第10話 出立
翌朝、目が覚めた。
眠れたのか眠れなかったのか、よく分からない。身体が重い。頭がぼんやりしている。
出立まで、あと三日。
テーブルの上に、昨日と同じ白い紙。ペンが横に置いてある。
今日は書く。今日書かなかったら、もう書けない。
椅子に座った。ペンを持った。
手が震えている。
レオン。
一文字書いて、止まった。名前を書いただけで、胸が詰まる。
続ける。
この手紙を読んでいるということは、私はもう
ペンが止まった。インクが紙に染みを作る。
……その先が書けない。「死んでいる」と書けばいいだけなのに。文字にすると確定する。確定するのが怖い。
深呼吸する。震える手でペンを持ち直す。
書く。思いついた順に。整理なんかできない。
怒ってる。ずっと怒ってる。三年前も、七日前も、今も。あんたはいつも正しい理由で私を置いていく。
書いて、消した。消した跡が汚い。もう一回書く。
怒ってる。でも恨めない。あんたが正しいのは分かってる。分かってるから恨めない。恨めないのが一番つらい。
涙が落ちた。紙の上に。インクが滲む。
構わない。綺麗に書ける状態じゃない。
感謝してる。あんたがいなかったら、私はとっくに死んでた。十五歳のときも、十九のときも、七日前も。全部あんたが生かしてくれた。
あんたに出会わなければよかったと思ったことがある。一度だけ。死にたくなった夜に。この人がいなければ、こんなに苦しくなかったのにって。
すぐに取り消した。出会わなかったら、十五歳で終わってた。
手が止まる。また動く。止まる。動く。何度も繰り返す。
孤児院で「髪、伸ばしてみたら」って言われた日から、私の全部が始まった。あんたは覚えてないと思うけど。
ポニーテール、似合ってたかな。一回も聞けなかった。聞いたら、あんたはたぶん「似合ってますよ」ってあの声で言うんだろうな。その一言のために、ずっと伸ばしてたのかもしれない。
——ここで、長く止まった。
ペンを持ったまま、何分経ったか分からない。
一番大事なことが、まだ書けていない。
何が一番大事なのかも、うまく言えない。ただ、まだ足りない。これで終わりにしちゃいけない。
ペンを握り直す。指が白くなるくらい、強く。
私がいなくなっても、あんたは正しい判断をし続けると思う。誰かの後ろに立って、誰かを治して、誰かを生かし続ける。
それでいい。それがあんただから。
でも一つだけ。
私が最後に立った戦場のことを、たまに思い出してほしい。
あの戦場の後ろに、あんたがいたらって。
そう思うだけでいい。後悔してくれなくてもいい。
ただ、思い出してほしい。私がいたことを。
書き終えた。
ペンを置く。手が震えている。まだ。
紙を見る。涙で滲んだ箇所がいくつもある。消した跡。書き直した跡。綺麗な手紙じゃない。ぐちゃぐちゃだ。
でも、書けた。
書けたということは、覚悟が決まったということだ。
その事実が、腹の底にずしりと落ちた。
しばらく動けなかった。椅子に座ったまま、テーブルの上の手紙を見ていた。自分の字。自分の言葉。自分の遺書。
これが、私の最後の言葉になる。
紙を折った。封筒に入れた。宛名を書く。
「レオン・グラハムへ」
それだけで涙が出そうになった。堪えた。もう泣く分は全部使い切った。
封筒を机の上に置いた。
部屋を見回す。何もない部屋。一人で住むには広すぎる家。レオンと二人で暮らすはずだった家。結局、一度も二人で暮らさなかった。
この家で一緒にご飯を食べたかった。一緒にお茶を飲みたかった。あの人が器具を磨いてる横で、ソファでごろごろしたかった。
全部、叶わないまま終わる。
出立の日が来た。
剣を取った。鎧を身につけた。
鏡を見た。全戦無敗の英雄が立っている。目の下に隈。頬が痩けている。でも立っている。
まだ立っている。
家を出た。振り返らなかった。
集合場所に行くと、エリクが紙を持って待っていた。
「団長、グラオヴァント戦線の編成表です。同行メンバーの一覧になります」
「ん」
受け取った。畳んでポケットに入れた。見なかった。
「確認しなくていいんですか?」
「いつものメンバーでしょ」
「ええ、まあ。ほぼ」
「なら、いい」
どうせ死ぬ戦場だ。誰が来ても同じだ。
馬車が並んでいた。騎士用と衛生兵用。別々だ。いつもそう。戦場に着くまで顔を合わせることはない。
セレナは騎士用の馬車に乗り込んだ。一番奥の席。目を閉じる。
グラオヴァント戦線。私の墓場。
遺書は書いた。やるべきことはやった。
あとは前に立って、倒れるだけだ。
馬車が動き始めた。王都が遠ざかっていく。
セレナは目を閉じたまま、何も考えないようにした。
——セレナのポケットの中で、編成表が畳まれたままになっている。
いつもの第五騎士団のメンバーの名前が並んでいる。
その末尾に、一行。
「衛生兵 レオン・グラハム」。




