勿忘草の物語【無常堂夜話4】
中学進学を迎えたソラは、里に残るか、父とともに新天地に行くかを迷っていた。
そんな時、ソラは同級生の茜と共に怪異に襲われ、異界を視ることになる。
ソラの一族の苛烈な伝統と、小学生時代のお話です。
起・漠然とした未来
白髪が混じったこげ茶色の髪をした男と、色の薄い茶色の髪をした少年が、卓袱台を挟んで座っている。二人の前には、それぞれ肉じゃがの器と卵焼きが載った皿、漬物が盛られた小皿が置いてあった。
ぼくたち親子が住んでいる場所は、山間の集落でも一番高い場所にある。鎮守社である月詠神社、通称『月宮』様の社務所からは、一面に雪化粧を施した集落が一望できる。
ここは山深い里である。集落の中央を流れる清流には水車小屋があり、川が凍っているため動きは緩慢だが独特のリズムを刻んで回っている。川の両側には猫の額ほどの田畑が張り付いており、里の家々は山裾や中腹に積まれた石垣の上に建っていた。それらの上に、雪はしんしんと降り積もっている。
ぼくたちは、黙ったまま晩ご飯を終えると、一緒に手を合わせて膳を下げる。身を切るような冷たい水で食器を洗ったぼくは、父に一礼して自分の部屋に引っ込もうとした。
「空、ちょっと話がある」
父がぼくを呼び止める。ぼくは静かに父の前に正座した。
「父さんは、4月から別の神社の宰領をすることになった。お前も4月からは中学生になるが、俺と一緒に来るか? それともここに残って中学を卒業するか?」
父はそう言いながらぼくの顔を見る。だがいきなり訊かれても、まだ考えがまとまっていない。それに訊きたいこともある。ぼくはそれを訊こうとして口をつぐむ。
「今度はS県だ。御祭神は武御名方命になるな」
ぼくが訊きたいことが分かったのか、父は少し声を弾ませて言う。
「月読命様ではないのですね」
ぼくが残念さを顔に出して言うと、父は
「うむ、国津神系の神社も経験してみたら面白いだろう」
そう言う。ぼくはもう一つの重大なことを訊いてみた。
「もしぼくがここに残るなら、住む処はどうすればいいですか?」
今いる社務所は、神主である父のために準備されたものだ。他の神主が来るのならこの家は明け渡さねばならず、ぼくの住む処が無くなってしまう。
「瀬川さん(里で唯一の商店を営む老夫婦で、集落の長も兼ねている)に相談してみた。
水車小屋の管理人室を使ってもいいとのことだった。一度俺も中を見てみたが、案外と片付いていたし、ちょっとした流しもついていた。
お前がここに残りたいというなら、正式に瀬川さんに話して貸していただこう」
とすると、3年間は一人暮らしか……。炊事や掃除は何とかなるだろうが、洗濯はぼくの専門外だ。残るとすれば2か月で洗濯機の使い方を覚えなければならない。
「……まあ、今が2月の初旬だから少し時間はある。だが、15日までにはどうするか決めてほしい」
ぼくは父がそう言ったので、とりあえず宿題をやることにして部屋に戻った。
次の日、ぼくは学校が終わると家に帰らず、里の中央を流れる瀬織川の上流に行った。道草ではない、ぼくはそこに居るはずの人物に相談したかったのだ。
上流の両岸には、まだ昨夜の雪が残っていた。ぼくは滑らないよう注意しながら、滝つぼがある場所までやって来た。
落差のある滝で、夏に来るとしぶきが顔に掛かるほど水量があるのだが、今は凍っていて、少しひねった蛇口から流れる水のような、細い線となって滝つぼへと落ちてくる。
ぼくは慎重に岸辺を歩くと、滝つぼ近くにある祠に手を合わせた。
「あら、月宮の坊(ぼくは里の人たちからこう呼ばれていた)ですね? この季節にここに来たら危ないと注意したはずですが?」
そう言いながら、巫女装束に似た着物を着たお姉さんが現れる。
お姉さんの名は瀬織川津媛。この川の神の娘で、滝つぼに落ちたぼくを救ってくれたお方でもある。父によれば、そのときぼくと瀬緒里さん(ぼくはそう呼んでいた)の間に、月宮の皇子様を通じて強い縁が結ばれたらしい。それ以来、たまに瀬緒里さんはぼくのことを『我が背』と呼んだりもしていた。
「瀬緒里さんに相談したいことがあるんです」
ぼくが言うと瀬緒里さんは、白く整った顔に笑顔を浮かべて、
「何でしょう? 月宮の坊が頼みごとをするなんて珍しいですね?」
そう言いながら、ぼくを自分の家に連れて行ってくれた。
瀬緒里さんの家は、滝つぼから少し上流にある。
もう少し上流には小さな神社がある。水分神社と言われるこの神社、実は御祭神は瀬緒里さんの御父上に当たる。だから瀬緒里さんは、言ってみれば実家を出て一人暮らしをしているお姉さんって立場だ。
山小屋のような瀬緒里さんの家は、入って土間を上がると12畳ほどの広間と、それに続く8畳ほどの寝間、たった2部屋しかない。土間にはかまどがあるし、洗い場もあるが、
「冬の寒い時期は、囲炉裏で済ませてしまいます。無精者と嫌わないでくださいね?」
瀬緒里さんはそう言いながらお茶を淹れてくれる。舌の上で転がすと甘みを感じるいいお茶だった。
「それで、月宮の坊の相談ごとと言うのは?」
瀬緒里さんは駄菓子を出しながら聞いてくる。ぼくと瀬緒里さんが最初に会った時、彼女が作った腕輪と交換した駄菓子があった。瀬緒里さんはこの駄菓子が気に入ったのだろうか? それともぼくとの思い出として買い続けているのだろうか?
