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終章.愛莉

 ドリアがきらいだった。大嫌いだった。



 ママがニセモノになったその日の夕飯は、今でも覚えている。

 ドリアはママのきらいな食べものでもある。それなのに、祖母はうっとりしながらドリアを運んできた。アレは目を輝かせて、がつがつと食べた。ママはそんな食べ方しない。

 へらへらした笑顔も舌っ足らずなしゃべり方もママじゃない。

 たしかにママの顔をしているのに、ママじゃない。


 なにが起こっているのか、わたしにはわからなかった。怖くて苦しくて悲しくて、泣いて暴れて疲れて……。食事もせずに気絶するようにねむった。真夜中にばっと目が覚めた。起きてぐずっていたら、祖母にぴしゃりと頬を張られた。呆然としていると、皿がどん、と音を立ててテーブルに置かれた。乱雑に放るように置かれたフォークが跳ねて、からんと鈍い音を立てた。

 目の前にあったのは、温め直したのだろう、ほかほかと湯気を立てるドリア。



 ママの顔をしたナニカは、にやにやしながらこっちを見ている。

 手作りのホワイトソースと、鶏ひき肉でつくられたあっさりめのミートソースがかかったドリアだった。ソースの中にはにんじんやピーマンが隠されている。

 このドリアはそれから何度も何度も何度も食卓に並んだ。ふだんは野菜を残すアレへの「愛情」の押し付けがましい感じに苛立った。





 あの日を境にすべてが変わった。


 優しかった大好きな祖母が、わたしに向ける目が変わった。虫を見るみたいな目だ。

 ママはママじゃなくなった。わたしと対して変わらない子どものようになってしまった。いつでも祖母に甘えてばかり。自分はかわいそうな存在だといって、働きもせず、ただごろごろと寝ころんだり、ゲームをしたりしている。

 きりっとした服が似合っていたのに、髪の毛を子どもみたいに高い位置でふたつに結んで、大きなリボンをつけて、ピンク色のワンピースを着ている。




 ふたりはわたしを疎んでいた。憎んでいた。

 一方の祖父は”主体性のない人”だ。祖母に言われるがままだが、わたしを憎んでいるわけじゃない。ただ、無関心なだけの、人形みたいな人。




 小学校を卒業したころ──家を追い出された。



 といっても、あの人たちも馬鹿じゃない。庭の片すみに小さな小屋を建てたのである。離れという名目で。

 そこにはママが子どものころ使っていたものがそっくりそのまますべて移植された。無造作に段ボールに詰められて、小屋の中に入れてくれることすらなく、ただ入り口に積み上げられただけ。


 わたしはそこで生活することになった。でも正直ほっとした。同じ空間にいることのほうがつらかった。





 今ならわかる。ママは完ぺきとはほど遠かった。ママ自身が子どもっぽい人だ。子どもがそのまま大人になったみたいにわがままだった。性格だって、きっと悪かった。

 ──そもそも人間じゃあなかった。

 ()の人生を奪った。祖母がいうそれは確かなことなのだろう。




 でも、それでも、わたしにとっては大事なママだった。




 幼稚園の送り迎えにくるとき、誰よりもかわいいママが自慢だった。

 クラスの子が見とれているのがわかって「いいでしょー!」って、誇らしい気持ちになった。


 くるんと巻いた髪の毛や、つやつやした桜貝みたいな爪、すらりと伸びた足を包むパンツスーツが、大人の女の人という感じでかっこよかった。


 家でのママはせっかく巻いた髪の毛も、ぐるぐるとお団子にしてしまって、カラコンも外してメガネ姿になる。外でのママとはぜんぜん違う。


 大体いつも疲れていたし、いらいらもしていた。今振り返ってみると理不尽だなって思うことがあるし、ニセモノにならなくても、こうして思春期に入ったら仲が悪かったかもしれない。親子喧嘩したかも。ママうざって思ったかもしれない。

 こんな家出ていってやる!と思ったかもしれない。でもそれでも、そんな未来がほしかった。




 たまに、ぎゅっと抱きしめてくれるときがあった。甘いいいにおいがした。

 祖母の家に移り住んでからは、仕事から帰ったあとにいつも、絵本を読んでくれた。美人なママが役になりきったみたいに読むのはなんだかコミカルで面白くて、膝の上は狭くて温かくて、最高にしあわせだった。



