4.真喜
薄氷の上を歩くような10年が終わった。
やっと解放された──そう思っていたのに。
娘が、戻ってきてしまった。
子どものころ、祖父から託された秘密の仕事がある。
離れへ夕餉を届けることだ。そこには祖母が幽閉されていた。
あのころの私は、村のためだけに生きていた。首刈峠と呼ばれる場所から少し離れたところにある集落だ。
峠の道路から道を外れると、小さな山と道路をつなぐように赤い橋がかかっている。そこを渡れば”羽黒集落”。昔ながらの古いつくりの家が、山々を背にぽつぽつとまばらに立ち並ぶ場所。私の故郷。
店はない。家以外の建物は、集落の中心にある集会所と、橋から見てずっと奥、山の斜面のすぐ手前にある羽黒神社だけ。
窮屈な村だった。
男たちが集会所で酒盛りをしているあいだ、女たちは何品も何品も熱々の料理をつくり、配膳する。戯れに身体を撫ぜられ不快感に耐えることもあった。
拒絶できるのは羽黒女と呼ばれる女──私の母である香村登喜だけ。
後ろに黒い羽を生やしたなにかがいる母は、村の女王のような存在で、私は村の女たちに育てられた。きっと、アレが憑いたときから。
村の外から嫁いできた祖母は、登喜の”儀式”へ反対したら、こうして幽閉されてしまったと嘆いていた。
「真喜、私が死んだらここからお逃げ。登喜にも幾度となくそう伝えたのに」
それが祖母の口癖だった。
「本当は死んだことになってるんだろう?……そう考えると、殺されなかっただけ愛はあったのかもしれないねえ」
18のとき、祖母が亡くなった。
とっくの昔に死んでいたはずの祖母が見つかり、村は大騒ぎ。どさくさに紛れて東京へ逃げた。
祖母に持たされていたのだ。大叔父の住所と手紙とを。
こうして私は次期・羽黒女の役を捨てた。
子も孫もいない大叔父には歓迎され、姓を変え、大学にも通わせてもらえた。
それは私にとってはじめての、静謐な時間だった。
大学構内の藤棚の下でぼうっとするのが好きだった。枝から垂れ下がる淡い紫の花々が、まるで風そのものみたいにそよぐのを眺めていた。何も考えない時間は贅沢に思えた。陽に透けた花びらが、紫色の光のカーテンのようで、綺麗で。
就職して、結婚して、娘が生まれ、──平穏に生きてきたはずだった。
梓が誘拐されるまでは。
警察にも届けたがなかなか見つからない。行方がわかったのは、私の”母”である香村登喜が死んだときだ。
Webニュースに載った小さな集落での”事件”。村の外観を映した写真に梓が映っていた──。
「おかあさーん!」
何事もなかったかのように、にこにこしながら駆けてくる娘の姿は、どう見ても梓だ。ちょっと吊り目がちの猫みたいな瞳も。小さくて薄いくちびるも。手を広げてかたく抱きしめた。
でも。じりじりと頭の中で警鐘が鳴っている。これは誰? どうしてソレが後ろに居るの。
村を離れてから10年以上経っていた。知らない顔ばかりで新しい家もいくつかある。どんよりとした曇り空のような雰囲気が少しなくなっている。
「あんこちゃーん」
梓と同じくらいの女の子が、駆け寄ってくる。
「あんこ……?」
「おばーちゃんが、私のこと”あずきちゃん”って呼んでたの。だからいつも友だちには、あんこみたいだねって」
ぞわりと肌が粟立った。ああ、やっぱり母は。あの人は、この子を”器”にしようとしたのだ──。
「目的はわからないが、この村は、異形を飼ってるんだ」
離れで祖母からそう聞いたことがある。
「飼う?」
「そう。そのための”生贄”として、村の女が選ばれる。女は直系である必要があるから、外から来たあたしじゃあ生贄にはならないのさ」
「どうして?」
「”許し”がいるのだと思っている」
祖母の家は祈祷や呪術のような霊的な営みに関わっていたらしく、彼女なりの知識から仮説を教えてくれた。
「あたしがあの子に……おまえの母親につけた名前はね、違う名なんだ。登紀。”登る”に、”のり”で、登紀。却下したのは夫だ。必ず”喜”という字をつけなければならない、とね」
私の名にも「喜」の字が入っている。気づいた瞬間、背筋が冷えた。
