第16話 食堂
「ねえ、今日あの食堂行かない?」
「あの食堂とは」
「王都に来たばっかりの頃、よく行ったとこ。ほら、角を曲がったとこの」
「……ああ。あそこですか」
「まだあるかな」
「分かりません。三年以上前ですし」
「行ってみようよ。なかったら別のとこ探せばいいし」
「……はい」
「なんで間があるの」
「いえ。行きましょう」
あった。
角を曲がったところに、同じ看板が出ていた。少し色褪せてるけど、同じ店だ。
「あった! まだあったよ!」
「ありましたね」
「嬉しい。ねえ入ろう」
「はい」
中に入った。小さな店だ。テーブルが五つ。昼前だけど、今日は結構人がいる。
——あ。
レオンが入った瞬間、空気が変わった。店の中の女の子たちが全員こっち見てる。いや、こっちじゃない。レオンを見てる。
隣のテーブルの女性二人が目を丸くしてる。奥の席の女の子三人組がひそひそ話し始めた。カウンターにいた店員の女の子が、お皿を持ったまま固まってる。
……すごいな。入っただけでこれか。
まあ、分かるけど。今日のレオン、私服だから余計にやばい。白銀の髪が自然に流れてて、碧い目が窓からの光で透けて見える。軍服じゃないから、細身の体格がよく分かる。背が高い。姿勢がいい。顔がいい。声がいい。全部いい。
……なんか腹立つな。
「どうしました?」
「なんでもない」
「顔が怖いですが」
「怖くない」
前に食堂で声をかけられてたこともある。断ってた。理由を聞いたら「セレナの相棒なので」って言ってた。
意味が分からない。それ断る理由になるの?
でもこの人はいつもそう。誘われても断る。理由はいつも同じ。「セレナの相棒なので」。何なのそれ。嬉しいけど意味が分からない。
「ここ座ろう。前もここだったよね」
「……よく覚えてますね」
「覚えてるよ。あんたがスープを二回おかわりした日だもん」
「……覚えてなくていいことを覚えてますね」
「忘れるわけないでしょ。あのレオンがおかわりしたんだよ。二回も」
「美味しかったので」
「素直でよろしい」
メニューが来た。前と同じだ。ほとんど変わってない。
「私、ビーフシチューにする。あんたは?」
「同じもので」
「自分で選びなよ」
「……では、魚のスープを」
「あのスープでしょ。おかわりしたやつ」
「……たまたまです」
「たまたまね」
料理が来るまで、窓の外を見た。
王都の昼下がり。石畳の通りに日差しが落ちてる。キラキラしてる。平和だ。
子連れの親子が歩いてる。子どもが走って、母親が笑って追いかけてる。向かいのベンチで若いカップルが手を繋いでる。友達同士で肩を組んで笑ってる男たちがいる。
普通の人たちの、普通の昼下がり。
この人たちは、前線を知らない。血の匂いを知らない。隣にいた人間が翌日にはいなくなる世界を知らない。新聞には都合のいい数字だけが載る。「戦況は安定しています」。あの数字の裏に何人死んでるか、誰も知らない。
「……ねえ」
「はい」
「ああいうの、私たちにはなかったよね」
「……ああいうの、とは」
「カップルとか。友達と遊ぶとか。子ども産んで育てるとか」
レオンが窓の外を見た。少し間があった。
「……ないですね」
「だよね」
「考えたこともなかったです」
「私も」
残酷かな。残酷なのかな、これ。
——いや、残酷だとすら思わない。残酷って言葉が浮かばないくらい、当たり前にこの道しかなかった。孤児院を出て、剣を握って、戦場に立った。それしか選択肢がなかった。
「でもまあ」
「はい」
「こうやって、一緒にご飯食べてるし。悪くないかな」
「……そうですね。悪くないです」
レオンの「悪くない」は、この人の一番いい褒め言葉だ。
窓の外はキラキラしてる。こっちはキラキラしてない。前線帰りの傷だらけの二人が、小さな食堂でスープ飲んでるだけ。
でもこっちのほうが、なんか好きだ。
レオンが姿勢よく座ってる。前線でも食堂でも家でも、この人の姿勢は変わらない。
「ねえ」
「はい」
「あんたさ、猫背にならないの? 一回も見たことないんだけど」
「意識してるわけではないですが」
「疲れない?」
「これが普通なので」
「普通って……私なんか家だとぐにゃぐにゃだよ」
「知ってます」
「知ってるんだ」
「昨日ソファで溶けてましたし」
「溶けてないでしょ。ごろんってしてただけ」
「あれは溶けてました」
「……うるさい」
料理が来た。
