第2話 蓮
「…………」
夜も更けすっかり静まり返った廊下にコツコツと二人だけの足音が響く。気まずさに耐えきれなくなってカレンデュラはおもむろに口を開いた。
「ア、あの……あなたのナマエ、聞いてもイイ?」
「…………嫌です。生憎、わたしは貴方のような売女に教える名前は持ち合わせておりませんので」
カレンデュラはその瞬間、雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。「何よこの子!」という怒りと、「この子本当に神官見習い?」という混乱がカレンデュラの中でせめぎ合っていた。
「ルール様、レギスタン様。例の踊り子を連れてまいりました。」
カレンデュラは、こういう時は王太子殿下の方から呼ぶものではないの? と思ったものの、自分の身はかわいいので心の中だけに留めて黙っておいた。
「よく来てくれたわね、ハスティリアス! あ、ハスティー、待っていたわ!」
「ルール様! その呼び方は二人きりの時だけと……!」
急に頬を赤く染めてぽこぽこと怒り出した神官見習い……もといハスティリアスにカレンデュラは呆気にとられてしまった。
「ふふ、ごめんなさい。貴女のお名前聞いてもいいかしら?」
「エ、ア……お、お初にお目にかかりマス。西の方からキタ踊り子のカレンデュラと申しマス」
カレンデュラは「ルール様への無礼は許しません」と言わんばかりの視線を、こちらによこしてくるハスティリアスに、若干の恐怖を抱きながらもなんとか名を名乗った。
『カレンデュラさん、とおっしゃるのですね! 今宵はわたくしとレギスタン様の為にわざわざありがとうございます』
その瞬間、カレンデュラはルールの声に息が詰まる感覚を覚えた。鈴の音のように美しく、凛とした芯を持ちつつも、太陽のような温かみのある声。そしてその声でよどみなく紡がれるカレンデュラの今はもう帰ることができない故郷の言葉。
『え、あ、どうして……えっと、王太子妃殿下は、私の国の、故郷の言葉をご存じなのですか……?』
もう二度と聞くことはないと思っていた言葉にカレンデュラは微かに震えた声でルールにそう言った。
「えっと……わたくし趣味で西洋学を学んでおりまして、その一環で様々な言語を覚えようとしている最中なのです。今回の場合は、……カレンデュラさんのお名前の響きが近かったので……」
「さすがはルール様でございます! 一人一人をよく観察し常に周りを見ていらっしゃる。ルール様こそこの国の国母にふさわしい方です!」
こんなどこから来たのかも明確にわからないような自分にも気を使ってくれるルールに、カレンデュラが驚いていると、その後ろからハスティリアスがうっとりとした視線を向けて言った。
「ルール、ハスティリアス。そのくらいにしておこうか。彼女……カレンデュラさんが付いていけてないからね……」
それまで三人が話しているのを、一人外れてにこにこと楽しそうに眺めていたレギスタンだったが、ハスティリアスがルールについて語りだしたのを見てゆるりと止めに入った。
「ア、ありがとうございマス。王太子殿下」
「ふふ……気にしないでいいよ。それよりも良かったらハスティリアスと仲良くしてあげて欲しいな」
レギスタンはそう言ってカレンデュラの方を振り返った。それと同時に、ハスティリアスがレギスタンをキッと睨んだ。
「レギスタン様! 素性の知れない人間の前でそのように人の名前を容易に呼ぶのはおやめください!」
「………えっと、ハスティー……?」
カレンデュラは、すでに何回も名前呼ばれているし、愛称も知っているけど……と思ったがほんの少しの出来心で、そう呼んでみると案の定、嫌悪感を隠そうともしない表情を向けられた。
「その名前でわたしのことを呼んでいいのは、ルール様と……レギスタン様だけです! わたしの許可も取ってないのに、勝手にその名前で呼ばないでください!」
「あれ、そうだったかな……? 初めて聞いた気がするけどありがとう、ハスティリアス」
