第5話「声を上げなかった理由」
青木は、翌日も学校を休んだ。
欠席の連絡が入った朝、私は出席簿に丸を付ける手を一瞬止めた。
体調不良。昨日と同じ文言。
それが事実かどうかを、確かめる術はない。
だが、私の中でははっきりしていた。
これは、予兆の延長だ。
昼休み、私は保健室を訪ねた。
養護教諭はカルテを閉じながら言った。
「昨日は来てないですね」
「そうですか」
それ以上、聞かなかった。
聞いても、答えは増えない。
放課後、私は青木の家に電話をかけた。
迷いはあったが、先延ばしにはできなかった。
『はい、青木です』
母親の声は、前日より少し疲れている。
「担任の——です。お時間よろしいでしょうか」
『はい』
一呼吸置いて、私は言った。
「青木さん、最近学校で無理をしていないか、少し気になっていまして」
電話の向こうで、かすかなため息が聞こえた。
『本人は、大丈夫だと言うんです』
「そうですか」
『でも……夜、あまり眠れていないみたいで』
私は、昨日の教室の空気を思い出していた。
誰も責めていない。
誰も、守ってもいない。
「もしよろしければ、明日、少しだけ学校に来られそうでしょうか」
『……本人に聞いてみます』
電話を切ったあと、私は椅子に深く腰を下ろした。
ここから先は、青木自身の選択だ。
だが、その選択を支えるのは、大人の役目でもある。
翌朝。
教室のドアが開き、青木が入ってきた。
遅刻ではない。
だが、足取りは重い。
私は、何も言わなかった。
声をかければ、周囲の視線が集まる。
それは、今の青木に必要ない。
授業が始まり、教室はいつも通り動き出す。
だが、私は気づいていた。
青木は、今日は一度も笑っていない。
休み時間。
私は青木に近づいた。
「今日の放課後、少し話せる?」
「……はい」
返事は短い。
逃げる気配はない。
放課後、空き教室。
窓の外では、部活の声が響いている。
私は、椅子を引いた。
「座って」
青木は、少し間を置いて座った。
その間に、私は考えていた。
ここで、何を言うべきか。
「最近、クラスのことで、気になってることがある」
私は、できるだけ事実だけを選んだ。
「青木が、最初に笑わなかった場面が、何度かあった」
青木は、驚いた顔をした。
そして、すぐに視線を落とす。
「……それ、いじめですか」
その問いは、静かだった。
だが、重い。
「分からない」
私は、正直に言った。
「いじめだと決めるほどのことは、起きていない」
「じゃあ……」
言葉が途切れる。
その瞬間、私は感じた。
――最初に飲み込まれた言葉が、喉元まで来ている。
「でも」
私は続けた。
「青木が、無理してるのは分かる」
青木は、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと口を開く。
「……やめてほしかったです」
声は小さい。
だが、はっきりしていた。
「何を?」
「名前、呼ばれ方とか」
「それを、言わなかった理由は?」
青木は、指先を見つめたまま答えた。
「言ったら……空気、変わるじゃないですか」
「変わるのが、怖かった?」
「……自分が」
そこで、言葉が詰まった。
「自分が、面倒なやつになるのが」
私は、何も言えなかった。
否定も、肯定もできない。
「先生は、見てくれてたと思います」
青木は続けた。
「でも、言ったら……先生も困る気がして」
胸の奥が、強く締めつけられた。
私は、守るつもりで距離を取った。
だが、その判断は、青木に“我慢”を選ばせた。
「ごめん」
その言葉が、先に出た。
青木は顔を上げ、少し驚いたように私を見た。
「先生が謝ることじゃ——」
「ある」
私は、はっきり言った。
「見えてたのに、動かなかった」
沈黙が落ちる。
だが、それは重くない。
「明日、どうしたい?」
私は聞いた。
青木は、少し考えてから言った。
「……まだ、全部は無理です」
「それでいい」
「でも」
青木は、息を吸った。
「笑わなくても、いいですか」
その言葉に、私は頷いた。
「いい。無理に合わせなくていい」
教室の外で、部活の声が一段と大きくなった。
世界は、何も変わっていない。
それでも、この教室の中では、確かに一つ、動いた。
完全な解決ではない。
だが、声を上げなかった理由は、ここに置かれた。
私は立ち上がり、ドアを開けた。
「明日、来れる?」
「……はい」
その返事に、私は初めて、
小さく息を吐いた。
次に待っているのは、
クラス全体の空気だ。
それをどう動かすかは、教師の仕事になる。




