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5.千景




 玄関の扉を開けると、娘がとてとて駆けていった。


《ふふ……》


 頭の中で、()()が笑う。


 かがんで千尋の靴を出船に揃える。ネギが倒れてビニールががさりと鳴った。 今夜は麻婆豆腐。娘も食べられるように、味つけは塩麹だけ。白くてあっさりした優しい味の麻婆豆腐は、私や夫には少し物足りない。

 千尋が生まれる前に住んでいた街の、小さな中華料理屋の麻婆豆腐が夫は格別に好きだった。娘が大きくなって、辛いものが好きになったら、またああいう本格的な麻婆豆腐を夫のために作ってあげたいと思っている。


 千尋が眠ったあとベランダに出た。

 ガーデンチェアにそっと座って、手作りの梅酒を少しずつ飲む。眼下に広がる東京の街が綺麗。宝石箱みたい。



 なんて穏やかで幸せなのだろう。時々、不安になる。なにか、忘れているんじゃないか、と。



《忘れていいのよ……》


 瞼がとろりと重たくなってきた。








 その日、お昼にランチに出かけたのは、たまたま朝寝坊したからだった。とりとめのないことを話しながらエントランスを抜けた。ふと入り口の広場に見覚えのある人が立っている。


「なにあの人。不審者ですかね」


 同僚がこっそり耳打ちをする。くたびれたスウェットを着て、ぼさぼさの髪の毛で無精ひげを生やしたその人は、なにもかもが整然と整えられたこの場所には異質でひどく目立っていた。




 でもどうしてだろう。あの人を、知っている気がする。




 気のせいじゃなければ目が合った気がした。なにか話したそうな、そんな顔で。








 記憶が蘇ったのは1週間ほど経ったころ──。電車でWebニュースを見ていたときのことだ。




『S県・首刈峠で男性の遺体を発見』




 そんなタイトルの記事だった。なにげなくタップして、亡くなった男性の名前を見たとき、ばらばらになっていたパズルが一気に完成したような気がして、頭が痛くなった。





「山田くん……」





 物語理論の授業でいっしょだった、山田くんだ。





《行かないで。おねがい……》


 頭の中の声が、警告を鳴らしていた。でも、なにかに突き動かされるように私は会社に電話をし、反対の電車に乗り込んでいた。











「行ったら帰ってくる、ねえ」


 山田くんは、つまらなそうにレジュメをつまんだ。授業のときは大体眠っていて、見た目も派手。ちょっと怖そうな人。私からすると、遠い人だと思っていた。

 でも、テキストを貸したのをきっかけに少しずつ話すようになった。お笑いが好きで、よく笑う素敵な人だと思った。


 だから、早織から彼との飲み会に誘ってもらえたときはうれしくて。この夜でなにかが変わるような気がしていた。





 ところが。肝試しでは、崇くんとペアになってしまった。

 しかも、トンネルの手前で引き返しはじめた。


「待って、なんで?」

「いいじゃん」


 彼は強引だった。真っ暗な山道には私たちだけしかいない。怖かった。

 行き先は崇くんの家で、襲われそうになったけど、なんとか身を守った。彼は「冷めたわ」と言ってねむってしまった。


 終電なんかとっくに過ぎている。スマートフォンがあまり普及していないころ。ここがどこなのかもわからないのに、夜中の街に飛び出す勇気はなかった。

 部屋の隅で体育座りをして朝を待った。






 まぶたを刺す光で目を覚ます。目の前には、背中を丸めるようにしてテレビに向かう姿。肘のあたりが小刻みに動いていて、その動きに合わせて効果音が鳴る。ゲームをしているのだと気がついた。

 バッと飛び起きる。着衣の乱れは、ない。


「なんもしてねえよ」


 崇くんはそう言うと、可笑しそうに笑った。セーブしてテレビを消すと、キーを持って「行くぞ」と立ち上がる。


「……ここ、どこ?」

「とりあえず風呂行きてえんだって。あとで送ってやるからさあ」


 彼は適当な感じで言いエンジンをかけた。






 行き先は銭湯だった。


「じゃ」


 番台でそういうと、彼はすたすたと男湯へ入ってしまった。困惑している私に、頭上から声がかかる。


「410円。タオル借りるなら80円ね」







 女湯を出ると崇くんは待合の畳でフルーツ牛乳を飲んでいた。


「ん」


 1本差し出される。なにを話していいかわからなかったけれど、彼がなにも言わないので黙っていた。意外といやじゃなかった。

 ふと崇くんの横顔を眺める。早織が格好いいと話していたけれど、確かに。俳優のように整った造作をしている。


 それから私たちは、彼のバイクでベルラへ向かった。ずっと無表情だった彼が、ドリアを食べるその一瞬だけ、目尻が下がったのに気がついた。






 それからも気が向くと崇くんはふらりと家にやってきた。おなかすいた、と言って。


 ごはんを食べて同じ部屋でねむって、翌朝銭湯に行ったらベルラに向かう。そんなふうに何度も会っているうちにだんだん絆されていった。

 毎回懲りずに襲ってくる彼に抵抗するのをやめたのは、いつだったのだろう。









 馬鹿だった。言葉なんてなかった。

 それなのに付き合っていると、これからもずっといっしょだと無防備に盲信していた。

 卒業前、未来について話したら、自分たちが付き合っていなかったことを知った。





 卒業式の日、崇くんは、袴姿でもスーツ姿でもない、ちょっといい服を纏った美人と連れ立っていた。悟った。そういうことか。悔しくて、妬ましくて、もやもやした真っ黒なものを、崇くんではなく彼女に抱いてしまった。