ぼくはそんなことを思いながら、彼女に説明した。
「実は、4月に父がS県の神社に異動することになって……」
「月宮の坊も、三界殿と一緒にこの里を出て行かれるのですね?」
瀬緒里さんが寂しそうに訊いてくる。ぼくは首を傾げて答えた。
「……父さんと離れるのは寂しいけれど、瀬緒里さんや友だちと離れたくない気持ちもあるんだ。それに、瀬緒里さんとは毎年同じ時期に会う約束もあるし」
瀬緒里さんはじっとぼくの顔を見ていた。寂しさと、ぼくの将来のことを思ってくれている、母のような、姉のような顔だった。
やがて瀬緒里さんは静かにぼくに言った。
「……我が背には、何か将来やりたいことはありますか?」
「やりたいこと?」
ぼくは瀬緒里さんの言葉をオウム返しにしながら考える。物心ついた時から父と二人暮らしで、神社のことや御祭神の祀り方、『見えないもの』への対処など、一通り教わってきた。だからぼくは父の後を継いで神主になるべきなのかなと漠然と思ってはいたが、それをぼくの『夢』かと聞かれたら、ちょっと違う気はする。
そんなぼくの顔を見て、瀬緒里さんは優しく言ってくれた。
「我が背は、これから広い世界を見て、いろんな人と縁を結び、御自分が持って生まれた今生での宿題を終わらせねばなりません。
現世の人間ではない私が、私の感情で我が背の将来を歪めるわけにはまいりません。私のことは考えず、御自分が何を成したいか、何を成すべきかを考えて決めてください。
私との約束、『梅の花が咲き、ヒグラシが鳴くまでにこの里でお会いする』こと……それだけを守っていただければ、私は寂しくても我慢できますし、我が背が二十歳を迎える年までお会いできれば、私はこの里を離れることもできるようになります」
瀬緒里さんは笑ってくれたが、その笑顔は先ほどとは違い、寂しさよりもぼくの未来を見据えた慈愛あふれるものだった。
少子化時代の昨今、どこの過疎地でも必ず問題になってくる学校の統廃合だが、ぼくが入学した集落の山の上にある小中学校は、なぜかその波にも飲まれず、廃止も統合もされずに存在していた。
全校生徒30名。小学生21名に中学生9名だったが、小学6年生はぼくを含めて3名で、遊ぶ時はいつも三人一緒、時には下級生も交えて数人で山や川を走り回っていた。
瀬緒里さんと話をした翌日、
「ソラ、一緒に帰ろう?」
ぼくが昇降口で靴を履き替えていると、二人の男女がやって来た。どちらも同級生だ。
同級生の伏昌は隣の集落から通っている。犬がめっぽう好きで、どんな獰猛な野犬でも言うことを聞かせられるという才能を持っていた。
もう一人の女子は木庭茜。同じ集落だが一番山の中に住んでいた。家は代々、月宮様の御料地の山を管理する林業を営んでいたので、ぼくの父も茜の父さんのことはよく知っていた。
三人並んで学校を出ると、話は自然と中学校のことになる。
「ソラはもちろん、この学校に残るんだよね?」
茜がぼくの顔を覗き込んで訊いてくる。中学に行ってもこの三人で遊べるものと期待しているのだろう、目がキラキラと輝いていた。
ぼくが困っていると、昌がぶっきらぼうに言う。
「ソラの父ちゃんは、いろんな神社の宰領をしているんだ。三界おじさんが7年も月宮様の神主をされているのは珍しいことだって、俺の父ちゃんが言ってた。
普通は4・5年で違う神主さんが来るんだって。だからソラが来年この町にいるかどうかって判らないんだ」
それを聞いて、茜は一転して悲しそうな顔でぼくに言った。
「え? でもでも、三界おじさんに頼んだら、ソラが中学を卒業するまで月宮様の神主をしてくれるんじゃないの? 昌、頼んでみようよ!?」
「止めろよ茜、ソラが困ってるじゃないか」
昌が茜を止めると、茜は見る見るうちに涙をためて、
「知らない! 昌となんて絶交よ絶交!」
そう言い捨てて、一人で山道を駆け下り始めた。
「あ、茜!」
ぼくは茜を追おうとしたが、昌がそれを止めた。
「追いかけなくてもいいよ。お前はこの町を出て行く、そうだろう?」
昌の言葉に、ぼくは胸を突かれたような気がした。
「……俺はさ、じいちゃんの仕事を継がなきゃならないから、今はこの山を離れられない。
でも、お前のいる場所は、ここじゃないどこかだって気がするんだよな。だから俺、4年生の時からずっと、来年はお前がいないんじゃないかって思いながら過ごしていたんだ。一緒に卒業できるだけでも嬉しい限りさ」
「昌……」
ぼくは何も言えなかった。昌は妙に鋭くて、小学生離れした気遣いができる奴だったが、そんな彼の心配りをこれほどありがたく、そして切なく思えたことはなかった。
昌はぼくの顔を見てニヤッと笑い、
「ソラのそんな顔、似合わねぇなぁ~。時化た顔するなって。また来週な?」
昌はそう言うと、隣の集落への道をゆっくりと下って行った。
その夜、夕食が終わると、ぼくはまた父に呼ばれた。
「……今日、木庭さんところの嬢ちゃんが俺を訪ねて来てな」
ぼくが座ると、父はいきなりそう言う。ぼくはびっくりして思わず訊いた。
「えっ!? 茜が?」
「木庭さんとこの嬢ちゃんは茜さんだけだろう?」
父は真面目な顔でそう言うと、茜が来た理由を淡々と話す。
「俺に、お前が中学を卒業するまでここの神主をやってくれと頼みに来た。ついでにお前のことが好きだともな。真剣な顔だったぞ」
それを聞いて、ぼくの顔は一気に真っ赤になる。茜が、男勝りな茜がぼくのことを好きだなんて、彼女には悪いが今の今まで一度たりとも想像したことすらなかった。
「お前が瀬織川津媛様と縁を結んだ際、俺が言った言葉を覚えているか?」
「……人並みの恋愛や結婚は出来ない……父さんはそう言ったよね?」
父はうなずくと、真剣な顔でぼくの眼を見て言う。
「鬼神と縁を結んだ場合、特にそれが婿取り・嫁取りの縁だったら、相手の人間はすでにあちらの世界に半身を踏み込んだ形になる。言い方は悪いが、お前は川津媛様への供物なのだ。だからお前には、常にあちらの世界の影響が付きまとう」
