第20話 通達
その日の朝は、いつもと同じだった。
セレナがソファでごろごろして、レオンがお茶を入れて、二人で飲んで。
「今日、何する?」
「特に予定はありません」
「じゃあ、あの食堂行こうか。スープおかわりする?」
「……一杯だけ」
「素直」
そんな会話をしていた。
玄関の扉が叩かれたのは、そのときだった。
コンコン。事務的な音。
セレナは立ち上がった。開ける。副官だった。
「おはようございます、団長。師団本部からの通達です」
封筒を受け取った。師団本部の紋章が押してある。
開けなくても分かった。こういう封筒の中身は、いつも同じだ。
「……ありがとう。下がっていいよ」
副官が去った。
玄関を閉める。封筒を持ったまま、居間に戻った。
レオンがこっちを見ている。お茶のカップを持ったまま。レオンにも分かっている。あの封筒が何か。
テーブルの上に封筒を置いた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
封筒がテーブルの上にある。紋章が上を向いている。まだ開けていない。
開けなければ、まだ今日は続く。この居間で、このソファで、お茶を飲んで、食堂に行って、帰りにまた並んで歩いて。
開けたら、終わる。
「……開けないとね」
「……はい」
セレナが封筒を取った。封を切る。紙を広げる。
ルクセン戦線。出立は五日後。第五騎士団に出撃命令。
文字を読んだ瞬間、お腹の底が冷えた。
分かっていた。いつかこうなることは。私たちは軍人だ。戦場に立つのが仕事だ。王都での日常は、次の戦場までの猶予でしかない。
分かっていた。
——分かっていたけど。
紙をテーブルに置いた。
窓の外を見た。
王都の朝。通りを人が歩いている。子どもが走っている。店が開いている。普通の朝だ。
あの人たちの朝は、明日も同じだ。明後日も。来月も。子どもは学校に行って、店は客を迎えて、夜になったら家に帰る。
私たちの朝は、五日後に終わる。
前に食堂の窓から外を見たとき、「ああいうの、私たちにはなかったよね」と言った。レオンは「考えたこともなかったです」と答えた。
あのとき、残酷だとすら思わなかった。当たり前だったから。
今は——少しだけ、残酷だと思った。
この数日間が、普通の人たちの「普通」に一番近かった。一緒にご飯を食べて、一緒に買い物に行って、一緒にソファでお茶を飲んで。何でもない日常。
それが、たった一枚の紙で終わる。
「……ねえ」
「はい」
「あと五日だって」
「はい」
「五日」
「……はい」
セレナはソファに座った。深く。背もたれに身体を預けた。
「……ルクセン戦線。聞いたことある?」
「あります。中規模の戦線です。グラオヴァントほどではありません」
「そう」
「十分対応可能だと思います」
「……うん」
レオンの声は冷静だ。いつも通りだ。もう戦場の計算を始めている。この人はそういう人だ。
でも、カップを持つ手が、ほんの少しだけ強くなっている。気づかないくらい。でもセレナは気づいた。
レオンも、同じことを思っている。
「ねえ、レオン」
「はい」
「今日、食堂行こう。予定通り」
「……はい」
「明日も行こう」
「はい」
「明後日も。出発の日まで毎日」
「……毎日ですか」
「毎日。全部使い切る。五日間」
レオンが少しだけ間を置いた。
「……はい」
セレナは通達の紙を裏返して、テーブルの端に寄せた。見えないように。
五日後に戦場に戻る。また前線に立つ。また剣を握る。また人が死ぬかもしれない場所に行く。
でも今回は、隣にレオンがいる。後ろにレオンがいる。
それは救いだ。大きな救い。
——でも同時に、こうも思った。
前は、一人だったから、失うものがなかった。死んでもいいと思えた。遺書を書いて、墓場に行くつもりだった。
今は違う。失いたくないものがある。レオンがいる。この日常がある。この食堂がある。このソファがある。
失うものがある人間が戦場に立つのは、何も持たない人間が立つより、ずっと怖い。
「……ねえ」
「はい」
「怖い」
小さく言った。
レオンが資料を置いた。セレナを見た。
「……はい。僕もです」
レオンが「怖い」と認めたのは、初めてだった。碧い目がまっすぐこっちを見てる。
——この人が怖いと言うなら、本当に怖いんだ。でもなぜか、この人が怖がってることに安心してる自分がいる。同じ気持ちでいてくれることが。
変だよね。怖がってる人を見て安心するなんて。
二人とも黙った。通達の紙がテーブルの端にある。裏返しのまま。
窓の外では、普通の人たちの普通の朝が続いている。
セレナは立ち上がった。
「行こう。食堂」
「……はい」
「スープ、今日は二杯おかわりしていいよ」
「……一杯で十分です」
「遠慮しないで。あと五日しかないんだから」
軽く言った。笑いながら。
レオンは少しだけ目を伏せて、それから立ち上がった。
「……では、お言葉に甘えて」
「素直でよろしい」
家を出た。並んで歩く。半歩前と半歩後ろ。
空が高い。王都の朝は明るい。
五日後に、この空の下にはいない。
でも今日は、ここにいる。二人で。
それでいい。今はそれでいい。




