第4話 砂漠に落ちる雪
「……あの、ハスティリアスさん……?」
ドアノブをぐっと握りしめたまま下を向いて動かないハスティリアスを不審に思ってカレンデュラが声をかけた。
「貴女のような売女が、わたしの名前を気やすく呼ばないでください」
口調はいつも通りだが、ハスティリアスの声は、かすかに震えていた。それはまるで、激情を抑え込んでいるかのようにも思えて、カレンデュラは、つい声を荒げてしまった。
「そんな言い方ないでしょう! 確かにワタクシは、貴方の言う通りの女かもしれないけど、仮にも神官見習いだっていうのナラ、もう少し言い方ってものを考えなさいよ!」
顔をふっとそらしたハスティリアスに腹が立って、カレンデュラはハスティリアスの肩を掴んで言った。否、言おうとした。
「やめて! わたしに触らないで!」
カレンデュラが口を開くよりも先に、ハスティリアスがカレンデュラの手を振り払った。その衝撃でカレンデュラはバランスを崩して、石造りの廊下に強かに腰を打ち付けた。
『いっ…… !? 痛ったぁ……ぐぅ』
痛みのあまり、故郷の言葉で呻くカレンデュラに、ハスティリアスは顔を青ざめさせた。
「お、踊り子の待機所は、この廊下をまっすぐに行って、突き当たりで曲がればつきますから!」
「エッ!? あっ! ちょっと待ちなさいよ! 話はまだ終わってな!? ~~ッ」
カレンデュラが止めるのも聞かずに、ハスティリアスは走って行ってしまった。後を追うためにカレンデュラは立ち上がろうとしたが、さっき打ち付けた腰に鈍い痛みを感じて、再度床に座り込んだ。
『……痛い、とんでもないことしでかしてくれたわね、あの子……まあいいわ、どうせすぐになんて立てないし、しばらくここに居ようかしら』
動くのをあきらめたカレンデュラは、どうにか壁際に移動した。そして痛みが引くまでの間、少しだけ欠けた月を見ていた。
「はぁ、はぁ、はっ……わたしは、悪くなんて、ない……っ。ただの踊り子なんかがわたしに、……」
カレンデュラを置いて、自室に走って戻ってきたハスティリアスは、寝台の上で一人、震えていた。
ハスティリアスの生家は、王太子妃であるルールの生家と並び立つほどに大きな力を持っていた。そのため、ハスティリアスの両親は女の子が生まれたら、王太子妃となっても、我が子が苦労しないような教育をしようと決めていた。そうして生まれたハスティリアスは、美しく優しい母と、明るく穏やかな父の愛を一身に受けて成長した。
しかしその幸せは、突然終わりを告げた。あれはハスティリアスが十二歳の雨季が明けたばかりの頃のことだった。
「ハスティー、見てごらんなさい。あそこの水辺に桃色の花が咲いているわ」
まだ幼いハスティリアスは、母と手をつないで水辺を散歩していた。母が指をさす方に、目を向ければ一輪の花が目に入った。
「きれい……お母さま、このお花はなんというお花なのですか?」
「その花は蓮というの。ハスティーの名前も、この花からとったのよ」
始めて見た蓮は、ハスティリアスの目にはとても美しく映った。
「そこの女、動くな」
その時、ハスティリアスの耳にしわがれた低い声が聞こえた。この辺りは、木々が比較的多く生えていて、ハスティリアスはその中でも大きな木の下にしゃがみこんでいた。そのため、声の主からはハスティリアスの母しか見えていなかった。
「……どちら様でしょうか、わたくしに何か御用が?」
「なぁに、俺はしがない盗賊さ。あんたの身に着けてるもんが高価そうだからな、ちょっくらついてきてもらうぜ。用はそれだけさっ……と!」
男はそう言うと、ハスティリアスの母を担ぎ上げて走り出した。
「!? 何をするのですか! 離しなさい!」
「やなこったな! こんな上玉、俺が見逃すわけないだろ!」
ハスティリアスが木の影からそっと顔を出すと、母に手ぶりで出るなと言われ、慌てて戻った。男は木々の間をすり抜けて、あっという間にハスティリアスの視界から消えてしまった。