ぼくは黙って聞いていた。『あちらの世界』……それは神や鬼が住まう異界だが、その影響が縁を結んでいない人間に及ぶと、その人物にはたいてい良くない結末が待っている。
だからぼくは、そんな人たちを影響から守るために、『あちらの世界』のことをもっと知っておく必要がある……父はそう続け、
「この世界とあちらの世界には、確かに境界がある。だがその境界は、俺やお前が思っているほど確固たるものではない。条件がそろえば、それはすぐに曖昧になる」
という言葉で、ぼくへの注意を締めくくった。
そして改めて僕に訊く。
「空、中学はどうするか決めたか?」
ぼくは目をつぶって考える。
ぼくには夢というものはない。でも、幼い時に結ばれた縁が、今後のぼくの生き方に関わってくるのは確かだ。その縁は人ならざるモノとの縁で、普通の人間に容易く悪影響を与える。
そして、ぼくたちの世界は、縁が結ばれれば『あちらの世界』との境界を無くしてしまう……。ぼくは『あちらの世界』のことを知るために生まれて来たのかもしれない。
『我が背は、これから広い世界を見て、いろんな人と縁を結び、御自分が持って生まれた今生での宿題を終わらせねばなりません。
御自分が何を成したいか、何を成すべきかを考えて決めてください』
瀬緒里さんの顔が浮かんだ時、ぼくはこの里を出ることを決心した。
★ ★ ★ ★ ★
承・ぼやけた『境界』
ぼくは父と共にS県に引っ越すことに決めたが、正直その決心はまだ完全に固まったものではなかった。
瀬緒里さんとの約束、茜がぼくのことを好きだということ、親友の昌のこと……いろいろな思いが浮かんできて、ともすれば中学卒業までこの里に居たいという気持ちになってしまう。
(昨日、あれだけ考えて決めたのに、やっぱりいろいろなことが頭に浮かんでくるなぁ)
ぼくは起き抜けのぼんやりした頭でそんなことを考えながら、朝一の水を井戸からくみ上げて神樽に詰め、残りの水でご飯を炊く。
そこで父が起きて来て、炊飯を代わり、ぼくは箒を持って神社の境内に急ぐ。
新雪が積もった境内は、しんと静まり返っている。この雰囲気は、普通の人が見れば怖さすら感じるだろう。
だが、ぼくが参道の雪を払い除けているうちに、闇の帳は東から射す朝の光に追われて、ゆっくりとだが確実に引き上げられていく。
そしてお日様が東の峰の上に出た瞬間、境内には清らかな光の筋が差し込み、揺れる木の枝は光の粒をまき散らす。ぼくが一番気に入っている光景だった。
今日、学校は休みだ。茜と一緒に昌の家に遊びに行ってみようと考えながら、朝の掃除やお勤めを終えて神社から下がったぼくを、茜本人が待ち受けていた。
「あ……ソラ、おはよう」
手水舎の陰から声をかけられて、ぼくはびっくりして振り返る。ダウンジャケットにジーンズ、暖かそうなブーツを身にまとった茜が、寒さのためか頬を真っ赤にしてこちらを見ている。
「おはよう茜。どうしたの、こんな朝早くに?」
ぼくは気まずさを押し隠して、努めていつもどおりに訊く。茜はもじもじしながら、ぼくの顔を見つめて何か言いたそうに口を開くが、すぐに閉じてしまう。
「おや、木庭さんところのお嬢ちゃんじゃないか?」
そこに、神社から帰って来た父が声をかける。茜は父を見てさらに顔を赤くした。
「……ここじゃ寒い。空、お嬢ちゃんを家に上げて差し上げろ。
お嬢ちゃん、俺は神社に用事があるのを思い出した。上がって空と話をしていくといい。
空、お嬢ちゃんの朝飯がまだなら、先に二人で食べておけ。俺は少し時間がかかるから、待っていなくてもいい」
そう言うと、父は踵を返して再び神社に向かった。その時はぼくたちに気を使ってくれたんだなとしか考えなかったが、それが大きな間違いだったってことを、ぼくはこの後思い知ることになる。
「……あ、と、とにかく上がってくれ」
ぼくは茜がじっと見ていることに気付くと、慌ててそう言って二人で家の中に入った。
茜を客間に座らせ、ぼくがお茶の準備をしていると、茜は台所に入って来て、
「ソラ、お茶はあたしが淹れるから座ってて」
そんなことを言って、強引にぼくを客間に追い立てる。言い出したら聞かない茜だ。ぼくはおとなしく客間に座り、これじゃどっちがお客か判らないなと苦笑する。
やがて、茜が湯飲みと急須を持って客間に入って来た。神妙な顔でお茶を注ぐと、湯飲みをぼくの前に置く。温かい湯気が湯飲みから立ち上り、芳香が鼻腔をくすぐる。めでたくも茶柱が立っていた。
茜が、『早く飲んでみて!』と目顔で言うので、まだ湯気を立てる湯飲みを両手で包み込むように持つ。冷え切っていた手に、湯飲みの熱さが心地よい。
ぼくはゆっくりとお茶に口を付ける。最初は熱いだけだが、渋さを内包した甘みが口の中に広がり、最後はすっきりした苦さが残る。美味しいお茶だった。
「美味しいな」
ぼくがつぶやくように言うと、茜はホッとした顔をする。僕はもう一口お茶を喫すると、
「茜も飲むといい。ぼくが注いであげようか?」
茜に言うと、彼女は慌てて自分の湯飲みにお茶を注いだ。
「遠慮なんかいらないのに」
ぼくが言うと、茜は恐らく覚えたてなのだろう、
「でっ、でもっ。『親しき中にも礼節あり』って言うじゃない?」
言い訳のように、そんな難しい言葉を使う。そしてぼくを見て、頭を下げ謝った。
「昨日はごめんなさい!」
「ぼくは茜から謝られるような覚えはないけど?」
ぼくが言うと、茜は首を振って、
「あたし、ソラと一緒の中学に行きたくて、おじさんに『まだここの神主を辞めないで』って頼んじゃったの。お父さんからすごく叱られた。『月宮の坊を困らせるようなことをするな』って」
涙ぐんでそう言う。ぼくが黙っていると、茜は顔を伏せて、
「……おじさんから聞いた。S県に行っちゃうんでしょ? あっちに行っても、あたしと友だちでいてくれる?」
そう、恥ずかしそうに言う。茜にしてみれば、本当は別のことを言いたかったに違いない。例えば、『恋人になって、文通してくれる?』みたいなことを……。
