第14話 ずっと
グラオヴァント戦線、五日目。
毎日戦闘があった。毎日きつかった。でも毎日、後方が回っていた。
信じないと決めた。期待しないと決めた。
でも身体は正直だった。毎朝、前線に立つたびに後方の気配を確認してしまう。あの人がいるか。いる。まだいる。
安心する。安心してしまう。
それが怖くて、でもやめられなくて、そのまま五日が過ぎた。
五日目の戦闘は、一番激しかった。
敵が全力で来た。今までの比じゃない。左翼が崩れた。右翼も押された。中央も危ない。
グラオヴァント最大の攻勢だ。
「第三小隊、左に寄せて!」
叫ぶ。剣を振る。正面の敵を斬る。
きつい。数が多すぎる。一人で二人分——いや、それ以上やらないと持たない。
また、あの三年間みたいだ。一人で全部やって、一人で全部背負って——
後方から光が来た。
治癒魔法。広い。正確。負傷者が立ち上がる。戻ってくる。
——いる。まだいる。
続けて、強化魔法。白くて鋭い光が前線を這う。身体に触れた瞬間、力が湧く。剣が軽くなる。視界が広がる。
一人じゃない。後ろにあの人がいる。
——信じるな。
でも身体が動く。勝手に。強化された腕で敵を斬り倒す。速い。強い。さっきまでの自分と別人だ。
左翼が持ち直した。負傷兵が戻ってきて、穴が埋まった。
右翼も押し返し始めた。強化の入った兵たちが迷いなく動いてる。
中央はセレナが支えてる。前に立って、斬って、叫んで。でも一人じゃない。後ろが全部回ってる。
「団長、右の増援崩れました!」
「よし。左はどう」
「持ち直してます! 負傷者の復帰が速くて——」
速いよね。知ってる。あの人がいるから速いんだよ。
敵の動きが鈍った。迷いが見える。さっきまでの勢いがない。
——いける。
「全隊、押し込め!」
前線が一斉に動いた。
強化が入ってる兵たちは強い。怖くないから迷わない。迷わないから速い。後ろを信じてるから、前だけ見て走れる。
敵が退き始めた。最初はじわじわ。それがすぐに崩れた。
走ってる。逃げてる。
潰走だ。
セレナは剣を持ち上げた。
「——グラオヴァント戦線、制圧!」
声が響いた。
「我々第五騎士団の、勝利だ!」
歓声が上がった。爆発するみたいに。
剣を掲げる者。叫ぶ者。座り込む者。泣いてる者。
五日間の全部が報われた瞬間だ。
グラオヴァント。私の墓場になるはずだった場所。地図を見て「ここで死ぬ」と確信した場所。遺書を書いて来た場所。
勝った。
勝ってしまった。
セレナは剣を掲げたまま、笑っていた。信じないと決めたのに。笑わないと決めたのに。
笑ってる。勝手に。身体が。
「団長! 勝ちましたね!」
「……うん」
「すごいですよ! グラオヴァントを五日で!」
「……うん」
「やっぱりレオンさんが第五に配属されてよかったですね! 後方が全然違いますもん」
——足が、止まった。
「……なんて言った?」
「え? レオンさんが第五に配属されてよかったって——」
「配属?」
「はい。今回から正式に第五騎士団の所属になったって聞きましたけど……団長、知らなかったんですか?」
正式に。
第五騎士団の。所属。
「……一時配属じゃなくて?」
「一時配属? いえ、正規の配属ですよ。期限なしの。副官が言ってました」
期限なし。
期限、なし。
世界が、止まった。
周りの歓声が遠くなる。兵たちの声が遠くなる。全部遠くなって、その一言だけが頭の中で反響している。
正規の配属。期限なし。
七日じゃない。
消えない。
レオンは、消えない。
「だ、団長? 顔色——」
「……ごめん、ちょっと」
歩き出した。早足で。歓声の中を抜けて。前線を離れて。
後方治療天蓋に向かってる。足が勝手に。
走ってない。走りたい。でも走ったら泣く。まだ泣くな。まだ。
天蓋の入り口が見えた。
中にレオンがいた。器具を片づけている。いつもと同じ。戦闘が終わっても同じ動き。静かで、無駄がない。
白銀の髪が天蓋の灯りに浮かんでる。白衣の袖をまくってる。長い指が器具を一つずつ丁寧に拭いている。あの手。あの指。何人もの命を救った手。私の命を救った手。
——何回見ても、この人は綺麗だ。
戦場の真ん中で、血と泥と叫び声の中で、この人だけが静かで、清潔で、揺るがない。ずるい。ずるいくらい綺麗。
入り口に立った。レオンが振り返る。碧い目がこっちを見た。
あの目。深い碧。吸い込まれそうな碧。三年間ずっと見たくて、七日間だけ見れて、また失って、もう見れないと思った目。
今、その目が私を見てる。
「セレナ。お疲れ様——」
「永続配属って、本当?」
遮った。声が震えてる。もう我慢できない。
レオンが少し目を見開いた。碧い目が大きくなった。それからいつもの穏やかな顔に戻って。
「……はい。本当です」
「七日じゃなくて?」
「七日じゃありません」
「いつまで?」
「期限はありません」
「……消えない?」
「消えません」
「また朝起きたらいなくなってたりしない?」
「しません」
「本当に?」
「本当に」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃありません」
「……本当の本当に?」
「セレナ」
レオンが、笑った。
