見せてください」
——この切り替え。泣いてる女の前で「患者です」って言える人、世界にこの人しかいない。
でもそれが嫌じゃない。むしろ安心する。この人はブレない。私が泣こうが怒ろうが、やるべきことをやる人。
「……あんた、ほんっとに変わんないね」
「変わったところもあります」
「……え、どこ」
「三年前より、腕は上がりました」
さらっと言った。自慢じゃない。事実として。でもあの碧い目がほんの少しだけ自信を持ってた。
——かっこいい。悔しいけど、かっこいい。
「座ってください」
「はいはい」
レオンの指先が、包帯越しに傷の周辺を確かめる。冷たい。でも正確。長い指が、迷いなく動く。
この手が、昨夜私を治した。意識がないまま、知らない天幕で、一人で。
「……治りがいいですね」
「そりゃあんたが治したんでしょ」
「昨夜は応急処置です。ここまでの回復は、セレナの身体が強いからです」
「素直に自分の腕褒めなよ」
「褒めるべきはセレナの生命力です。——正直、間に合ってよかった」
最後の一言が、小さかった。独り言みたいに。
——間に合ってよかった。
この人が「よかった」って言うの、聞いたことない。
胸が、きゅっとなった。
治療が終わった。レオンが包帯を巻き直す。一回で決まる。やり直しゼロ。指が正確に、丁寧に、私の腕の上を滑る。
「……ねえ」
「はい」
「ご飯、食べた?」
「いいえ」
「でしょうね。昨夜からずっと——」
「ずっとではありません。セレナの処置が終わったあと、他の負傷者を全員診ました。それから東の天蓋を回りました。今朝もここで三人診ました。食事は——入りませんでした」
「……聞いてないことまで報告しなくていい」
「事実を正確に伝えています」
「つまり昨夜から一口も食べてないってことでしょ」
「……はい」
「馬鹿じゃないの。人のこと治す前に自分の面倒見なよ」
「他人の面倒を見るのが仕事なので」
「あんたの面倒を見る人がいないでしょ」
「……いませんね」
「いるよ。私がいる」
言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。レオンが少しだけ目を見開いた。碧い目が、一瞬だけ柔らかくなった。
「……ありがとうございます」
「礼はいいから。食堂行こう。団長命令」
「……命令ですか」
「命令。拒否権なし」
「では、従います」
天蓋を出た。朝の空気が冷たい。でも嫌じゃない。
並んで歩く。セレナが半歩前、レオンが半歩後ろ。昔からこの距離。振り返らなくても、少し高い位置に気配がある。あの人の足音がする。静かで、均等で、乱れない足音。
「……ねえ」
「はい」
「前を歩いてよ。たまには」
「後ろのほうが全体が見えます。それに——」
「それに?」
「セレナの背中を見ているほうが、安心するので」
——は。
なにそれ。なに今の。
心臓がうるさい。意味分かんない。「背中を見ているほうが安心する」って何。どういう意味。
「……ほんとに変わんない」
「変わったところもあると言いましたが」
「変わってないところのほうが多い」
「……そうかもしれません」
三回目だ。「変わんない」。でも何度でも言いたい。この人が変わってないことが、三年間で一番嬉しいことだから。
歩きながら、ふと気づいた。
怖くない。
背中が、怖くない。
三年間、後ろが空いていることがずっと怖かった。振り返りたくて、でも振り返ったら誰もいないのが分かるから、振り返れなかった。
今、後ろにレオンがいる。
それだけで、こんなに楽に息ができる。こんなに普通に歩ける。こんなに——
「……セレナ」
「なに」
「泣いてます」
「泣いてない」
「泣いてます。——止めなくていいですよ」
「……なにそれ」
「三年分です。止める必要はありません」
——この人は。
「泣くな」じゃなくて「止めなくていい」って言う。泣いてることを否定しない。恥ずかしがらせない。ただ許す。
ずるい。ずるすぎる。
「……ちょっとだけ」
「はい」
「このまま歩いていい? 食堂まで」
「もちろん」
「話しかけないで。泣いてるとこ見られたくない」
「分かりました。——ただ、もし誰かに見られても」
「……見られたら?」
「団長が泣いていたとは、僕は言いません。朝日が眩しかっただけです」
——ああ、もう。
なんでこの人は、こうなの。こういうことを、あの低い声で、さらっと言うの。
泣いてるのに、笑いそうになった。
「……ありがと」
小さな声だった。
朝日が差し込んでいる。前線にしては穏やかな朝だ。二人の影が、並んで地面に伸びている。
セレナは三年ぶりに、隣に人がいる朝を歩いていた。
世界は何も変わっていない。戦争も、任務も、前線も。
でも、後ろが空いていない。
それだけで、全部違う。全部。