ぼくが瀬緒里さんとの縁を結んでいなければ、ぼくは茜にそう言ったかもしれない。でもそれは、茜に哀しい思いをさせるだけだ……なぜかぼくはそう思った。
だからぼくは笑顔で言った。
「もちろんさ。茜のことは忘れないよ」
『幼馴染だろう?』という言葉は飲み込んだ。これは父から『茜ちゃんの気持ちを考えたら、幼馴染という言葉は残酷だ。なぜかは自分で考えろ』と釘を刺されていたためだ。
茜はぼくの言葉を聞いて、初めてにっこりと笑った。
茜は朝食もまだだった。しかも家の人から、
『明るくなってからにしなさい』
と止められたのに出て来たらしいので、ぼくは茜の家に電話して事情を説明し、家で朝ご飯を食べることにした。
だが、茜が
「昌にもひどいこと言っちゃったから、謝りたい」
と言うので、ぼくたちは朝ご飯をお握りにして、昌が住む隣の集落に行くことにした。
「今が朝の7時前だから、8時半過ぎには昌の家に着けるね」
ぼくはそう言うと、まだ帰ってこない父に宛てて昌の家に行く旨をメモに残し、二人で家を出た。
冬とはいえ、さすがに7時近くになれば明るくなっている。冷え込みは厳しいが、幸いなことに夜半に雪も止んでいたので、積雪もたいしたことはなかった。
15分も歩くと、学校と隣の集落への分かれ道に差し掛かる。
ここを右に曲がって山道を登れば学校、真っ直ぐ山道を進めば昌の住む集落に続く道だ。一本道だから間違えようはない。
「あ~あ、『絶交』って言っちゃったのに、どんな顔して謝ろう?」
茜がしきりに気にして言うので、
「いつものことじゃないか。昌はそんなに気にしていなかったよ。普通に謝ればいい」
そう宥めながら山道を進む。雪はくるぶしを隠すくらいまで積もってはいるが、ひざ下まで積もることが多いこの里では、歩きづらいということはなかった。
「昌んところで何して遊ぼうか?」
前を進む茜が、振り返って訊いて来る。ぼくは空を見上げた。雲一つない空だ。
「風はないし、空は晴れているし、橇で遊んだら面白いんじゃないか?」
ぼくが答えると、茜は目を輝かせてうなずき、
「橇かぁ。それいいね」
そう言った時、不意に茜のお腹がぐう~っと鳴った。茜は赤面して顔を隠す。
「やだ、なんでよりにもよってソラと二人きりの時に……」
ぼくは笑いながら、カバンからお握りの包みを取り出して、一つを茜に手渡す。
「恥ずかしがらなくていいじゃないか。お腹が鳴るって元気な証拠じゃないのか?」
茜はお握りを受け取りながらむくれて言う。
「むぅ~。ソラはそう言ってくれるけど、あたしだって女の子だよ? やっぱ気になるの」
「そうかぁ、それは失礼しました。で、何処で食べようか?」
「あー、あたしの言葉ムシしたね? ソラったら酷いんだから」
文句を言う茜を横目に、ぼくは二人で腰掛けられそうな場所を探す。道の近くに切り株なんかがあればいいが、生憎と雪に埋もれているのだろう、なかなか適当な場所が見つからなかった。
「なかなか座れる場所がないな」
ぼくがそう言って茜を振り返った時、彼女の後ろに何か黒い影を見た気がした。それは一瞬のことだったが、もやもやとしていて、海の中で揺らめく海藻に似ていた。
「そうだね~。仕方がないから、歩きながら食べちゃおうか? お行儀悪いかな?」
茜がそう言って笑った時、ぼくの眼には、さっきの黒い影が急速に近付いて来るように見えた。それはまるで大口を開けた鯨のように、後ろから茜を飲み込もうとしている!
「茜、危ないっ!」
ぼくは考える間もなく茜に走り寄り、彼女の手を引いて駆けだす。茜にはあの黒いものが見えていないのか、
「えっ、何? 何なの?」
戸惑ったような声でぼくに手を引っ張られている。僕はそれに答える余裕はないし、説明しても茜に見えていないのなら信じてもらえるか怪しいと思ったので、あえて黙ったまま走り続ける。
一度、チラリと後ろを確認すると、顔を赤くした茜が一生懸命走っている姿の後ろに、20メートルほど離れてそいつが追って来ているのが見えた。
「……しつこい奴だ」
ぼくのつぶやきが聞こえたのか、茜が息を切らしながら、
「しつこいって何が? ねえソラ、何が見えてるの?」
そう訊いて来る。
「説明は後でするから、とにかく走るんだ!」
ぼくの言葉に何かを感じたのか、茜はそれ以上何も訊かず、ただ黙って走り続ける。
(そう言えば、昌の集落の入口には道祖神様が祀られていた。あそこまで逃げられれば何とかなるかもしれない)
そこまではもう2百メートルもない。ぼくは希望が膨らむのを感じたが、それはすぐに打ち砕かれた。目の前にもう一体、同じように黒く揺らめく何かが現れたのだ。
「マジか、一体だけじゃなかったのか」
ぼくは立ち止まる。その背中に茜がぶつかって来た。
「……いったぁ~。何で急に止まるのよ?」
茜がおでこを抑えてぼくに文句を言うが、ぼくは前後から近付いて来る『何か』からどうやって逃げようかと周囲を見回した。
右手は崖だ、登れない。仮に登れたとしてもあいつらに追い付かれる。仮に追い付かれなかったとしても体力を激しく消耗するし、集落からは遠くなる。
じゃあ左か? こちらも急な斜面であることは変わりないが、麓には町道も通っているし、山の領域から外れることになる。山の化け物であろう『何か』は、そこまで追って来ることはできないだろうし、追ってきたとしても走りやすい道だ。
そう考えたぼくは、茜の手を取って左……つまり急な斜面を駆け下り始めた。
しかし、今考えてもそれはぼくの失策だった。
「ちょ、ソラ、危ないってば! きゃああっ!」
「うわわああっ!」
茜の声が聞こえた瞬間、ぼくたちは足を滑らせ、斜面をどこまでも転がり落ちて行った。
かなりの距離を転がっていたはずだ。空が30回見え隠れしたところまでは覚えている。
ドスンッ!
「ぐへっ」
脇腹に衝撃を受けて止まったぼくに、茜が折り重なるようにぶつかって来る。
ドサッ!
