第6話「笑わなくてもいい」
翌朝、教室はいつもと同じように始まった。
出席を取り、連絡事項を伝え、チャイムが鳴る。
特別なことは何もない。だからこそ、私は一つだけ決めていた。
今日は、名指ししない。
青木は席に座っていた。
背筋は伸びているが、表情は硬い。
私は、視線を合わせない。合わせれば、周囲が気づく。
一時間目の終わり、私は教卓に手を置いた。
「少しだけ、話をします」
ざわつきが静まる。
いつもの“注意”のトーンではないことを、子どもたちは察した。
「笑いって、便利だよね。場が和むし、距離も縮まる」
私は、黒板に何も書かずに続けた。
「でも、笑いが成立する条件がある」
誰かが身じろぎする。
「誰か一人が、我慢しなくていいこと」
教室は静かだった。
誰も笑っていない。
だが、それは悪い静けさじゃない。
「笑えないときがあっていい。合わせなくていい」
私は一拍置いた。
「それを“空気が読めない”って言う必要はない」
視線が、ゆっくりと教室を巡る。
青木は、前を向いたままだ。
「もし、冗談が苦手だったら、黙っていていい。
もし、名前の呼ばれ方が嫌だったら、変えていい。
それを言っていいかどうかは——」
私は言葉を選んだ。
「先生が決めることじゃない」
誰かが息を吸った音がした。
沈黙の中で、手が上がった。
山口だ。以前に声をかけてきた生徒。
「先生」
「どうした」
山口は、少しだけ迷ってから言った。
「……あのとき、俺、ちょっと嫌でした」
教室がざわつく。
だが、私は手で制した。
「何が?」
「名前の呼び方。ノリって言われてたやつ」
山口は続けた。
「別に、誰かを悪くしたいわけじゃないです。
でも、あれ、笑わないと変な感じで」
その言葉は、誰かを指さしていない。
ただ、空気を指している。
別の生徒が、小さく言った。
「……わかる」
声は連鎖しなかった。
だが、止まらなかった。
私は、そこで話を切った。
「ありがとう。今日は、ここまで」
説教はしない。
ルールも作らない。
“考える材料”だけを置く。
休み時間、私は廊下に出た。
教室の中から、声が聞こえる。
いつもより、少し低いトーン。
青木は、席に座ったままだった。
笑ってはいない。
だが、目は伏せていない。
昼休み、私は青木に声をかけた。
「どう?」
「……大丈夫です」
昨日とは違う。
その「大丈夫」は、逃げの言葉じゃない。
「無理しなくていい」
「はい」
それだけで、十分だった。
放課後、机を並べ替える。
私は、ほんの少しだけ配置を変えた。
目立たない程度に。理由を説明しなくていい程度に。
青木の席は、中央ではない。
だが、端でもない。
帰り際、青木が立ち止まった。
「先生」
「どうした?」
「……ありがとうございました」
それ以上は言わない。
言わせない。
「明日も来る?」
「はい」
私は頷いた。
教室に一人残り、窓を開ける。
夕方の風が、黒板のチョークの粉を揺らした。
いじめは、起きなかった。
正確に言えば、
起ききらなかった。
それは、奇跡じゃない。
誰かが完璧だったからでもない。
最初に笑わなかった瞬間を、
見失わなかっただけだ。
私は教室の電気を消す。
明日も、笑いは起きる。
冗談も、からかいも、境目の分からないまま行き交う。
それでもいい。
笑わなくても、ここにいていい。
その場所を残すこと。
それが、今日の私の仕事だった。
鍵をかけ、廊下に出る。
遠くで、部活の声がする。
世界は、何も変わっていない。
だが、この教室には、
確かに一つ、戻れる場所ができた。




