第29話 終わり方
最近、レオンの帰りが遅い。
訓練が終わって、いつもなら一緒に帰る。半歩前と半歩後ろ。食堂に寄って、スープ飲んで、家に帰る。毎日の、何でもない時間。
それが、三日前から変わった。
「先に帰っていてください。少し用事があるので」
「用事?」
「はい。すぐ終わります」
「……ふうん」
一日目は気にしなかった。用事くらいあるでしょ。
二日目も。まあ、連日ってこともあるよね。
三日目。さすがに気になった。
「今日も?」
「はい。すみません」
「……何の用事?」
「……少し、確認したいことが」
「確認」
「はい」
それ以上聞けなかった。レオンが言葉を濁すのは珍しい。珍しいから、怖い。
四日目。
訓練が終わった。レオンがまた「先に帰っていてください」と言った。
今日は聞かなかった。「うん」とだけ言って、帰る振りをした。
——振りだけ。
訓練場の角を曲がったところで、立ち止まった。振り返った。
レオンが後方治療天蓋のほうに歩いていく。白銀の髪が夕日に光ってる。
天蓋の前で、誰かが待っていた。
ミラだった。
ミラ・ゼーフェルト。二十歳。衛生兵。レオンに憧れて衛生兵になった子。レオンの横顔を見て赤くなる子。
ミラがレオンに何か話しかけている。笑ってる。レオンが頷いてる。二人で並んで歩き出した。
——え。
心臓が、冷たくなった。
二人で歩いてる。並んで。レオンとミラが。夕日の中を。
ミラが何か言って、レオンが少し首を傾げて、それからまた歩き出す。ミラが嬉しそうに笑ってる。
レオンの横顔が見える。遠いけど見える。あの碧い目。あの白銀の髪。あの横顔。あの人が、私じゃない女の子と並んで歩いてる。
足が動かない。
見なきゃいい。見なきゃよかった。でも目が離せない。
二人が角を曲がって、見えなくなった。
……あ。
そうか。
こうやって終わるんだ。
家に帰った。一人で。
ソファに座った。クッションを抱えた。
静かだ。レオンがいないと、こんなに静かだ。
——三十分が怖い、なんて言ってた自分が馬鹿みたい。
三十分じゃない。もっと長い。もっと深い。レオンが他の女の子と歩いてるのを見た瞬間から、ずっと胸が痛い。
ミラは若い。かわいい。一生懸命で、真面目で、レオンのことを尊敬してて。衛生兵としてレオンの近くにいる。毎日一緒に仕事してる。
——私より、ずっと近い。
私は団長だ。前線にいる。レオンは後方にいる。戦場では離れてる。訓練でも、私は剣を振ってて、レオンは後方で魔法を展開してる。
ミラは違う。レオンの隣にいる。同じ天蓋で、同じ仕事をして、同じ時間を過ごしてる。
……あの子のほうが、合ってるのかもしれない。
衛生兵同士。魔法の話ができる。治療の話ができる。レオンが興味あることを、一緒に語れる。
私にできるのは、剣を振ることだけ。スープを作ることだけ。ソファでごろごろすることだけ。
——なんで腹が立つんだろう。
違う。腹が立ってるんじゃない。
怖い。
レオンが誰かのものになるのが怖い。あの碧い目が、私じゃない誰かを見る日が来るのが怖い。あの低い声が、私じゃない誰かの名前を呼ぶ日が来るのが怖い。
——なんで?
相棒だから? 相棒がいなくなるのが怖いから?
……違う気がする。でも、何が違うのか分からない。
分からないのが、一番怖い。
クッションに顔を埋めた。
あの人が帰ってくるまで、このままでいよう。帰ってきたら、何でもない顔をする。いつも通り「おかえり」って言う。何も聞かない。何も見なかったことにする。
——三年間、ずっとそうしてきた。いない人のことを考えないようにして、平気な顔をして、前に立ち続けた。
また同じことをするの?
また一人で抱えるの?
……嫌だ。
でも、何て言えばいいの。「あんたがミラと歩いてるの見て胸が痛い」って? それって——
それって、何。
その先を考えようとして、やめた。考えたら、何かが変わってしまう気がした。
玄関のドアが開いた。
「ただいま戻りました」
あの低い声。あの足音。
「……おかえり」
「……セレナ? 暗いですが、電灯は」
「つけてなかった。ごめん」
レオンが灯りをつけた。セレナがソファに座ってる。クッションを抱えてる。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫。ちょっとぼーっとしてただけ」
「顔色が悪いです」
「気のせい」
「気のせいではありません。——食事は取りましたか」
「……まだ」
「……セレナ」
「なに」
「待っていてくれたんですか」
——やめて。そういうこと言わないで。あの声でそういうこと言わないで。
「待ってない。ぼーっとしてただけ」
「そうですか」
「そうだよ」
「……では、何か作ります」
レオンが台所に行く。あの背中。白銀の髪。
——さっき、あの背中はミラの隣にあった。
胸が痛い。ずっと痛い。
「……ねえ」
「はい」
「今日、何してたの」
「……少し、買い物を」
「一人で?」
「……いいえ」
「誰と?」
「……カイルと、ミラに手伝ってもらいました」
——ミラ。やっぱり。
「……そう」
「……セレナ、何か——」
「何もない。ご飯作ってよ。お腹すいた」
「……はい」
何もない。何もないよ。あんたがミラと歩いてるの見て胸が痛いなんて、言えるわけないでしょ。
それが何なのかすら、分かってないのに。
レオンが料理を作ってる音が聞こえる。包丁の音。鍋の音。いつもの音。
——この時間が、いつか終わるのかもしれない。
レオンが誰かを選んだら。ミラでも、誰でも。私じゃない誰かを選んだら。
この家から、いなくなる。半歩後ろの足音が消える。隣の部屋の呼吸が消える。
三年間の空白が、また来る。
——いや。三年間より、もっとひどいかもしれない。
三年前は「必ず戻る」があった。待つ理由があった。
次は、ない。レオンが自分の意志で誰かを選んだら、待つ理由がない。
それは——三年間よりも、ずっと。
「セレナ」
「なに」
「できました」
「……うん」
テーブルに座った。向かい合った。レオンの碧い目が、まっすぐこっちを見てる。
いつもと同じ目。穏やかで、静かで、私だけを見てる目。
——本当に、私だけを見てる?
分からなくなった。今まで疑ったことなかった。この人はいつも私の後ろにいて、私のことだけを見てると思ってた。
でも、ミラと並んで歩いてた。楽しそうに。
「……いただきます」
「はい。どうぞ」
スープを飲んだ。美味しい。いつも通り美味しい。
なのに、味がしない。胸が痛すぎて、味が分からない。
——ああ、そうか。
これが、そういうことなのかもしれない。
名前をつけたら、壊れる気がする。だからつけない。まだ。
スープを飲み続けた。黙って。レオンも黙って食べてる。
いつもの夕食。いつもの距離。いつものテーブル。
でも今日は、全部が違って見えた。




