都会の空
今年は、少し長めの梅雨が続いており、僕は今日も傘を片手に電車に揺られていた。初めは、スーツを着ることも満員電車に乗ることも慣れなかった僕だったけど、4年目も経つと、それも取り留めない日常の一部になっていた。
僕はそんな風に、新しい環境で何かを手に入れるたび、少し大人になった気がしたんだ。そうやって成長を続けていれば、いつか本当に大切な何かを得ることができるんじゃないかと思っていた。
でも、本当にそうなのだろうか?
生きていれば必ずいいことがあるなんて誰かが言っていたけれど、それはたまたま人生が上手くいった人に言えることであって、僕は、その一人にはなれないんじゃないだろうか?
近頃、そんなことばかり考えるようになった。
いつものように電車を降りて、人の行き交う駅を抜ける。
そして僕は、いつものようにいくつかのレストランを回った。会社の経営するチェーン店で何か問題がないか見回ることが、僕の仕事である。
最後の店で仕事をやり終え、店長と雑談をしていると、店のバイトに見慣れない子がいることに気がついた。顔つきは僕より若そうだけど、髪まで伸びたストレートの黒髪がとても綺麗で、上品な仕草が印象的だった。店長に聞いてみると、普段は遅番として働いている相田ゆりという子で、今日に限って午前のシフトに入ったのだという。
すると、その子は店長に用事があったようで、僕らのいる事務所に向かって歩いてきた。彼女は僕に気づいたようだたったが、特に気にする様子もなく、店長と短い会話をして再びホールへと戻っていった。
会釈くらいしろよ。そんなことを毒づきながら、僕は店を後にした。
その日の会社帰り、僕は無性にお酒が飲みたくなって、駅近くの居酒屋に立ち寄った。店は予想以上に賑わっていて、僕は一つだけ空いていたカウンター席に通された。ハイボールと適当なつまみを注文して、手持ちぶたさで店の中を見渡していたとき、左隣に座っていた女性が昼間のバイトの子だということに気がついた。
こんな偶然もあるんだな、と僕は思った。ギャンブルでは一度も大当たりを引いたことなんてなかったけど、今日はツイてるらしい。正直言うと、昼に彼女を見かけてからずっと気になっていた。
「あの、そこのレストランでバイトしてた子だよね? ほら、今日事務所で会った」
反応がない。ナンパだと思われているのだろうか? いや、実際そうなんだけどさ。
「相田ゆりさん、だっけ」
そこでゆりはようやくこっちに目を向けた。顔は真っ直ぐを向いたままだから、僕はがんを飛ばされている気分になった。けど、間近で見たゆりの瞳がとても澄んでいたので、僕は許すことにした。
「僕は本社で勤務してるんだけど、今日は見回りがあったから君の店に寄ってたんだ」
「そう」
やっと会話が成立した。
その後、僕の質問にゆりが答えるという具合に話が進んだ。相変わらず、ゆりの返答は短いものばかりだった。でも、そこまで嫌がってた雰囲気ではなかったと思う。僕の希望的観測かもしれないが。
20分ほどして、ゆりが席を立った。そろそろ帰るらしい。僕も一緒に席を立とうとしたけど、最初に注文した料理が今になって出てきてしまい、タイミングを逃してしまった。幸運はそうは続かないらしい。
「それじゃ、また」
そう言葉を交わして僕らは別れた。
もっとプライベートに突っ込んだ質問の方がよかった、あの話題はいまいちだった。と、一人で先ほどのゆりとの会話における反省を行ってから、僕も店を出た。しかし、この後電車に乗ってしまうと、ゆりと過ごした時間がいつもの日常に押しつぶされてしまうような気がした僕は、酔いが醒めるまで歩いて帰ることにした。
すると、小さな川にかかった橋の上に、ゆりがいた。
つばのついた帽子を被っているが、間違いなくゆりだ。そのとき少し強い風が吹いて、彼女が背を背けたとき、ゆりも僕の存在に気がついた。
ゆりはちょっと驚いた顔をしていた。一日に三度も、僕たちは偶然に出会ったんだ。驚くのも無理はない。だから僕はゆりに言ってやった。
「僕はストーカーじゃない」
このセリフが、ゆりにとっては面白かったらしく、僕と出会ってから初めてじゃないかってくらい無邪気に笑ってくれた。
一通り笑った後、ゆりは僕に質問してきた。
「名前はなんていうんだっけ?」
僕も、彼女に自己紹介した覚えがなかったので、改めて自己紹介をした。
「僕は秀一。年は24。4年前に大学を中退して、今は見ての通りのサラリーマン。好きな音楽はバラードで、嫌いなものは目覚まし時計」
「目覚まし時計が嫌いなんて、変な人」
僕の言葉に、笑ってくれるようになった。
「ゆりはここで何してたの? 誰かと待ち合わせ?」
「ううん。考え事をしていたの」
「ストーカーについて?」
僕にしては上出来なギャグだ。
「ふふっ。……あのね、空を飛んでみたいなって思っていたの」
「……」
さぁて、どう答えよう。この世に運命なんてものが存在するとしたら、きっとここらが分かれ道だ。
「秀一君は、自由に空を飛べたら、どこか言ってみたい場所ってある?」
「そうだな。空を飛べたら――か。ゆりは行ってみたい所があるの?」
逃げ腰ですが、なにか?
