第5話 隣国の影、異国の娘
朝の光がまだ薄く、城内は静寂に包まれている。
視察の報告は午後からの予定だったが、突如、王からの呼び出しが届いた。自室の重い扉を閉めて長い廊下を歩き出すルディオは、心の準備もないまま玉座へ向かう。
城は朝霧に煙る石造りの巨塔を中心に、複雑に入り組んだ回廊と中庭を備えている。尖塔の先端には王家の紋章が輝き、城壁の石には歴戦の跡がわずかに刻まれている。
柔らかな陽光が城壁を撫で、巨大な窓から差し込む光は静かな荘厳さとともに城全体に重みを与えていた。
侯爵の歩みは規則正しく、スエードのロングブーツの音がコツコツと小気味良く廊下に反響する。長く続く回廊の両側には精巧な石像や武具の展示が並び、王家の歴史と威厳を強く示している。
普段なら歩みを止め、歴代の王が残した遺産を眺めていたいところだが、今のルディオの胸には報告内容と謁見に対する緊張が入り混じっていた。
あの娘のことをなんと報告するべきか…
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
衛兵たちの敬礼を受け、彼は王の間へと進む。
磨き上げられた大理石の床、陽光を浴びて煌めくシャンデリア、そして長く延びる深紅の絨毯。その先に鎮座するのは、この国の象徴にして絶対の権威──現王アルトレオンである。
「ルディオ侯爵、戻ったか。」
低く、しかし朗々《ろうろう》と響く声が広間に満ちる。侯爵は膝を折り、深く頭を下げた。
「ネレイダ王国の視察を終え戻りました。」
「うむ、ご苦労。して…どうであった?」
「はい。民は豊かに暮らしており街中に活気がございます。表面化している大きな問題は見受けられませんでした。」
「ふむ…安定しているようだな。」
「はい。しかし城の内部にて、前回の視察時には見られなかった武器の備蓄を確認しました。そして兵士と魔術師の人数は明らかに増えており、その質も以前とは異なるものです。漂う空気が引き締まっており、一人一人から“鍛えられた者だけが持つ静かな圧”を感じました。表向きは友好を保っておりますが、内部では何らかの準備が進められている可能性がございます。」
「ふむ……そうか。」
王は静かに瞼を閉じ玉座に背を預けた。その横顔には、国を背負う者としての影が深く沈んでいる。
ルディオは言葉を探し、短く息を整えた。
「──それと、もう一つ。」
「何だ。」
「帰路にて、奇妙な娘を拾いました。」
「……奇妙な娘?どういうことだ?」
「はい。異国の装束に身を包み、見慣れぬ道具を持っておりました。名をダイチ・リンと申します。」
その瞬間、玉座の王の眼差しがわずかに鋭さを帯びた。
「何者だ。」
「まだ断定はできませんが、ただの旅人ではないでしょう。」
そのとき、謁見の間の片隅から嘲笑う声が響いた。
「ははっ……偶然道端にいたどこの馬の骨ともわからない娘を拾って帰るなど正気の沙汰ではないな。視察もろくにできない力不足の侯爵に統治されている民が不憫でならない。」
声の主は豊かな腹を揺らしながら進み出る。金糸で縁取られた上衣、肥えた頬、油の光を帯びた笑み。肩に掛かる深紅のマントが男の気品のなさを物語っている。
バルモン公爵──王位継承権を持つ男。
「聞けば公費を使って宿を取り、食事代まで出してやったとか。何を考えている?税を納める民に申し訳ないと思わないのか?」
その嘲りを含んだ声は広間の空気をわずかに濁らせたが、ルディオは無表情を崩さない。
「……私が必要と判断しましたので娘を保護しました。」
「必要だと?寝言は寝てから言え。まさか妻に迎えるつもりではあるまいな。はははっ。」
バルモンは嘲笑い、王に進言する。
「父上、無駄遣いは国を腐らせますぞ。侯爵の放埓をお許しになるおつもりですか?」
その一言にルディオは眉をひそめる。だが王は片手を上げその言葉を退けた。
「バルモン、言葉を慎め。」
「……しかし」
「ルディオの進言は虚言ではない。嘘を吐く男ではないということは私がよく知っている。」
張り詰めた空気がわずかに解かれる。バルモンはなおも納得いかぬ面持ちを崩さなかったが、王の意志に逆らうことはできず舌打ちを飲み込みながら一礼した。
「……失礼いたします、陛下。」
その背中には悔しさと黒い感情が濃く刻まれていた。
重厚な扉が閉ざされ、バルモンが去った広間に静寂が戻る。王の前に残ったルディオは深く息を整え玉座を仰ぎ見た。
「陛下、先ほどの件について……もう一つ申し上げたいことがございます。」
「うむ。」
「あれはただの娘ではございません。──実は……」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
その頃、謁見の間を後にしたバルモンは廊下を荒々しく歩いていた。黄金の装飾が施された靴の踵が、石床にカンカンと耳障りな甲高い音を響かせる。
分厚い指先で、宝石がはめ込まれた指輪をねじりながら唇を歪める。王の間で押し殺した苛立ちが炎のように胸を焼いていた。
「…父上に取り入るつもりか……笑わせる。今に見ていろ、ルディオ…!」
呟きは誰に聞かれるでもなく虚空に消えた。だがその声音には剣より鋭い敵意が宿っていた。