 ふと、()()()()()









 卒業式のあとの、記憶がない。


 ぴしゃりと頬が濡れた。

 壊れた屋根を伝うようにして、しずくが落ちてきた。屋根の割れ目から、朝の淡い色の空が見える。床のすき間から一本だけ雑草が伸びていて、手の下には、丸い曇った鏡がひとつ。ひどく古いもののようで、あちこち欠けたり罅が入ったりしている。


 恐ろしくなって建物を飛び出す。打ち捨てられた神社のようだ。

 入り口の灰色の石に文字が掘られている。だが、擦り切れていてほとんど読めない。



「羽……白……?」


 すぐそばに川が流れていた。






《ここを進むのよ……》







 なにかに導かれるように進む。どれだけ歩いたのだろう。きっと何時間も経って、ようやく上に上がる石段を見つけた。


 首刈峠の文字──。ずっと前に、肝試しのために来た場所だった。







 あの一日のことなんて忘れていた。それだけじゃない。山田くんも、崇くんも。あの記事を見るまで、すっかり頭の中から抜けていた。






 電車からバスに乗り換えた。長いこと歩く。トンネルには立入禁止のテープが貼られていた。


 近隣に警察がいる様子はないが、女性が一人佇んでいた。山には似合わない黒のスーツを着込んだ、同い年くらいの女性。見たことがある、ような。


「……どうして、こんなところにスーツで?」


 聞いたのは彼女のほうだった。自分の格好を見下ろす。確かに。でも。


「あなたも」








 そのとき。








 《はぐちゃん……》










 頭の中で、声が響いた。




 今まで疑問に思ったことがなかった。



 でも、これはなに。頭の中にずっとあった声。

 私のものじゃない。小さな女の子の声。






 身体が勝手に動き出す。

 女性も近づいてくる。

 強い力で引っ張られるように、私たちは互いに驚いた顔のまま、鏡に触れるときのようにぴたりと手を合わせていた。








「羽白、あねさま……?」


 目の前の女性が目をまんまるに見開いてつぶやいた。ぼろぼろと大粒の涙が落ちてくる。





《はぐちゃん……》



 そのとき、頭の中にチカチカと膨大な量の映像が流れ込んできた──。










 あれからどれほど経っただろう。

 16時が近づいてきた。デスクの上を手早く片づける。


「お疲れさまでした」


 やや遅れて「お疲れさまですー」と声がする。タイピングの音が心なしか跳ねるように大きくなった。どうして今まで気づかずにいられたのだろう。定時より早く上がる私に、同僚がどんな目を向けているのか。







 頭のなかの声は、もうない。







 保育園につくと、千尋が「ままー!」と満面の笑みで駆けてきて、「走っちゃだめだよ」と叱られていた。


 愛おしくて、悲しくって、抱きしめる。


 目の前に子どもがいるのに、崇のことが思い出される。

 10年以上もずっと、忘れて生きてきた。なのに、溢れそうなくらい燻っている。


 これまではずっとずっと、穏やかだったのに。


 自分がぞんざいに扱われた記憶。無価値だと突きつけられたような記憶。それは、たとえ愛するものが増えたからといって消えてしまうものではない。完全に癒えることではない。

 

 家族への愛情はなにも変わっていないのに、これまで忘れていた悪感情が、なにか黒いものが吹き出してくる。蝕まれていく。






「今日のごはん、なあに?」


「おさかなフライだよ」


「タルタルソースも作ってね!」


「うん。ちーちゃんの好きな、卵たっぷりの作ろうね」




 小さなちいさな千尋の手をにぎって家に帰る。

 ああ、なんて静かな十年だったのだろう。頭の中の声は消えたのに、自分の思考がひどくうるさい。でも、このノイズも抱えて生きていく。




 私はずっと守られていた。

「羽白」という名の神に。






 私の中にいた彼女は、あの日、会社を休んで首刈峠へ行ったときにいなくなってしまった。今までが特別だったのだ。


 もう凪いだこころは持てないのだろう。忘れていた悪感情をどうにかやりくりしなければいけないのは、まるでハンデを背負ったみたいに憂うつで心を重くした。

 でもこれは、ほかの人がきっと、だれでも抱えているようなもの。









 私は今、変わらなければいけない。

 

 ある集落について書き終えた原稿を印刷した。上司のデスクに置き、保育園へ向かう。

 まっすぐに前を向いて。



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