「そんな……お母さま、そんなっ! ……お、お父さまに早く……伝えないと!」
ハスティリアスは砂で服が汚れるのも気に留めずに、来た道を急いで引き返した。
「お父さま! お父さま! お母さまがっ! あ!」
子供が走るには少しばかりきつい距離を、一度も止まることなく走ってきたハスティリアスは、父の部屋へと続く廊下で盛大に転んでしまった。
「お嬢様! 大丈夫ですか?」
「うん……、ちょっと痛いけど、大丈夫」
じわじわと目頭が熱くなって、視界がぼやける。ハスティリアスは泣かないようにと頑張ってこらえていたが、瞬きの瞬間に涙が零れ落ちた。
「やはりどこかにお怪我を!? 旦那様を呼んでまいりましょうか?」
「ちが、うのっ……痛いんじゃないっ! お母さ、まがっ! えぐっ……わるいっ、ひとにぃっ……!」
ぼろぼろと零れ落ちる涙を乱暴にぬぐい、しゃくりあげながらも必死に説明するハスティリアスに、侍女頭のハルムは少し考えてから、ハスティリアスを抱えて歩き出した。
「ハル、っム?」
「お嬢様、取り急ぎ旦那様の下に参りましょう。急を要するものと見ました」
急に抱き上げられたハスティリアスは驚いてハルムを見た。ハルムはとても真剣な目をしていた。ハスティリアスは今になって、膝がジンジンと熱を持っていることに気が付いた。よく見ると膝の皮が擦りむけていて、うっすらと血が滲んでいた。
「カマルシヤー様、いらっしゃいますでしょうか。奥様が、サルジュ様が人攫いに連れ去られました」
ハルムがそう告げるとものすごい勢いで、扉が開いた。
「サルジュが攫われただと!? ハスティー! ハスティーは無事なのか!? サルジュと一緒にいたはずだ!」
「旦那様、お嬢様はこちらにいらっしゃいます。それに、奥様のことを知らせて下さったのはお嬢様です」
目元を赤く泣きはらしたハスティリアスは、震える体を押さえながら、声を絞りだした。
「ごめ、なさっ……オアシスでわた、しが……はすに夢中になって、いたらっ、いつの間にかっ、お母さまがへんなっ……男にっ。ごめんなさいっ、わたしだけ……、帰ってっ、来て……ごめんな、さいっ」
「……ハスティリアス、謝らなくていい。いや、謝らないでくれ。お前は、何も悪くない。サルジュもきっと、ハスティーが無事なことを望んでいるはずだ」
カタカタと震えながら謝るハスティリアスをハルムから受け取って言った。
「ハルム、今屋敷にいる人間の中で、腕っぷしに自信があるものをお前含めて五人、集めてくれ。サルジュの救出に向かう」
「承知いたしました、旦那様」
ハルムはハスティリアスの侍女頭で、今でいうギフテッドだった。生まれつき運動能力が常人よりはるかに高く、侍女頭になったのも、ハスティリアスの身の回りのことと、護衛を一人でこなせるからだ。
「ハスティリアス、お父様は今からお母様を助けに行ってくる。すぐに帰ってくるから部屋で待っていられるか?」
「いやです……っ! わたしも、お母さまを助けに行きますっ!」
その言葉を聞いたカマルシヤーは、もちろん断ろうとした。愛しい娘を進んで、危険なことに巻き込む親がどこにいるというのだ。しかしその考えはハスティリアスの瞳を見た瞬間に揺らいでしまった。ハスティリアスが、母を絶対に助けるという強い意志を、瞳に宿していたから。
「……分かった。ともにお母様を助けに行こう」
カマルシヤーは、再度ハスティリアスを抱きしめると、少しだけ笑ってそういった。
「旦那様、奥様を連れ去った男のアジトが見つかりました。こちらの準備は万全でございます。後は旦那様のご指示を待つだけです」
ちょうどその時、タイミングよくハルムが戻ってきた。
「そうか、すぐに向かう。一分一秒でも早くサルジュを救出する。目的はそれだけだ。良いな?」
微かに見えたはずの希望が幻だったなんて、この時は知る由もなかった。