ビーフシチューは前と同じ味だった。肉が柔らかい。ソースが濃い。前線のスープとは別の食べ物だ。
「……うま」
「美味しいですか」
「うん。めちゃくちゃ美味しい。ねえ、あんたのスープは?」
「……美味しいです」
「おかわりする?」
「……しません」
「遠慮しないでいいのに」
「遠慮ではなく——」
「おかわりしたいんでしょ。顔に書いてある」
「……顔に出てますか」
「出てる」
「……では、一杯だけ」
「素直」
レオンがスープをおかわりした。一口飲んで、ほんの少しだけ目を細めた。
——この人のこの顔、好きだ。
美味しいものを食べたときの、ほんのちょっとだけ緩む顔。普段が鉄板みたいだから、この僅かな変化が全部見える。
「何ですか」
「なんでもない」
「また見てましたよね」
「見てない」
「見てました」
「……いいでしょ別に。同居人の顔くらい見るよ」
「そうですか」
「そうだよ」
レオンは何も言わずにスープを飲んだ。セレナはビーフシチューの最後の一口を食べた。
幸せだ。こんなの、ただの食事なのに。
帰り道、並んで歩いた。セレナが半歩前、レオンが半歩後ろ。いつもの距離。
「ねえ」
「はい」
「また来ようね。ここ」
「はい」
「毎週来よう」
「毎週ですか」
「だめ?」
「……いいですよ」
「やった」
セレナは小さくガッツポーズをした。レオンが少し笑った。
——そのとき、雨が降ってきた。
急だった。さっきまで晴れてたのに。ぽつぽつが一瞬で本降りになった。
「うわ、走ろう!」
近くの軒先に駆け込んだ。狭い。二人で立つとぎりぎり。
肩が触れそうな距離。レオンの白銀の髪が少し濡れてる。雫が頬を伝ってる。
——近い。近すぎる。
「……結構降りますね」
「うん。しばらく止まなそう」
レオンの私服の上着が視界に入った。薄手だけど、しっかりした生地。
セレナは薄着だった。食堂に行くだけだったから。腕が少し冷える。
レオンがこっちを見た。一瞬だけ。それから何も言わずに上着を脱いだ。
セレナの肩に、かけた。
「……え」
「冷えます」
「あんたは?」
「僕は大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ。シャツ一枚じゃん」
「セレナが風邪を引くほうが問題です」
「……あんたが風邪引いたらどうするの」
「引きません」
「根拠は」
「衛生兵なので」
「意味分かんない」
でも上着を返せなかった。
温かい。レオンの体温が残ってる。レオンの匂いがする。清潔な、薬品と石鹸が混ざったような匂い。
心臓がうるさい。雨の音より、ずっとうるさい。
隣を見た。レオンがまっすぐ前を見てる。シャツ一枚の腕。細いけど、弱くない腕。雨粒が肌に当たってるのに、気にしてない。
——なんでこの人は、こういうことをさらっとやるんだろう。
上着一枚。それだけのこと。でも心臓が壊れそう。
……別にそういうのじゃない。寒かっただけ。上着を貸してもらっただけ。
たぶん。
雨が小降りになった。歩き出す。上着はまだ肩にかかってる。返すタイミングを逃した。
——いや、返したくない。もうちょっとだけ。
「……ねえ」
「はい」
「上着、家まで借りてていい?」
「もちろん」
「……ありがと」
こんな日が、ずっと続けばいい。
夜。
自分のベッドに入った。部屋は暗い。静かだ。
隣の部屋にレオンがいる。壁一枚向こうに。
目を閉じた。眠ろうとした。
——眠れない。
眠れないわけじゃない。身体は疲れてる。瞼は重い。でも、意識が落ちる直前で、引き戻される。
いるよね?
隣の部屋に、いるよね?
朝起きたら、いなくなってたりしないよね?
……分かってる。永続配属だ。命令書を見た。期間は空欄。消えない。
分かってるのに、身体が信じてくれない。
三年間、毎朝同じことを確認してた。起きて、周りを見て、「いない」を確認してた。それが染みついてる。
気づいたらベッドを出ていた。
裸足で廊下に出る。冷たい。レオンの部屋の前。ドアが閉まってる。
耳を澄ませた。
——静かな呼吸が聞こえる。
いる。寝てる。ここにいる。
……よかった。
自分の部屋に戻った。ベッドに入った。
今度は眠れた。
こんなこと、いつまで続くんだろう。毎晩確認しに行くのか。毎晩ドアの前に立つのか。
分からない。でも今は、これでいい。
いることが確認できれば、眠れるから。
明日の朝、レオンがいる。
それだけで、目を閉じられる。




