第11話 馬車
セレナ
馬車が揺れている。目を閉じている。
「団長、水いりますか」
「いらない」
「食事は」
「いらない」
「パン、余ってるんですけど」
「いらないって」
「……すみません」
兵が引き下がる。隣の兵が小声で何か言ってる。「団長、ずっとあの調子だな」「触れるなよ」。
聞こえてる。聞こえてるけど、反応する気力がない。
ポケットの中に、畳んだままの編成表がある。見てない。見る気もない。どうせ死ぬ戦場だ。誰が来ても同じ。
机の上に遺書を置いてきた。届くかどうかは分からない。届かなくてもいい。書けただけで十分。
窓の外を見る気もない。景色が変わっていくのは揺れで分かる。舗装路から悪路に変わった。前線が近い。
昔はこの揺れで気が引き締まった。今は何も感じない。
死ぬ前の人間って、こんなに静かなんだ。
レオン
別の馬車。衛生兵用。
レオンは膝の上に資料を広げていた。グラオヴァントの地形図。敵の戦力予測。補給路の状況。
厳しい。ヴェルデンの比じゃない。後方の設備も人員も足りない。
でも、やる。やれるようにする。
資料を閉じて、編成表を開いた。「第五騎士団団長 セレナ・ヴァレンティス」。
「……」
もう十回は見た。覚えてる。それでもまた見てしまう。
「あの」
隣の衛生兵——カイルが声をかけてきた。三年間一緒に各地を回った男だ。
「はい」
「さっきからその紙、ずっと見てますけど」
「確認です」
「もう覚えたんじゃないですか?」
「……念のためです」
「念のため十回見るんですか」
「……数えてたんですか」
「数えなくても分かりますよ。めくる音がずっとしてるんで」
レオンは編成表を閉じた。膝の上に置く。
「ちなみに聞いていいですか」
「何でしょう」
「その編成表の誰を見てるんですか」
「……全体の確認です」
「全体って言いながら、開くたびに同じページですけど」
「……気のせいです」
「気のせいで十回同じページ開きますか?」
カイルが笑っている。悪気はない。純粋に面白がっている。
レオンは少し黙ってから答えた。
「……知り合いがいるので」
「ああ、なるほど。それで」
「それで、何ですか」
「いえ。納得しました。知り合いね」
含みのある言い方だった。レオンは無視して資料に戻った。
「ちなみに、どんな知り合いですか」
「仕事の話をしていいですか」
「あ、話逸らした」
「グラオヴァントの後方設備の件ですが」
「完全に逸らしましたね」
カイルは笑いながらも資料を受け取った。仕事はできる人間だ。笑いながら手は動いている。
資料の確認をしながら、レオンはふと窓の外を見た。景色が変わっていく。悪路に入った。前線が近い。
あの日のことを思い出す。セレナが泣いていた。「いかないで」と言った。白衣を掴んで離さなかった。
もうあんな思いはさせない。
永続配属。期間の欄は空欄。もう七日で去らなくていい。今度こそ、ちゃんと後ろに立てる。
「……早く着きませんかね」
「え? 今なんて?」
「独り言です」
「独り言にしては、ずいぶん楽しそうですけど」
「……そうですか?」
「はい。初めて見ました。あなたがそういう顔するの」
「どういう顔ですか」
「えーと……なんていうか、人間の顔?」
「普段は人間じゃないと?」
「普段は機械です」
「ひどい言われようですね」
「褒めてますよ。今日のほうがいい」
レオンは少し考えてから言った。
「……楽しみなのかもしれません」
「戦場が?」
「いいえ」
カイルが何か言いかけたが、レオンの顔を見てやめた。追求しなかった。できる衛生兵だ。
セレナ
馬車が止まった。
「到着です、団長」
目を開けた。降りる。
空気が重い。ヴェルデンとは比べものにならない。兵たちの顔に余裕がない。天蓋の数が少ない。補給も心許ない。
——ここが墓場か。
思ったより、何も感じなかった。怖くもない。緊張もない。ただ、来た。それだけ。
「団長、配置の確認を」
副官が地図を持ってきた。前線の配置。兵の数。補給路。
後方治療天蓋の衛生兵の名前も書いてある。
見なかった。目が滑った。後方なんて関係ない。前に立って倒れるまで斬る。それだけだ。
「何か気になる点はありますか」
「特にない」
「……本当に?」
「本当に」
副官が何か言いたそうな顔をしたが、黙った。
天幕に入った。狭い。ベッドと机だけ。
鎧を外す。剣を置く。横になる。
天井を見る。知らない天蓋の、知らない模様。
明日、最初の戦闘。たぶん最後の。
レオンはいない。後ろは空いてる。いつも通りだ。
——いいか。もう。
レオン
衛生兵用の馬車が、少し遅れて着いた。
レオンは荷物を持って降り、後方治療天蓋に入った。中を見回す。設備は最低限。人員も足りない。
「……思ったより、厳しいですね」
カイルが後ろから言った。
「はい。でも、やります」
「やるって、何をですか。この設備で」
「足りないなら、足りるようにします」
「……あなたが言うと、本当にやりそうで怖い」
「やります」
器具を並べ始めた。一つずつ、丁寧に。カイルも黙って手伝い始めた。
前方の天幕を見た。あの中のどこかにセレナがいる。
会いに行こうか。一瞬そう思った。
やめた。移動で疲れてるだろう。明日の朝、戦闘の前に顔を合わせればいい。
——どんな顔するだろう。
怒るかもしれない。泣くかもしれない。殴られるかもしれない。また白衣を掴まれるかもしれない。
どれでもいい。会えるなら。
「また楽しそうな顔してますよ」
「……仕事してください」
「してますよ。あなたの顔を観察しながら」
「それは仕事じゃありません」
「今日のあなたを記録するのは、医学的に価値があると思います」
「ありません」
カイルが笑った。レオンも、少しだけ笑った。
器具を磨きながら、思う。
今度は七日じゃない。ずっとだ。
明日、セレナの後ろに立つ。今度こそ。