「私はね、海の見える町に住んでみたい。今までずっとこの街に住んでいたから、海ってほとんど行ったことがないの。だから、テレビで見るような真っ青な海が見てみたい」
「なら海を目指せばいい。時間や人と違って、海は逃げたりしないよ。ゆりが辿り着くまで、ずっとそこで待っていてくれる」
「そうね。そうかもしれない」
そんな、ゆりが時折見せる儚い笑顔に、僕は惹かれたんだ。
土日をはさんだ月曜日、僕はいつものように働いていた。外回りの最後で、ゆりの働いている店に寄った。ゆりに会えるかもしれないと楽しみにしていたけど、ゆりには会えなかった。
(そういえば、ゆりは元々遅番で入ってるんだもんな)
仕事が終わってから再度寄ってみようかなと考えていたとき、
「そういえば、突然バイトをやめた子がいるんですよ。結構まじめに働いてくれてた子なんで、シフトの穴埋めが大変でね。別の店舗から、誰か余ってるバイトを補填できませんかね?」
と、店長に告げられた。
すぐさま確認したところ、バイトをやめたその子とはゆりのことだった。
携帯の番号を交換していなかったので、僕はゆりに連絡をとることができなかった。ゆりの住んでいる家を調べて、直接会いに行ってみようとも考えたけれど、僕らの仲がそれほど深いものとは思えず、結局何の行動もとらなかった。
人の輝く一瞬なんて、きっと、こんな風に本当に僅かな時間なのだろう。
それから2週間ほど経ったある日、会社のデスクの上に僕宛の封筒が置かれていた。差出人の名前はなく、中には一枚の写真が入っているだけだった。
それは、真っ青な海と空だけが広がる写真だった。
封筒の切手に押された消印から、ずっと南にある小さな町であることがわかった。すぐに僕は、無理を言って上司に休みを取らせてもらい、翌日その町へと赴いた。
電車とバスを乗りついで、ようやくその町に辿り着いた僕を、青緑色の海が出迎えてくれた。僅かに香る磯の香りと、波の音が聞こえるほどの静かな町。砂を踏みしめる感触が心地よくて、でも僕はうまく歩けなくて、思わず笑ってしまった。
左手には海岸線が、右手には平行して道路が延びていた。僕が海に近づくほど、道路を走る車の音が聞こえなくなって、代わりに波の弾ける音が僕の体を包んだ。まるで、二つの空の下を歩いているような、そんな気分だった。
しばらく歩くと、砂浜を横切るコンクリートの塀が見えてきた。その海に近い側に、一人の女性が座っていて、その人は僕が気づくずっと前からこっちを見つめていたようだった。
ようやく、声が届く距離まで近づいたところで、その女性に声を掛けられた。
「来てくれたんだ」
僕は、特に驚かなかった。だって、元々会うつもりだったんだ。
「よく言うよ。あんな写真一枚送りつけてきて、せめて手紙の一つでも書いてくれればよかったのに」
そこに、海と同じ色のワンピースに身を包んだゆりがいた。太陽に照らされた白い肌と、髪を耳に掛けるその仕草が、ゆりのやわらかな笑顔を一層引き立てていた。
「本当は手紙を書くつもりだったのよ? でも、うまく言葉にできなかった。この風景も、私のことも。上手く書こうとすればするほど、言葉が出てこなかったの」
「……確かに、この海は言葉にしたくない。ずっとここにあれば、それでいい。きっとそういうものなんだろう」
「――そうね」
僕はゆりの傍に座って、視線の先にある青を二人で見つめた。
波音が十分僕らの体に染み込んだころ、ゆりが問いかけてきた。
「秀一は、今日はお仕事じゃなかったの? 首になったとか?」
「嬉しそうな顔で不吉なこと言うなよ。今日は有給を取ったんだ。かなり苦労したけど」
「そこまでして私に会いたかったんだ」
ゆりがからかうように告げた。だから僕は、まじめな声で答えた。
「行きたい場所が見つかったんだ。自由に空を飛べたら、言ってみたい場所がさ」
「それは、どこ?」
「どこでもないよ。それはゆりのように、一つの場所じゃないんだ」
ゆりは、少し戸惑っているように見えた。僕は構わず言葉を続けた。
「そこは、どんな場所にもなり得るんだ。今はこの海で、だけど明日は別の風景かもしれない。僕は、誰かと一緒に空を飛んでいたい。そう思ったんだ」
ゆりは黙ったままだった。何か言おうと、開いたり閉じたりを繰り返すゆりの口元が、水面に浮かんだ魚みたいで滑稽に見えた。
でも、そんなゆりの間抜け面をも愛おしいと思えてしまう僕だって、相当な間抜けなのかもしれない。有給を使ってまで不確かな恋を追いかけたなんて、正直今でも信じられない。
「だけど、空を飛ぶたびに会社を休んでたら、首がいくつあっても足りない。次に空を飛ぶときは、前もって僕に相談してくれると助かるんだけど」
「わかった。次からは、ちゃんと秀一も連れて行ってあげる」
「絶対だよ?」
そう言って、僕らは小指を絡める代わりに、キスを交わした。
明日会社に行く前に、都会の空もきちんと見上げてみよう。
そんなことを考えながら、僕はもう一度目を閉じた。
これは、僕の処女作にあたる作品です。
新社会人として、現在日々を送っている僕ですが、ふとしたきっかけで小説を書き始めたのがほんの2週間ほど前になります。
これからも、少しずつでもいいから、自分の中の想像の世界を表現し続けていくつもりですので、いつでも感想や批評をお待ちしてます。よろしく!