「きゃ」「うえっ」
身体のあちこちが痛んだが、『何か』はまだ追って来ているかも知れない。ぼくは起きようと身体を動かすが、力が入らない。
「うう……」
ぼくの呻き声を聞いて、茜が身体を起こす。よかった、茜は大きなケガはしていないみたいだ。
「……びっくりしたぁ~。ソラ、大丈夫?」
茜の顔色は、ぼくを見て驚くほど青ざめた。
「ちょっと、ソラ。大丈夫なの!? 目を開けて!」
ぼくは茜の声を聞きながら、気が遠くなった。『何か』が近付いて来ている気配を感じながら……。
(だめだ、立つんだ。茜には見えていない。ぼくが茜を守らなきゃ……)
意識が途切れる瞬間まで、そんなことを考えていた。
★ ★ ★ ★ ★
転・回り始める
……ぼくはどのくらい気を失っていたのだろう? ふと目を開けると、ぼくは見知らぬ場所に立っていた。
全体が何だか薄暗い。月宮様がある山に似ているが、木々は枯れたように静まり返り、物音ひとつしない。
そして不思議なことに気付いた。ぼくは急斜面をかなりの距離滑落し、最後は岩かなんかにぶつかって止まったはずだ。当然かなりのケガをしているはずで、それはぼくを見た茜が顔色を変えたことからも想像できる。
けれど、ぼくはどこにも痛みを感じなかったし、骨折どころか傷一つなかった。
(瀬緒里さんが助けてくれたのだろうか?)
そう考えたが、今いる場所は瀬緒里さんとは関わりがない場所だということは、雰囲気で判った。川津媛様の優しくて温かな雰囲気ではなく、なんとなく殺気立った禍々しい気で満ちていたからだ。
(ここはどこだろう?)
ぼくが異様な風景を前にして立ち尽くしていると、遠くから獣が唸るような声が聞こえて来た。それも一匹じゃなく、何十匹もの声だ。
その声は、ぼくが今まで聞いたことのなかったものだった。動物園でネコ科の猛獣が唸るのとも違う。地の底から聞こえてくるような、聞きようによっては亡者たちが泣き叫んでいるような、何とも言えない鳥肌が立つような声だった。
生温く、生臭い風が吹いてきた。それとともに、遠く木々の向こう側にチラチラと何かの影が見え始めた。
ぼくはその影を見た時、身を翻して駆けだした。影は人の形をしていたが、決して人間ではなかった。首が折れてぶら下がっているのに歩いているなんて、絶対に人間ではない。身体中の皮膚が崩れ落ちているのに、内臓が飛び出ているのに、脳が見えるほど頭がひしゃげているのに、動けるわけがない。
ぼくは息が上がるほど走り続けた。走り続けたが、ここがどこか判らず、従ってどちらに逃げるのが正解かも分からなかった。まあ仮にこの場所のことを知っていたとしても、当時のぼくでは帰ることはできなかっただろうが……。
相変わらず化け物たちは追いかけてくる。しかもあの『何か』と比べて数も多いし、何より足が速かった。
ぼくも足の速さには自信があったが、化け物の中には『あんな姿で、よくそんなに速く走れるな』と(今のぼくから見れば)感心するほど速い奴がいて、たちまちすぐ後ろに追い付かれてしまう。
「何だお前たち! ぼくに何の用だ!?」
ぼくは走りながら叫ぶ。後ろから化け物が飛び掛かって来る気配がする。
グシャッ!
ぼくが身をかわすと、化け物はぼくをつかみ損ねて地面に叩きつけられる。その衝撃で化け物の腕が外れたが、そんなのを見ている余裕はない。
「うわっ!」
無念なことに、ぼくは何かに足を取られ、もんどりうって転がった。ついさっき滑落したばかりなのに、今日は滑る日なのだろうか? そんな日があるのだとしたら、高校受験の時には重ならないでほしいものだ。
ぼくが立ち上がりかけると、化け物が覆いかぶさろうとしてくる。ぼくは恐怖と嫌悪感から、手近にあった石をそいつの鼻っ柱に叩きつけた。
ブシャッ!
石は化け物の顔面にめり込み、眼球が外れて膿と血が混じった液体が白い蛆虫と共に流れ出てくる。お恥ずかしながら、ぼくはそれを見て腰を抜かし、思わず吐いてしまった。
「その程度でゲロってちゃ、話になんないわよ?」
不意に若い女の人の声でそう聞こえ、
クォーンッ!
甲高く、透き通った動物の鳴き声が聞こえたかと思うと、
ブシャッ、ギュチャッ、ズシャッ、グチャッ!