「羽黒女は、あの異形の”うつわ”なんじゃないかと思うんだ。……あいつは、今の登喜は、あたしの娘なんかじゃない。違うんだよ。あいつの持つ記憶は確かに同じだ。だが、違う」
祖母はくちびるを噛んだ。
「……それを受け入れるための”許し”が名前なんだ、きっと。”喜んで器を差し出します”ってね」
母の登喜は、攫った梓の持ちものすべてに名前を書いていた。
「梓喜」と。
そういえば昔もこんなことがあったような気がする。私がずっとずっと小さかったころ。神社の中で、前の羽黒女のおばさんが死んでいた。
その日からだ。母の様子がおかしくなったのは。
羽黒女から羽黒女へ。アレが乗り移っているのだ──。
梓は、絵を描くのが好きな子だった。毎日まいにち、何枚も私や夫の顔を書いては「これあげるね!」と渡してくれた。段ボール3箱分の絵が自宅には溜まっている。
けれども集落から戻ってきた梓は、絵をすっかり描かなくなっていた。大好きだったはずのドリアも食べない。
祖母の言葉を思い出す。娘が娘じゃなくなった、と。
ニセモノが擦り寄るように描いた絵を見て心が冷えた。下手くそな、絵。『おかあさんだいすき』と添えられている。私は差し出されたそれを叩き落とした。
「おまえは娘なんかじゃない!」
夢の中で大きな烏に追いかけられる夢を見た。私は小さな虫になっていて、最後には食われてしまう。まるで、アレを大事にしろという警告のように──。
私が死んだら梓はもう助けられない。いい母親のふりをするしか、なかった。
卒業アルバムをなぞる。梓には、つねに”死”が纏わりついていた。
いじわるをした男子が死んだ。梓を仲間外れにした女子も死んだ。梓に手を出そうとしたサラリーマンは首刈峠から落ちた。
皆同じだ。
そこになにもないのに怯え、狂い、死んでしまう。
私が殺されなかったのは、単に、梓の庇護者だったからなのだろう。薄氷の上を歩くような人生。大学進学を機に梓が家を出て、やっと、平穏な日常が戻ってきた──。
梓が結婚したのは軽薄そうな男だった。私は疲れていた。どうせこの男もすぐに死ぬのだろう。ところが、数年が経っても、子どもが生まれても、あの男は生きていた。
何より驚いたのは、子どものことだ。どうして愛莉に「喜」のつく名をつけなかったのだろう。
離婚届を置いて家に戻ってきたときも驚いた。
もしかして、後ろのアレは、自動的に発動するようなものではない? この子が許している者には攻撃しないのだろうか。梓はどうにもあの男に”執着”しているように見えた。悪感情ですらその一端でしかなくて。
家に戻ってきた梓の機嫌を損ねないように慎重に暮らしていたが、やがて、あの男が首刈峠で見つかった。
大叔父の伝手を辿って拝み屋を探してもらった。
待ち合わせに指定されたのは、娘の家にほど近いファミリーレストラン。
メニューをぱらぱらとめくってみる。あるページで手が止まった。ドリア。これは、あの子の──梓の好物に、似ている。
ほかほかと湯気を立てるドリア。うちで作るときは、鶏ひき肉を使って作ったっけ。そのほうがあっさりした感じになる。梓は好き嫌いが多かったから、人参やピーマンを形がなくなるくらい小さくきざんで混ぜ合わせて。
「おまたせしました」
現れたのは、ずいぶん若い女の子だった。明るい茶髪を後ろでまとめ、パンツスーツを身にまとっている。
全体的に見ると今どきの女の子という感じがするのに、化粧っ気がないのが妙にアンバランスだった。眉もほわほわとした地毛だけ。ぽってりとしたくちびるには色がなく、印象が薄く見えた。
「水守 楓と申します。父に言われて参りました」
彼女はそう言うと頭を下げた。
「私、あなたのお嬢さんにお会いしたことがあります」
「梓に?」
「ええ。それから亡くなった二人の男性にも」
私は息を飲んだ。
「本当にたまたまだったんです。でも、お会いしたからこそわかります。……ごめんなさい、私の手には負えません」
「そんな……」
「アレは、神の領域のものなんです。私じゃあ手が出せない。対峙したときも震えが止まらなくて」
「神……」
集落の言い伝えを思い出した。
