第4話「見なかったことにした日」
体育祭の準備が始まると、教室の空気は一気に騒がしくなる。
日常の延長にある行事だが、関係性が可視化されやすい時間でもある。
私は、班分けの名簿を何度も見直していた。
意図ははっきりしている。
青木を、特定の空気から遠ざけること。
近すぎず、離れすぎず。
誰か一人に依存しない配置。
それが、これまでの経験で学んだ「静かな回避」だった。
「じゃあ、この班でいこう」
発表した瞬間、教室に小さなどよめきが走る。
不満の声ではない。
ただ、“想定外”に対する反応だ。
青木は何も言わず、頷いた。
その表情を見て、私は一度、胸を撫で下ろした。
だが、準備が始まって三日目。
違和感は、はっきりと形を持って現れた。
作業は順調だった。
誰も青木を責めない。
誰も、無視もしない。
ただ――
誰も、青木に話しかけない。
指示は共有される。
役割も割り振られる。
だが、雑談がない。冗談がない。
私は遠くから様子を見ていて、気づいてしまった。
――誰も、笑っていない。
青木の周りだけでなく、班全体が、必要最低限の動きしかしない。
空気が、固まっている。
それは、いじめとは呼ばれない。
だが、居心地の悪さとして、確実に残る。
私は声をかけるべきか迷った。
だが、ここで動けば、理由を説明しなければならない。
説明すれば、青木が“配慮されている存在”になる。
――それは、本当に助けになるのか。
私は、動かなかった。
見なかったことにした。
その日の放課後、青木は一人で作業を終え、静かに帰っていった。
翌朝。
青木の席は、空いていた。
欠席の連絡は、保護者から直接入っていた。
理由は、体調不良。
私はその言葉を信じた。
信じたかった、と言った方が正しい。
昼休み、職員室に一本の電話が入る。
青木の母親からだった。
『先生、最近、学校で何かありましたか』
その声は、穏やかだった。
責める調子でも、疑う調子でもない。
だからこそ、答えに詰まった。
「特に、大きなトラブルは……」
私は言いかけて、止まった。
“いじめ”は起きていない。
だが、“何もない”とも言い切れない。
「最近、少し元気がない様子は見ていました」
そう言い直した。
電話の向こうで、短い沈黙。
『家でも、あまり話さなくて』
私は、昨日の班の光景を思い出していた。
誰も悪くない。
誰も、間違ったことをしていない。
それでも、青木は欠席している。
「明日、様子を見ていただけますか」
『はい』
電話を切ったあと、私は机に手をついた。
手のひらが、少し汗ばんでいる。
――私は、避けた。
問題を、大きくしないために。
だが、それは先送りだったのかもしれない。
その日の午後、別の生徒が職員室に来た。
以前に話をしてくれた生徒だ。
「先生……青木、今日来てないですよね」
「うん」
「俺、昨日……声かければよかったかも」
その言葉が、胸に刺さった。
「どうして、そう思った?」
「なんか……班、変な感じで」
子どもは、ちゃんと感じている。
大人よりも、早く。
「ありがとう」
私はそう言った。
「気づいてくれて」
放課後、私は一人で教室に残った。
机と椅子を整えながら、考える。
私は、“笑わなかった瞬間”を見つけた。
だが、その先で、判断を止めた。
守るつもりで、距離を取った。
壊さないために、踏み込まなかった。
その結果、
青木は今日、学校に来ていない。
黒板を消し終え、私は教室の中央に立った。
誰もいない教室は、驚くほど静かだ。
――見なかったことにした日。
その代償が、これなら。
次に同じ選択は、できない。
私は教室の電気を消しながら、心に決めた。
明日、青木が来ても来なくても、
私は、もう一度、向き合う。
それが、教師としての判断だと、ようやく認めた。