肉を裂き、骨を断つ音が響いて、化け物たちが次々とバラバラになっていく。
ぼくが茫然とその有様を見つめていると、茶髪を背中まで伸ばし、革のつなぎを着た女の人がぼくの前に立つ。そしてぼくを見下ろすと、ちょっと驚いた顔をして、
「……ぼさっとしない! あの子たちが化け物の相手をしているうちに、さっさと逃げるのよ!」
そう強面で言うと、ぼくの腕を引っ張って強引に立たせた。
「あの子たち?」
ぼくには化け物以外は何も見えない。だから、化け物たちが勝手にバラバラになっているようにしか思えなかった。
しかし、そのお姉さんはニヤリと笑うと凄い目をして言う。左目が赤く光っていた。
「そ、コンちゃんとケンちゃん。見えないでしょうけれど神使の霊狐よ」
そう言うと、いつの間にか置いてあるオートバイにエンジンをかけ、ぼくに『乗れ』と目顔で言う。ぼくは急いで後部座席にまたがった。
「ちょっと飛ばすわよ。しっかり掴まっていなさい!」
お姉さんはぼくを掴まらせると、アクセルを全開にした。
川の辺まで来た時、お姉さんはオートバイを停めた。ぼくはあまりのスピードに怖くなって、途中からしっかり目をつぶっていたので、どんな所を通ったのかは分からない。
ただ、オートバイを停めたお姉さんに、
「もう追って来ないようね。目を開けなさいな」
そう言われて目を開けると、向こう岸が霞んで見えるほど広い川が見えた。その川はゆっくりと流れているようだったが、川面が夕焼け空を映したように赤い。そして血のような空には、赤黒い雲がポツンポツンと浮かんでいる。
「……まだこっちの世界の縁が切れていないみたいね。あの人たちも、もうすぐ来そうなものだけれど……」
お姉さんはそんなことをつぶやきながら、川の辺に視線を泳がしている。
ぼくもお姉さんの真似をして、川の辺に目を凝らしていると、
「樟葉、お疲れ様。ずいぶんとかっ飛ばしたみたいだね? 約束の場所にいなかったから、崑崙比丘尼と捲簾比丘尼に案内してもらったよ」
いきなり後ろから男の声がした。樟葉さんとぼくは同時に振り向く。
少し長めの黒い髪を首の後ろで括り、黒いジーンズの上下を着たお兄さんが、金の鈴が付いた赤い首輪をした白いキツネと、銀の鈴が付いた白い首輪をした黒いキツネに先導されて歩いて来るところだった。
「……周、あなたのお犬様はちゃんと鎖に繋いでいるでしょうね? さもないとコンちゃんとケンちゃんが牙をむくわよ?」
すると周さんは肩をすくめて答える。
「ああ? 俺のスケキヨは天狐に突っかかるほどアフォじゃないぜ。なんせしつけがしっかりしているからな」
「なによそれ? アタシのコンちゃんもケンちゃんもしつけは出来ているわよ?」
樟葉さんがギロリと周さんを睨んで言う。そんな樟葉さんの肩に、2匹のキツネが飛び乗った。樟葉さんが2匹のキツネの頭をなでると、
チリリン……
静かな鈴の音を残してキツネが消え、樟葉さんの手には白と赤の飾り紐が残った。樟葉さんはその紐で、髪の毛を2か所、手早く括る。
「ところで周、空さんはどうしたの? アタシたちを呼び出したご本人が遅刻なんて、シャレになんないんだけど?」
髪の毛を括りながら樟葉さんが訊くと、周さんが首を振って答える。
「途中までは一緒だった。同じ『縮地』でこっちに向かったんだ。経路も同じだったから、空さんが途中で行き先を変えたのかもな」
「いつまで一緒だったの?」
周さんはちょっと考えて、
「この川を視認する直前だったな。その後気付いたら、空さんはおらず、約束の場所に行っても樟葉もいないってきたもんだ。お前の管狐に会わなければ、まだ俺はあの周辺をお前と空さんを探して歩き回っているはずだ」
ぼくは二人の会話についていけなかった。何を言っているのかさっぱり分からなかったこともあるが、二人とも『空さん』と言ったのがぼくを混乱させたためでもある。
その時、ぼくをさらに混乱させることが起こった。
「樟葉、周、ちょっとマズいことになっているかもしれない」
そう言いながら、白髪だらけの丸顔で人懐っこい顔をした人物が姿を現す。白いポロシャツにジーンズ、肩には赤いチェックのカーディガンを巻き付けたラフな格好だった。
「……この子の縁が、黄泉の国からまだ切れていないってことか?」
周さんが訊くと、白髪のお兄さんはぼくを見てうなずき、
「……そのとおりだ。ヤマダルマが現れたからこの子が黄泉の国と縁を結んだんじゃなく、黄泉の国との縁が出来てしまったからヤマダルマが引き寄せられたのだろう」
そう言うと、周さんに訊く。
「茜さんはどうした?」
「この子の縁とも関係があるかもしれないから、まだこの子の横に寝かせている。スケタケが守っているから山の怪異は手出しできないだろうさ」
それを聞いて、白髪のお兄さんは何か考えていたが、
「ぼくとスケタケを繋げられるか? 茜さんの縁を知りたい」
そう言うと、今度は樟葉さんが腕を組んで言う。
「……それはアタシが視たわ。ヤマダルマが現れたのは、単にあの子を狙ってただけみたい。
早朝、空さんの所に行く際、祠の前をうっかり通っていたみたいね。だからヤマダルマはこの子の縁とは直接の関係はないわ。きっかけってことはあるでしょうけど……」
そう言った後、ぼくを見て訊いて来る。
「ねえ、ちょっと聞くけど、坊やの名前は?」
「え? あ、ぼくは化野空っていいます。助けてくれてありがとうございます」
ぼくが答えると、樟葉さんも周さんも、なぜか何かを納得したような顔をする。
すると樟葉さんは飾り紐を解いて、
「はぁ……周は知り合いよね? だったらアタシが視るしかないか。空さん、ごめんね?」
そう言いながらぼくの頭に紅白2本の飾り紐を巻き付ける。すると頭の中に、さっきまでいた2匹のキツネの姿が浮かんだ。
ぼくは夢見心地になっていたらしいが、その間に樟葉さんは白髪のお兄さんと何やら深刻な顔で話していた。
ぼくは、二人が何を話しているのかは判らなかったが、時折、
「川津媛が……」
とか、
「それじゃ誰も幸せになんないよ!」
とか、樟葉さんが叫ぶように言い、白髪のお兄さんが困った顔をしていたのを思い出す。
その間、周さんは終始無言で、腕を組んで不機嫌そうに二人を見ていたのが印象に残っている。
やがて、白髪のお兄さんが樟葉さんを説得したのか、二人でぼくの方に歩いて来ると、白髪のお兄さんは優しい微笑みを浮かべ、
「……君は月宮の坊だね? 君を家に帰す方法を何とか見つけたから、安心して眠っているといい」
そう言って僕の髪をなでる。するとぼくはたちまち深い眠りに落ちてしまった。
意識が途切れる寸前、ぼくは白髪のお兄さんのこんな声を聞いた。
「……『あちらの世界』は、本当に些細なことで境界を曖昧にする。今回の引き金については、お父さんに訊いてみるといい。一番心配しているはずだから」
★ ★ ★ ★ ★
結・勿忘草の物語
僕が目を覚ましたのはベッドの上で、身体にはいくつもの管を差し込まれていた。ぼくのケガはかなり大きかったようで、町の大きな病院でないと対処できないほどだった。
ただ、それほどの状態だったにもかかわらず、ぼくの回復は医者も驚くほど早く、入院から5日目には一般病棟に移り、お見舞いも受けられるようになっていた。
そしてぼくは、お見舞いに来てくれた人たちから、いろいろなことを聞いた。
茜はぼくが気を失ってしまったあと、何か得体の知れないものに襲われた感覚がし、急に眠気に襲われたという。
ただ、目を閉じる瞬間、二人の男たちが『何か』に対峙し、一人の女性が自分に声をかけて来たという。
その女性は茜にこう言ったそうだ。
『心配要らないわ。空さんと周にかかりゃ、ヤマダルマなんていちころよ。アタシたちに任せておきなさい』
「……そのお姉さんって、どんな感じの人だった?」
お見舞いに来てくれた茜に訊いたら、彼女は
「オートバイに乗る人みたいな恰好をしていたよ。栗色の髪を赤と白の紐で結んでいたかな」
そう答えた。
それで、ぼくはあの白髪のお兄さんは、ぼくと同じ『空』という名前だと知った。
「何? ソラの知っている人?」
茜が訊いて来るが、ぼくは首を振って、
「いや、まだ知らないかなぁ。
それより茜、君がぼくのケガを知らせてくれたんだろう? ありがとう。手遅れにならなかったのは茜のおかげだよ」
ぼくがお礼を言うと、茜は慌てて顔の前で両手をぶんぶんと振り、
「それ、あたしじゃないんだ。あたしたちが倒れていたのは昌の集落の入口近くだったって。あたしたちのことを集落の人たちに知らせてくれた人がいたそうなんだけど、名前も名乗らずにいつの間にかいなくなっちゃったらしいの。
その人がどんな人だったか、誰も思い出せないらしいし……それがいつの間にか、あたしが集落の大人に知らせたってことになっちゃってたんだ」
そう言って、気まずそうな顔をする。
ぼくは茜のそんな顔を見て、微笑を浮かべる。曲がったことが嫌いな茜だ、実際やってもいないことを自分の功績にするのは自分が許せないのだろう。
「……ねえ茜、集落にぼくたちのことを知らせてくれた人は、名乗りもせず消えた。
そしてその人のことを、誰も何も思い出せない……これって目に見えない力が働いたって思わないかい?