 ママは、たしかに生きていた。

 ママの部屋には、ママがこれまで生きてきた証が確かにあった。



 一生懸命描いたであろう下手くそな絵には、「おかあさんだいすき」というメッセージが添えられていた。けれどもくしゃくしゃに丸められたそれが、部屋のあちこちから出てきた。涙でよれた跡があった。


 美しく整った字でびっしり書かれたノートには、しっかりと勉強をした痕跡があった。100点満点の答案も、綺麗にファイリングされて部屋に置かれていた。 ママは有名な大学を出ているという。

 祖母は「人間じゃないから、なにかまやかしのちからを使ったのだ」と言っていた。そうじゃなかった。それは努力に裏打ちされたものだったのだと知った。










「早くここから出ていきたい……」


 裏山の木に腰かけて、そんなことを思った。

 日が山の向こうに隠れると、まだ沈みきっていないのに、まるで誰かが明かりを消したみたいに、世界が急に青く冷たくなった。


 風が強い日で、セーラー服の衿がはたはたと揺れている。

 空に手をかざす。わたしの手はずいぶん大きくなった。けれどもまだ、子どもなのだ。なんて不自由なのだろうと思った。


 木の上からわが家を眺める。

 わたしだけがいない家からは、ホワイトソースの甘いにおいが漂ってくるような気がする。女二人の笑い声がからからと響いてくる。ママの顔をした梓が、くもり硝子の向こうで踊っている姿が見えた。


 ──ママなら、そんな変なこと、しない。


 風にまぎれて、誰かの足音がした気がした。







「愛莉、ちゃん……」


 控えめに声をかけられた。木の下に化粧っ気のない女が立っていた。年の頃は、わたしの記憶にあるママと同じくらい。30歳くらいだろうか。

 目が合ったけれど、どうでもよくてわたしはまた空に視線を戻した。



「……正しいことをしたと、思ったんだけどな」


 女はぽつりとそう言った。

「何の話?」と聞き返そうとして、けれども、次に見たときにはもうそこにいなかった。

 木の根元には紙袋が置かれている。中にあったのは、一冊のアルバムとメモだった。


《片づけに立ち会ったとき、真喜(祖母)さんが捨てようとしていたので保管していました。どうしても限界になったら遠慮なく頼ってください。──水守楓》


 携帯番号と住所が書かれたその紙を、わたしは泣きながら破った。なぜだかわからないけれど、この人がママをニセモノにしたのだと思った。

 小さくちいさくちぎって、風にのせて散らしてしまった。







 アルバムの最初のページは、やたらごてごてしていた。

 中央には赤子の写真が貼られている。周りを囲むように、キラキラしたシールや、花のシールが飾られていた。真ん中に「AIRI」とアルファベットのシールが添えられている。

 次のページは、手紙が丸ごと貼りつけられていた。




《愛莉って名前は、みんなに愛される幸せな子になってほしくてつけました。莉? 正直見たときの字面のかわいさを優先したんだけど(笑) ここにも意味はあるんだよ。ジャスミンの花を表します。ジャスミンの花言葉にも「幸せ」っていう意味があるよ。わたしの大事な愛莉。元気に、幸せに育ってね》




 そこからはもう、諦めたみたいにシンプルになっていった。

 思わず「ふふっ」と笑い声がこぼれる。1ページ目からの落差がひどい。きちんと貼りつけるのではなく、マスキングテープで仮止めしているだけのページすらあった。


 けれども決して途切れることなく、ママが世界から消えたあの日の、少し前の日づけのものまで、”愛莉のアルバム”は続いていた。


 あの家には決して置かれていない、幼少期のわたしの姿が、たくさんその中にはあった。




 ママといっしょに変顔をするわたし。

 父と三人で撮ったプリクラでは、父のほっぺたがピンクになっていて面白くって、思わず笑ってしまった。


 はじめのころは父やママも写真に映っていたけれど、だんだん、わたしひとりだけが映ったものに変わっていく。──せめて、ママの姿を残してほしかった。アレよりもきりっとしてて、かっこよくて、美人のママをもう一度みたい。






