第1話「笑わなかった一人」
四月の教室は、いつも少し騒がしい。
新しい名札、新しい席、新しい空気。笑い声の種類だけが、毎年ほとんど変わらない。
自己紹介が一巡し、最後に軽い雑談を入れたときだった。
前の担任が置いていった黒板ネタを、私はそのまま使った。
「じゃあ最後に。先生の第一印象、正直にどうぞ」
何人かが手を挙げる前に、教室はすでに笑い始めていた。
誰かが「まじめそう」と言い、誰かが「怖そう」と付け足す。
空気は悪くない。むしろ、順調なスタートだ。
――そのとき、分かった。
クラスの三十六人のうち、
一人だけ、笑っていなかった。
表情が暗いわけでも、不機嫌そうなわけでもない。
ただ、その瞬間だけ、感情が教室の外に置き去りにされたような顔をしていた。
名前は、青木。
成績表を見る限り、目立つタイプではない。
運動も普通、友達も数人いる。
問題行動の履歴もない。
私は、何事もなかったように話を締めた。
笑っていない一人を、指摘しなかった。
笑わせようともしなかった。
それが、私のやり方だ。
この能力に気づいたのは、教師になって三年目だった。
生徒が傷ついた理由は分からない。
誰が悪いのかも分からない。
ただ、
「その場で最初に笑わなかった瞬間」だけが、はっきり分かる。
いじめ、と呼ぶには早すぎる。
問題、と言うほどの材料もない。
だからこそ、扱いが難しい。
休み時間、私は名簿を見ながら席替え案を組み直した。
青木を、中心から少し外す。
だが、孤立させない。
クラスの“流れ”に、自然に溶け込む位置。
放課後、係決めのプリントを作り直す。
青木には、人前に出なくていい役割を。
だが、誰かに頼られる仕事を。
どれも、大げさなことじゃない。
気づかれない程度に、空気をずらす。
翌日。
国語の授業で、例文を読み上げた生徒が噛んだ。
「もう一回やり直していい?」
そう言った瞬間、教室が笑った。
その笑いは、昨日と同じようで、少し違った。
私は、視線を巡らせる。
青木は、笑っていなかった。
昨日と同じだ。
だが今日は、目を伏せている。
私はすぐに声を出した。
「噛むのは悪いことじゃない。むしろ、ちゃんと読もうとしてる証拠だ」
笑いは、そこで止まった。
それ以上、何も起きなかった。
昼休み、青木が友達と話しているのを見かけた。
楽しそう、と言えるほどではないが、孤立もしていない。
――これでいい。
少なくとも、今日は。
放課後の職員室で、隣のクラスの担任がぼやいた。
「最近、どこも神経使うよな。いじめって言葉だけ先行してさ」
「そうですね」
私は、それ以上何も言わなかった。
“まだ何も起きていない”段階の話は、共有しづらい。
帰り際、教室をもう一度見回す。
黒板には、消し忘れたチョークの粉。
机の上には、名前を書き損ねたプリント。
青木の席だけ、少しだけ椅子が引かれていた。
誰かが座ったわけではない。
ただ、戻し忘れただけだ。
それでも私は、その椅子をそっと押し戻した。
明日も、笑いは起きるだろう。
冗談も、からかいも、区別がつかないまま行き交う。
大切なのは、
最初に笑わなかった一人を、見失わないこと。
私は教室の電気を消し、ドアを閉めた。
まだ、何も始まっていない。
だからこそ、今日の判断が、いつか誰かの救いになると信じている。