だったらぼくは、君がぼくを助けてくれたって思いたいな」
ぼくがそう言うと、茜は頬を染めてうつむいていたが、やがて顔を上げると言った。
「……うん。じゃ、あたしは知らない誰かに、ソラの分までお礼を言うことにするよ。あたしたちを助けてくれてありがとうって」
茜が帰った後、父が病室に入って来た。その姿を見た時、ぼくはハッとした。いつもの父とは思えないくらい憔悴し、疲れ切っていたからだ。
「……父さん、大丈夫? 心配かけてごめんなさい」
ぼくが謝ると、父は大儀そうにベッドの横の椅子に腰を下ろし、しばらく何かを考えていた。
そして父は、顔を上げるとぼくの眼を見て言った。
「今回は俺の方が、お前に謝らなければならない」
ぼくはキョトンとした。茜を救うためだったとはいえ、判断を誤って危機に陥ったのはぼくだ。あれで茜がヤマダルマに取り憑かれでもしたら、ぼくはどんなに謝っても追い付かないし、父からどんな仕打ちを受けても文句は言えない。
だが父は、
「俺は木庭のお嬢ちゃんを見た時、嬢ちゃんがヤマダルマを封じた祠の結界に触れていたことをすぐに見抜いた。
だから結界を閉じ直す前に、お前たちにそのことを注意しておくべきだった。封印を急いだからとはいえ、結果的には何匹かを取り逃がしていたからな」
そう言うと、ぼくの頭をなでた。
「それに、その時お前にも不自然な気配がまとわりついていた。ヤマダルマの封印を締め直したら対処しようと考えていたが、まさかその前にお前たちが隣の集落に出かけるとは思っていなかったんだ。完全に俺の油断だった」
「不自然な気配?」
ぼくが訊くと、父は鋭い目を細めてうなずき、
「あれは死への誘いだった。お前がどうして黄泉の国と縁を結んでしまったかを解明する前に、一つ確認したいことがある」
そう言う。ぼくは、夢の中で会った三人のことだと直感したので、それを詳しく父に話した。
父は眉を寄せてぼくの話を聞いていたが、ふうとため息をつき、
「……なるほど、樟葉と名乗った管狐使いと、周と名乗った狗神使い。そして名前を名乗らなかった白髪の若者か。
空、お前にはその若者の気が視えていたはずだが、どんな感じがした?」
そう優しい声で訊いて来る。ぼくは正直に、
「他人とは思えない感じがした。まるでお兄ちゃんのような」
そう答えると、父はうなずいて、
「……お前と黄泉の国との縁は、すでに切られている」
そう言うと、信じられないが興味深い話をしてくれた。
「これは、俺自身も経験したことがある。そして今のお前と同じように、俺の親父から聞かされていたことだ」
父はそう前置きして話し出す。
………………
俺もお前と同じように、小さい頃から親父について神職の真似事をやらされていた。
真似事とはいっても、親父に用事があるときは俺が代わりに幣を握ることもあったし、祝詞も上げさせていただいていた。親父もそれを許していた。
そしてちょうど中学3年生の時だった、俺は黄泉の国との縁を結んでしまった。今思うと、御祭神への御奉仕を一人前にやっていたことが、俺の中の『アンテナ』を敏感にしていたのだと思う。
きっかけは、自分の将来を初めて真剣に考え始めたことと、その年にお袋が亡くなっていたことから人との『別れ』を切実に意識したことだったと思う。
それに加えて、ある祠に祀られていたモノとの縁ができたことで、お前と同じように『あの世の入口』を視ることになった。
俺はお前とは違い、異形の化け物たちに追い回されたよ。その世界からの出方は知っていたが、いかんせん出口が判らない。俺が逃げ惑っていると、突然、神職の装束をした男と、尼僧の姿をした女性が現れ、俺に出口を教えてくれた。
神職の男性が異形の者どもを抑えている間に、尼僧は俺を伴って出口まで守ってくれた。
その顔を見た時、俺は涙がこぼれそうになった。その尼僧はお袋だったんだ。
やがて、神職の男性も出口にやって来て、俺に厳しい顔だが優しい声で訊くんだ。
『出方は解っているだろう? お前の父に教わったはずだ』
と。尼僧も優しい顔でうなずいたので、俺も
『解っています。出口を教えてくれてありがとうございました』
そうお礼を言った。
すると男はニヤリと笑って消えたが、後に残った尼僧が教えてくれたんだ。あの男は未来の自分自身だとな。
『化野の一族の男子は、生涯に二度、『黄泉の国』を視ることになります。
一度目に『黄泉の国』に行くのは、自身が生涯を賭けて対峙せねばならぬ敵を知るためだそうです。
その時、結ばれてしまった『黄泉の国』との縁を切れなければ、その者の生涯はそこで終わりを迎えます。それを避けるため、自身を救いに『縮地』を使うときがきっとやって来ます。三界も精進して、いつか来る未来で自身を救えるよう精進なさい』
………………
「……それで、父さんは子どもの頃の父さんを救ったことはあるの?」
ぼくが訊くと、父はうなずいて
「お前が生まれる前のことだ。聖歌(ぼくの母のことだ)に出会う直前のことだった」
そう答えて、寂し気に笑った。母のことを思い出したのだろう。
しばらくの沈黙の後、父はぼくに厳しい目を当てて訊いた。
