第2話「冗談の温度」
そのあだ名が最初に出たのは、月曜の朝だった。
「青木ってさ、真面目すぎじゃね?」
誰かがそう言って、別の誰かが笑った。
教室の空気は軽い。悪意はない。少なくとも、本人たちはそう思っている。
私は黒板に日付を書きながら、耳だけを向けていた。
「いや、優等生って感じ」
「わかる。先生に好かれそう」
その瞬間、教室の笑いが一段階だけ上がった。
大声でもなく、爆笑でもない。
“分かる分かる”という、同意の笑い。
――そして、分かった。
青木は、笑っていなかった。
昨日よりもはっきりと。
口元は動いているが、目が動いていない。
周囲に合わせて笑っている“ふり”だ。
私はすぐに会話を切った。
「じゃあ、その“真面目さ”が必要な場面ってどんなときだと思う?」
唐突な問いに、生徒たちは一瞬きょとんとした。
話題が逸れ、あだ名はそこで止まった。
成功だ。
少なくとも、表面上は。
だが、胸の奥に引っかかりが残った。
冗談は止まったが、温度は残っている。
その日の昼休み、私は青木を呼び止めた。
個別に話すほどではない。
ただ、様子を見るためだ。
「最近、クラスどう?」
「普通です」
即答。
言葉は滑らかで、詰まりもない。
だが、私には分かる。
この「普通」は、事実の説明ではない。
――最初に飲み込んだ言葉がある。
それが何かまでは分からない。
ただ、ここで踏み込めば、青木は“問題の当事者”になる。
私は、それを選ばなかった。
「係の仕事、どう?」
「大丈夫です」
また、笑顔。
また、“ふり”。
放課後、私は授業の進め方を少し変えた。
グループワークの組み合わせをずらし、
青木が注目されすぎない配置にする。
だが翌日、同じ言葉が別の形で戻ってきた。
「青木、また真面目モードじゃん」
「空気読めよ〜」
声は小さい。
教師の耳には届きにくい。
だが、私は聞いてしまう。
そして、また青木は笑っていなかった。
私は黒板に向かったまま、声を出す。
「今の言い方、面白かった?」
数人が首をかしげる。
「笑いってさ、誰か一人が我慢して成立するなら、あんまりいい笑いじゃない」
説教にはしない。
名前も出さない。
ただ、基準を置く。
教室は静かになり、授業は再開された。
その日の帰り、廊下で一人の生徒に呼び止められた。
青木ではない。クラスの中でも、中心にいるタイプの生徒だった。
「先生」
「どうした?」
「……あれって、いじめですか?」
その問いは、想像以上に重かった。
「どうして、そう思った?」
「いや……なんとなく」
“なんとなく”。
それは、子どもが出せる一番正直な答えだ。
「いじめかどうかは、すぐに決まらないことも多い」
私はそう前置きしてから言った。
「でも、“嫌だって言えない空気”があったら、それは大事なサイン」
生徒は小さく頷いた。
職員室に戻り、私は今日の出来事を記録しようとして、手を止めた。
正式に書けば、これは“事案”になる。
書かなければ、私の胸の中に残る。
迷った末、私はこうだけ書いた。
――クラス内の雰囲気に注意。
それ以上は、書かなかった。
帰宅前、もう一度教室を見た。
青木の席には、誰もいない。
机の上は、きちんと整えられている。
私は思う。
冗談そのものが問題なのではない。
冗談が、誰の上に乗っているかが問題なのだ。
まだ、止められる。
だが、次はもっと難しくなる。
そう確信しながら、私は教室の鍵を閉めた。