少しだけ。口元がほんの少し上がっただけ。でも碧い目が柔らかくなった。あの鉄壁みたいな表情が緩んだ。
——この顔。
この顔が好きだ。レオンが本当に笑うとき。目元が緩むとき。白銀の髪の下で、碧い目が温かくなるとき。世界で一番綺麗な顔。
「僕は、第五騎士団所属の衛生兵です。担当はセレナ・ヴァレンティス。期限はありません。これは命令書に記載されている事実です」
あの低い声で。一語一語、はっきりと。事実を、静かに、確実に。
——ずるい。こんなの、泣くに決まってる。
「……命令書」
「見ますか」
「見る」
レオンが書類を一枚取り出した。差し出す。
受け取った。文字を読む。
配属先、第五騎士団。配属期間——空欄。担当、セレナ・ヴァレンティス。
空欄。
期間の欄が、空欄。
何も書いてない。終わりが書いてない。
紙を持つ手が震えた。
文字が滲んだ。——涙だ。
「……っ」
だめだ。泣くなって決めたのに。信じないって決めたのに。距離を取るって決めたのに。
全部壊れた。一瞬で。
「……ばか」
「……」
「なんで先に言わないの」
「言おうとしました。でもセレナが、聞こうとしなかったので」
「……それはそう」
「傷の処置も途中で帰りましたし」
「……それもそう」
「包帯、まだ途中のまま巻いてますよね」
「……うるさい」
巻いてる。ずっと巻いてる。外せなかった。レオンが巻いた包帯を外す気になれなかった。
「……ねえ」
「はい」
「もう消えないんだよね」
「消えません」
「明日もいる?」
「います」
「明後日も?」
「います」
「来月も?」
「います」
「来年も?」
「……はい。います」
「食堂のあの店、まだあるかな」
「……調べてみましょう」
「パンちぎるの、まだあの食べ方する?」
「癖なので」
「……ポニーテール、似合ってる?」
レオンが少し間を置いた。
「……似合ってますよ。ずっと」
——ああ。言ってくれた。あの声で。ずっと聞きたかった一言。
遺書に書いたんだよ。一回も聞けなかったって。聞けた。生きてるうちに聞けた。
——ああ、だめだ。
涙が止まらない。嬉しくて。ただ嬉しくて。
怖かった。ずっと怖かった。また消えるんだと思ってた。また七日で終わるんだと思ってた。カウントダウンが始まるのが怖くて、聞けなかった。
カウントダウンなんかない。終わりがない。空欄。ただの空欄。
それが世界で一番嬉しい文字だった。
「……ねえ、レオン」
「はい」
「私、遺書書いたんだよ」
「……遺書?」
「グラオヴァントに来る前に。あんた宛てに。ここで死ぬと思ってたから」
レオンの表情が変わった。初めて見る顔だった。驚きでも怒りでもない。もっと深い、痛みに近い何か。碧い目の奥が揺れた。あの冷静な目が、掻きむしられるように揺れた。
「……セレナ」
声が低かった。いつもより。あの安心する声が、痛みを含んでる。
「机の上に置いてきた。届くかどうかも分かんないけど」
レオンが一歩、近づいた。半歩じゃなくて、一歩。この人がセレナに距離を詰めるのは珍しい。すごく珍しい。
「でも、いらなくなった」
セレナは涙を拭いて、笑った。
「遺書、いらなくなった」
レオンは少しの間、何も言わなかった。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……帰ったら、一緒に捨てましょう」
「捨てない。恥ずかしいこと書いたから見られたくない」
「見ません」
「嘘。あんた絶対読む」
「読みません」
「読むでしょ」
「……読まないと約束します」
「信じない」
「信じてください」
「……今その言葉、重いんだけど」
二人とも、少しだけ笑った。
天蓋の中は薬品の匂いがする。古い布の匂いがする。きれいな場所じゃない。特別な場所でもない。
でも、ここが世界で一番安全な場所だ。
あの人がいるから。後ろにあの人がいるから。
そしてもう、消えない。
「……ねえ」
「はい」
「おかえり」
二回目だ。前に言ったときは、七日の始まりだった。
今度は、違う。今度は終わりがない。
レオンが答えた。前と同じ声で。同じ言葉で。
「——ただいま戻りました」
でも今度は、その言葉に嘘がなかった。
セレナは泣きながら笑って、包帯の巻き直しをお願いした。
「今度は最後まで巻いてよ」
「今度は最後まで座っていてください」
「……座ってる。もうどこにも行かない」
「僕もです」
外では兵たちの歓声がまだ続いていた。グラオヴァント制圧の勝利を祝う声。
でもセレナにとって、本当の勝利はこっちだった。
期限のない命令書。空欄の配属期間。途中だった包帯。
全部が繋がって、全部が返ってきた。
三年と七日と、五日間の地獄の分。全部。
——全戦無敗の英雄は、今日も折れなかった。
今日は、折れなかっただけじゃない。
初めて、報われた。
作者です。
とりあえずここまで読んでくださりありがとうございます。
今は楽しく書けています。読み直しながら書いて読み直しながら書いてをして、読んでいる皆さんと同じ気持ちで書いています。
思ったより長くなりました面白いと思っていただけたら★★★★★を頂けると励みになります。
ではまたどこかで。