三人がわいわいと盛り上がっているのを、少し離れたところから見ていたカレンデュラは一人遠い目をしていた。「わたくし、何しにここに来たのだったっけ?」と、頭の中はハテナで埋め尽くされていた。
「あ……ごめんなさいカレンデュラさん。申し訳ないのだけれど、いつもこんな感じなのです。慣れてもらえるとありがたいわ」
ルールはいつの間にか壁際に張り付き、死んだ魚のような眼をしてハテナを飛ばしているカレンデュラに気付くと、驚いて声をかけた。
「ハスティリアスには申し訳ないけど一旦、外に出ていてもらおうか……」
「そうですね……ハスティー、じゃなくてハスティリアス、申し訳ないのだけれど少しの間、席を外してくれないかしら?」
ルールにそう言われたハスティリアスはピシリと固まって動かなくなった。何か文句を言おうとしていたが、ルールを前にしておとなしくなった。
「う……、ルール様とこの売女を一緒にするのは心底嫌ですが……他ならないルール様の頼みならば致し方ありません。貴方、ルール様とレギスタン様に何かしたら絶対に、ただじゃ済ましませんからね」
思い切りカレンデュラに威嚇してから、ハスティリアスは扉を閉める際に、わざと大きな音を立てて部屋から出て行った。壁を挟んだ向こう側から人の気配を感じるので、おそらくハスティリアスは部屋の前で待っているのだろう。
「ようやく落ち着けますね……では早速ですがカレンデュラさん。西洋のお話、聞かせてもらえますか?」
「ハ、はい! モチロンです、えっと、デハ…西洋美術史のハナシなどはいかがでしょうか?」
カレンデュラは故郷に居たころはそれなりに、名の知れた画家の愛人だったため比較的、西洋美術史には自信があった。……まあ、画家の本妻に浮気がばれて、カレンデュラは故郷を追われることになったのだが。
その話は少々下世話なうえにカレンデュラ自身も、あまり思い出したくないことなので、今は割愛しよう。
「西洋美術史……とても興味深そうな話だね。後学のために私も聞いていてもいいかな?」
「後学? 王太子殿下はナニカ美術を、やっていらっしゃるのですカ?」
カレンデュラが不思議に思ってレギスタンにそう尋ねると、隣にいたルールの方がぱっと表情を明るくして答えた。
「そうなのです! レギスタン様はよくわたくしの絵を描いてくださるのです。わたくしとしては宮廷画家に描いていただくときも非日常で特別な感じがするのですがレギスタン様が描いてくださる絵は心がこう……温かくなるのです」
「ルールは美しいから……いつまでもルールの姿を描いたものを、持っていたいんだ。それに、ルールを一日中眺めていられるのは、夫の特権だと思っているよ」
他人であるはずのカレンデュラの前で甘い空気を醸し出す二人に、少し遠い目になったが仲の良い二人を見ていると、心が軽くなった。
「そうなのですね、これはワタクシが故郷に居たコロノ話なのですが、ワタクシの旧友に、カラヴァッジョという画家がオリマシテ……」
「カラヴァッジョだって!?」
民衆からは常に穏やかで心優しい王太子、と評されるレギスタンが大声を上げたことに驚いて、ルールとカレンデュラは思わず顔を見合わせた。
「エエ、そう言いましたが……」
「カラヴァッジョといえば、西洋の有名な画家じゃないか! 確かキアロスクーロという技法は、カラヴァッジョが確立したはず……。私も絵を描くときによく使うけれど、とても新しい技法で普通に絵を描くときよりも、被写体の美しさが際立って……ぁ、」
それまでとても楽しそうに絵や技法について語っていたレギスタンだったが、何かに気が付いたのか途端に喋るのをやめた。
「も、申し訳ない……。私としたことが……つい熱くなってしまった。でも、絵を描いている身としては、カラヴァッジョの話には……どうしても、興味を引かれてしまってね」
恥ずかしさからかほんのりと頬を赤く染めてレギスタンはそう言った。
「ふふ……デハ、話の続きをしますね」
カレンデュラはゆったりと微笑んだ。椅子の上で姿勢を正すとカレンデュラは、
また語り始めた。




