第17話 三十分
休みの日。
セレナはソファに沈んでいた。横になって、クッションを抱えて、ぐにゃぐにゃしている。
レオンはテーブルで器具の手入れをしている。小さな布で一つずつ磨いている。いつもの光景。
「……ねえ」
「はい」
「ひま」
「休みなので」
「ひまだって言ってるの」
「休みとはそういうものです」
「あんたは休みでもそうやって仕事してるじゃん」
「これは仕事ではなく手入れです」
「同じでしょ」
「違います」
「……ねえ」
「はい」
「なんかして」
「何をですか」
「なんか」
「具体的にお願いします」
「……構って」
「……」
「今の聞かなかったことにして」
「聞きました」
「聞いてない」
「聞きました。構ってほしいんですね」
「違う。ひまなだけ」
「そうですか」
レオンが器具を置いた。立ち上がる。
「……どこ行くの」
「お茶を入れます。セレナも飲みますか」
「……飲む」
台所からお茶の匂いがしてくる。レオンが戻ってきて、カップを二つ置いた。
セレナはソファから身体を起こして、カップを受け取った。
「……ありがと」
「どういたしまして」
温かい。お茶が、じゃなくて、全部が。
こういう時間が欲しかった。戦場じゃなくて、天幕じゃなくて、自分の家で。隣にこの人がいて、お茶を飲んで、何もしない時間。
三年間なかった時間。
「……美味しい」
「そうですか」
「レオンが入れるお茶って、なんか美味しいんだよね」
「普通に入れてますが」
「それがいいの」
レオンが少しだけ首を傾げた。この人は褒められ方が分からない。昔からそうだ。
お茶を飲み終えた頃、レオンが言った。
「少し出てきます。買い足すものがあるので」
——身体が、固まった。
一瞬。ほんの一瞬だけ。でも確実に。
出てくる。いなくなる。
分かってる。買い物だ。すぐ戻る。分かってる。
分かってるのに身体が反応する。「出てくる」の四文字で心臓が跳ねる。三年間の条件反射だ。
「……いつ戻る?」
聞いてしまった。声が少しだけ硬くなった。
レオンがこっちを見た。一瞬だけ目が揺れた。気づいた。この人は、こういうところに気づく。
「三十分で戻ります」
「……うん」
「三十分です。それ以上はかかりません」
「うん。分かってる」
「足りないものがあれば、先に言ってください」
「特にない。……早く行ってきて」
早く行ってきて。早く行って、早く帰ってきて。
レオンが出て行った。玄関のドアが閉まる。足音が遠ざかる。
一人になった。
……静かだ。
さっきまで同じ空間にいたのに。お茶の匂いがまだ残ってるのに。もういない。
——帰ってこなかったらどうしよう。
買い物に行っただけだ。分かってる。三十分で戻るって言った。分かってる。
でも頭の中が勝手に最悪を想像する。このまま帰ってこなかったら。また消えたら。「三十分で戻る」が嘘だったら。三年前みたいに、そのまま二度と——
やめろ。やめろ。買い物だって。すぐ戻るって。
大丈夫。三十分。すぐだ。
ソファに座った。クッションを抱えた。
時計を見た。
……まだ二分。
窓の外を見る。通りを歩くレオンの背中が——もう見えない。角を曲がった。
大丈夫。大丈夫。買い物に行っただけ。
時計を見た。五分。
お茶のカップを片づけようかと思った。やめた。レオンのカップがテーブルの上にある。それがあるだけで、ここにいた証拠になる。
時計を見た。八分。
長い。三十分がこんなに長いのか。
立ち上がって、レオンの部屋を見た。荷物がある。器具が並んでる。帰ってくる。荷物があるんだから帰ってくる。
分かってる。分かってるんだって。
時計を見た。十四分。
……半分も経ってない。
玄関に行った。靴を見た。レオンの靴がない。当たり前だ。履いて出て行ったんだから。
でも靴がないと不安になる。ここに靴があれば、帰ってくる証拠になるのに。
——何やってるんだろう私。
分かってる。おかしい。大人の女が、同居人が買い物に行っただけで、こんなに不安になるのはおかしい。
でも止められない。三年間、「いなくなった」を何百回も経験した身体は、三十分の外出すら耐えられない。
時計を見た。二十一分。
玄関の前に立っている。いつからここにいたのか、よく覚えてない。
足音が聞こえた。
近づいてくる。玄関の前で止まる。
ドアが開いた。
「ただいま戻りました。二十五——」
レオンが言葉を止めた。玄関にセレナが立っていたから。
「……セレナ?」
「おかえり」
「……玄関にいたんですか」
「たまたま。靴を整えてたの」
「靴は整ってますが」
「……うるさい」
レオンは少しの間、セレナを見ていた。
何も言わなかった。追求しなかった。
ただ、買い物袋を持ち替えて、靴を脱いで、家に入った。
「二十五分でした」
「……早いじゃん」
「急ぎました」
「急がなくていいのに」
「早いほうがいいかと思ったので」
——ああ。
気づいてる。この人、全部分かってる。
三十分が長いことも。玄関で待ってたことも。靴を整えてたなんて嘘だってことも。
全部分かった上で、何も言わない。ただ、急いで帰ってきた。
買い物袋を持ったレオンの顔が近い。玄関だから。いつもより近い距離。白銀の髪が少し乱れてる。走ったんだ。この人が走ることなんてほとんどないのに。
私のために急いだんだ。
——心臓がうるさい。別の理由で。
「……ねえ」
「はい」
「ごめんね」
「何がですか」
「こんなんで」
「何も謝ることはありません」
「でも、おかしいでしょ。三十分で——」
「おかしくないです」
即答だった。
「三年あったんです。三十分が長いのは、当然です」
——泣きそうになった。
泣かなかった。代わりに笑った。
「……お茶、もう一杯入れてよ」
「はい」
レオンが台所に行く。
セレナは玄関から離れて、ソファに戻った。ごろん。クッションを抱える。
三十分が怖い。まだ怖い。
でもレオンは急いで帰ってきた。全部分かった上で。
——もう少し。もう少しで、大丈夫になれると思う。
たぶん。