 ぽたぽたぽたっと、強い雨が降るときみたいな音がした。手の甲が濡れていた。




 確かにママは人間じゃなかったのかもしれない。でも、心があった。生きてた。──愛されていた。


 わたしは手の甲で目元をぬぐった。





 薄闇の迫ってくる山道を降りていく。ふもとの学校を目指して。


 水守楓には頼らない。

 でも、あの家で負け続けるつもりだって、ない。わたしの家での状況を訝しがっていた先生のもとへ向かう。幸い、職員室にはまだ灯りが着いていた。




「先生、……助けて」







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 オーブンレンジの中を覗いてみる。ホワイトソースがくつくつと煮立っているのが見えた。キッチンがいい香りで包まれる。


 ホワイトソースは市販の缶詰だけど、ミートソースは手作り。

 ソフリットのほかに細かく刻んだ茄子を加えている。ソフリットというのは、みじん切りにした玉ねぎ、にんじん、セロリをくったりとするまで炒め煮にしたものだ。


 工程はシンプルだけど時間がかかる。


 「ママ、おなかすいた……」


 昼寝をしていた娘の小羽(こはね)が、ぺたぺたとキッチンに歩いてくる。わたしは一度玄関に向かい、鍵がかかっているのを確認する。この間、静かにドリアを食べていると思ったら、外に勝手に出ていてひやっとしたことがある。

 わたしはもう、なにも失いたくなかった。


「もうちょっとまってね」


 小羽を抱き上げて、オーブンレンジの中を一緒に覗く。小羽は鼻をくんくんと鳴らした。


「ドリアだ! ママのドリア、大好き」


 ママはきらい……。それは言えなかった。

 大学で食育についての話を聞いた。幼少期になにかトラウマを持つ食べものは、本来おいしいはずなのに、まるでバグのようにその味や食感まで不快なものとして認識されるらしい。

 だから食べるのを強要してはいけないという話だった。それを聞いて、すとんと落ちるところがあった。






 あれから先生のおかげであの家から逃げ出すことができた。

 子どものいない父の妹夫婦に引き取られた。関東から遠く離れた四国に身を寄せることになり、あの人たちが近くにいないと思うとほっとした。


 叔母夫婦とは思春期ではじめて会ったので、甘えるとか愛情を注いでもらうみたいなことはなかった。互いにすこし距離があったし、他人だった。けれども、穏やかに暮らすことができた。

 奨学金をもらって地元の大学に進学。教師になった。小学校で働いていると、子どもたちそれぞれの背景がよく見えてくる。なるべく押しつけがましくならないようにしつつ、彼らが少しでも穏やかに暮らせるように動いていた。


 やがて、大学の先輩と結婚し、小羽が生まれた。わたしはようやく、本物の家族を手に入れた。叔母夫婦には感謝していたし、学校の子どもたちも可愛い。けれども、わたしはずっと、「本当」を探し求めていたのだと、この子が生まれたときに思った。


 生まれたばかりの小羽が最初に目を開いたとき、その目は夕日が沈んだ直後のような、淡い紫色に澄んでいた。驚いたけれど、新生児のときはたまにグレーや青の瞳になる子がいるのだという。

 小羽の目も、ひと月も経たないうちに真っ黒に変わっていった。






「小羽、あとは待つだけだからさ、絵本でも読もうか」


 そう言ってわたしは、娘を抱き上げたままソファに座った。

 膝のうえの小羽は温かくてやわらかい。鼓動がとくとくと伝わってくる。細くてやわらかい髪の毛が、わずかな日の光に照らされて金色に輝いている。


 なんだか、ずいぶん遠くまで来てしまったような気がした。

 窓の向こうでは日が落ちていく。そろそろ灯りをつけなきゃ、とわかっているのに、すこしでも離れがたい。なんだろう。幸せすぎて、前が見えない。


 わたしは滲む声をお茶といっしょに飲み干して、小羽が好きな絵本のタイトルを口にした。





 電子音とともにオーブンが止まる。ドリアが焼けたのだ。小羽の大好物が。


「ママもたべる?」


 小羽が訊いた。


「うん……」






 ドリアはきらいだった。特に鶏肉が入っているものが。


 でも、思い出なんか上書きすればいい。──小羽の好物のドリアをわたしも「好きだよ」と言えるようになるまで、きっと、あと少し。









『ニセモノドリア』(了)

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