「お前が行った『黄泉の国』で出会ったモノたちは、人型をしていたと言ったな?」
ぼくがうなずくと、
「俺は異形のモノを調伏する宿命を背負ったが、お前は神との縁もあるので、さらに厄介なモノたちを祓う宿命があるようだ。
仲間を作り、自身を磨け。さもないと将来、自分自身を救えなくなるぞ」
そう言ってぼくの頭に手を置いた。温かい気がぼくの中に流れ込んで来る。ぼくは無意識にその気をぼく自身の中に巡らせ始めた。
「……お前が『黄泉の国』との縁を結んだきっかけは、俺がお前に話した『境界の曖昧さ』にあるようだな。あの話を聞いて、お前は無意識にこの世界とあちらの世界の境界に気を配っていたようだ。
そこにヤマダルマが加わることで、縁ががっちりと結ばれてしまった。これを解くにはかなりの力量が必要とされるが、将来のお前はその域に達しているようだな」
そう言うと父は目を開け、ぼくをほれぼれと見つめて言った。
「……誇らしいことだ。聖歌も喜ぶだろう」
ぼくは、それを聞いて泣きたくなった。父の誉め言葉はぼくにとって驚愕すべきことだったし、さらに母も喜ぶと聞いたら感激しない者は少ないだろう。
黙って涙を流すぼくに、父は
「お前が『黄泉の国』との縁を結ぶのは、もう少し後のことだと思っていた。だから俺の側に置いておきたかったのだが、すでにその経験も終えたから、お前がここに残りたければ残ってもいいんだぞ?」
そう言うが、ぼくは首を振った。将来のぼくが父が感嘆するほどのぼくだったとしても、それはあくまで将来のことで、今のぼくは茜一人すら守れない小さい存在だ。
父の言うように仲間を作り、自分を磨くためには、ここに居て満足しているわけにはいかない……そう思った。
春3月、山間の村に桜前線が来るのは遅い。しかし卒業式の日には、早い桜が満開に咲いていた。
「ソラ、卒業おめでとう!」
先生に別れを告げ、校舎を目に焼き付けておこうと運動場に立っていたぼくを見つけ、茜と昌が駆け寄って来る。
「ああ、茜も、昌もおめでとう」
ぼくが笑って言うと、昌が
「もう、この後すぐに出発するんだよな?」
そう言った後、意味ありげにぼくと茜を見て笑い、
「うちの学年の紅一点の心を奪ったソラには、是非とも元気で過ごしてもらわなきゃな? この果報者め!」
そう、ぼくの背中をどやす。
茜は真っ赤になりながらも、おずおずとぼくの前に来て、紙袋を差し出して言った。
「これ、アタシが編んだんだ。初めて挑戦したから不格好だけど、使ってちょうだい」
ぼくは紙袋を受け取ると、中身を引き出す。淡いピンクの毛糸を使って編み上げたマフラーで、勿忘草のアップリケがされている。少し形は崩れてはいるが、授業でも手芸や料理が苦手だった茜が一生懸命編んでいる姿が目に浮かんで、思わず笑みがこぼれた。
「ありがとう、とても暖かそうだ。大事に使わせてもらうね」
そう言いながらマフラーを首に巻く。今まで巻いたどんなマフラーよりも暖かかった。
茜は、微笑むぼくを見て、やっと笑顔になる。そしてぼくに言った。
「手紙、出していい?」
「ああ、待っている」
ぼくがうなずくと、茜は思い切ったように宣言した。
「アタシ、大人になったら、きっとソラに会いに行く。だから待っててね?」
その時、ぼくの心に、ふと浮かんだ言葉を、ぼくはそのまま口にした。
「うん。茜とは10年後にまた会える気がするよ」
「おいおい、俺とはどうなんだ?」
今の今まで気を使って二人の会話に入り込んで来なかった昌が、満面の笑顔で聞いて来る。ぼくは頭をかきながら言った。
「ああ、きっと会えるさ。昌との縁も切れる気がしないし」
「そうか、良かった。俺はお前が一番の親友だから、お前とこれきり会えなくなるのは寂しいと思っていたんだ」
ホッとしたように言う昌だったが、彼は自分の運命を、薄々感じていたに違いない。
ぼくは小学生最後の日、三人で過ごしたあの時間を忘れない。短かったけれど、ぼくの今はあの時固まったと今でも思う。
校舎の時計が、別れの時間を示す。父は校門の側でぼくを待っていた。
「……そろそろ時間だから」
ぼくがそう言って歩き出すと、茜と昌は大きな声で、
「元気でな、ソラ!」
「ソラ、またね!」
そう言って手を振ってくれる。ぼくは一度だけ振り向いた。舞い散る桜吹雪の中、校舎を背にして手を振る二人は、まるで一幅の絵画のようだった。
(無常堂夜話4~勿忘草の物語 終わり)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
『無常堂夜話』もシリーズ4作目を迎え、今回は空の昔話をお送りしました。
空はスーパーマンではありません。自力で霊を祓ったりすることもできません。
彼ができるのは、ひたすら神霊との縁をたどり、その助力を得ることだけです。もちろん、その前提となる知識や精神力は人並み以上に優れていますが。
今回は、自分の臨死体験……というか事故に遭った時に見た幻覚がベースです。ふわりとした感覚に、『何かに助けられた』と言う思いがありましたが、その後見たものは、本編に書いたとおりです。
不定期投稿ですが、気長にお待ちください。
では、またいつか!