首刈峠の奥には古い神社がある。そこには二柱の神さまがいて、集落を守ってくれるのだという。
双子の神、羽黒と羽白。羽黒は現人神。いつも、集落とともにある。羽白は忘れられた神。その社がどこにあるのかさえわからない。
神は、2柱いる。羽白女とはなんだったのか。誰も知らなかった。
昔盗み見た文献を思い出す……。姉。忘却。そんな二つの言葉が書かれていた、ような。
水守楓と私は首刈峠へ向かった。
ややあってトンネルの奥にたどり着いた。目の前は行き止まりに見えるが、草で覆われた岸壁には、じつは秘密の入り口があるのだ。
「入り口はふたつある。羽黒集落からの入り口と、ここ」
きっと私を”羽黒女”にするつもりだった母から、教わっていた。草をよけて、岩壁のくぼみに手を入れる。重たい。がらがらと引き戸のように扉を引くと、昏い洞窟がぽっかりと口を開けた。
「ひええ……」
楓が間の抜けた声を出す。洞窟の向こうは凪いでいた。
まるで風が吸い込まれていくみたい。足を踏み入れた瞬間から、しん、と身体が冷える感じがあった。独特のこもったにおいがした。
じゃりじゃりと音を鳴らして、静かにその奥へ進んでいく。
「ああ、ここそのものが、神域なんですね」
楓が眩しそうに言った。
「本当は、村から直接行くことができる。でもそうしたら、妨害されるかもしれない。だから緊急用として教えてもらった通路で来たの」
「妨害……」
ぶるりと震える彼女は、本当に頼りなさそうで、不安になってきた。
「あの、お話聞いてて思ったんですけど」
楓が控えめに切り出した。
「”喜”の名をもつ人は、器という話。あれは、神が顕現するための器だったんじゃないでしょうか」
「顕現?」
「そうです。梓さんの中に入っているのは、梓さんじゃない。神そのものだと思っていて。あの後ろにあるものは、防御装置みたいな意思のないものなんじゃないかな、って……」
だんだん自信がなさそうに尻すぼみになっていった。
「負の感情に反応して攻撃する感じに思えました。だから、攻撃してきた人は亡くなってしまった。真喜さんは、アレの正体を見抜いていて、悪感情を持ってる。でも庇護者だから警告だけ……」
「怖いこと言うのね」
「っ、すみません、すみません!」
「……いいの。私も同じ考えを持っていた。もう少し聞かせて。私がわからないのは、アレは、自分を梓本人だって思ってるような気がすることなの。母は違った。自分のことを”羽黒”だと言ってて、まるで女王のような感じがあった」
「……推測でしかないんですが。半分成功して、半分失敗してるんじゃないですか?」
水守楓は首をかしげた。
「半分?」
「えっと、梓さんの身体を乗っ取ることには成功した。でもその中身……つまり神の記憶までは引き継げなかったんじゃないかなって。なんていうのかな、エラー? バグ?」
「なんでそんなことが起こるのよ」
「”許し”がなかったからとか?」
「……あ」
確かに母は、攫った梓の名を「杏喜」と呼ばせていた。
でも、後付けじゃ効果がなかったとしたら。
洞窟を奥へ奥へと進んでいった。
歩くたびにじゃりじゃりと小石が滑る音がする。外は汗ばむくらいだったのに、ここはひどく寒い。身体をさする。
開けた場所についたとき、楓が声を上げた。
「綺麗」
洞窟の奥は、すべて水晶のような透き通った鉱物でできていた。
その奥に御神体が鎮座している。丸い古びた鏡だ。ひどくぼろぼろなのに、山奥の浅い泉を覗いたかのように、怖いくらい透き通っている。
「……っ、梓!」
鏡の中に、小さな背中が見えた。
いなくなったあの日に着せたワンピース。水色で、マーガレットの花が描かれたワンピースの模様が覗いた。
「近づいちゃだめです!」
楓が服の裾を引っ張る。
「なにするのよ!早く出してあげないと」
「今は触っちゃだめ。今度はあなたが取り込まれます」
「いいの、いいのよもう」
「梓ちゃんには、ちゃんと、自分の身体を返しましょうよ」
そう言われて、私は手を下ろした。鏡の中からこちらが見えるのだろうか。小さな梓が硝子を叩くように、泣いている。
そのとき、かつかつと場違いなヒールの音が響いた──。




