比翼の鳥
今、とても気分が良い。なにせ先程、我が家のトイレで自分の胃の中身を空にしてやったところだ。さっきよりも幾分か楽になった。加えて、これは昨日からであったが、もう、先のことを考える必要がなくなったことを思い出した。こんなに幸せで落ち着いた気分になることが出来たのはいつぶりだっただろうか。アルコールでやられた頭でそんなことを考えながら、俺は再度白い布団から起き上がり、首吊り用のロープを買いに玄関の扉へ向かった。一人暮らしには妥当と思われた広さだった部屋も、今ではあちこちに缶ビールに空の弁当、睡眠薬の容器やらが散乱して、布団以外足の踏み場もない。まるで白くて薄っぺらい棺桶の周りに、色の統一性もなく乱雑に献花されたようだった。三年の月日を経て意図せず出来上がってしまった作品を片付けることになるのは、俺では無く特殊清掃業者だろう。そんなことを考えながら、墓所予定地にドアで蓋をした。彼らのことを想い、少し後ろめたくなるような俺が嫌いだった。
玄関の扉を開けて視線を上にやると、雨上がりの空は水色に澄みわたっていた。
雨の匂いがまだ、残っている。名も知らぬ二羽の小鳥が中空で戯れていた。いわゆる比翼の鳥である。勿論例えであるが、もっとも、二羽の性別など俺は興味がないし、当然知る由もなかった。けれど俺はそれとは別な点で惹きつけられた。視界に動きがあったので視線をそちらにやったのが動機ではあったが、彼らは自由だった。多分これは、まるで重力に縛られていないかのように飛び回る彼らへ対する根拠のない憧れか。俺は、自らにかかる「重力」に耐えきれず、ついにはその「重力」に自責を加え、自壊活動に加担しようとしている事実が惨めでならない。それに、あいつらには地震も津波も関係ない。みんな、飛べたらよかったのに。視線を下にやると、道端では枯れかけのヒメオドリコソウが咲いていた。理科の教科書に載っていて、名前のインパクトと見た目の納得感から十数年経った今でも覚えていた。まるで紫色のドレスを纏った踊り子のようだ。地面に根を下ろし、ずっと同じ地で踊りきった彼女はもうじき命を散らしていくのだろう。彼女は子孫を残せただろうか。恐らく大丈夫なのだろう。彼女は繁殖能力が高いと聞いた気がする。きっと、種子たちは蟻に運ばれ旅をして、何処かで生まれて踊るのだ。もしそうなら、彼女は鳥などに憧れはしないだろう。なら俺は。いなくなった時、俺は、誰かの糧になれるのだろうか。何かを遺すことが出来ているのか。動悸が激しくなる。家族のこと、会社のこと、厄介な記憶が、自分の心を縛り上げてくる。考え込んでいるうちにいつの間にか呼吸を止めていた。
「っはあっはあっ…ふー」
激しく呼吸すると、たちまち体内に酸素が巡ってゆき、安堵と充足感を得た。
早くロープ買って成し遂げちまえよ。そうすりゃ、そんな思い詰めることなんてなくなるんだ。
まてよ、本当に良いのかそれで。もう少し外でもまわってみるのも良いんじゃないか。
俺の中で二つの意見がぶつかりあっている。さながら脳内で争う天使と悪魔だった。もっとも、予定通りか回り道をするか程度の違いである。俺にとっては彼らはどちらも天使であったし悪魔でもあった。
もう良いのだ。こうすると決めた。なら最後くらいはやり遂げてやろう。そうだろ。結局は後者に従うことにした。時間はある。最終的な意思は変わらない。あてもなくふらつくのも良いかもしれない。
地面に、薄汚れたスニーカーをザリ、ザリと打ちつけ踏みしめ歩を進めた。途中、ビールを売っている自販機があったので、二本購入した。一本を背負っていたリュックの中に投げ入れ、残った一本のプルタブを開けた。再び歩き始め、普段は車でしか通らない道を見渡しつつ、時々片手に持ったビール缶の中身を口に流し込んだ。三十分ほどそうやって逍遥していたところ、墓地に出くわした。ああ、今はとても気分が良いのだ。久々にこの場所を訪れるのも良いかもしれない。そう思った。
まわりには公園と、お世辞にも築十年二十年では片づけられない住宅が多く建ち並んでいる。それらに囲まれたこの墓地はごくごく一般的でなにか特色があるわけでもない。当然そこいら中に、黒や白の「○○家之墓」と彫られた柱が行儀良く並んでいるだけである。平日の朝ともあって、墓参りしている人影は奥に居る女一人以外見当たらなかった。だが、その一人に俺は目を奪われた。惚れたとか、そのような理由ではなかったが夢中にさせられたのは否定出来ない。彼女はウエディングドレスを身に纏っていたのだった。
三年くらい前なら、不審者に関わるまいと、すぐさまこの場から立ち去っていたことだろう。しかし今は違う。ウエディングドレスを着て立ったまま墓石の香炉あたりをじっと見つめている女は、逆に俺の好奇心を刺激した。父へ挨拶を終えた俺は、彼女に声をかけてみることにした。彼女が鳥に憧れていなければ良いなと少しだけ期待して。
ビールを呑む。
「こんにちはあ!」
愛想のいい笑顔で、あくまで気さくな自分を演じて近づいた。すぐ傍まで来て分かったが、どうやら彼女と俺はそこまで歳が離れていないようだった。身長は百六十前半程だろうか。彼女は短いウエディングベールを着けていて、横顔がよく見えなかった。しかし、ベールに隠れた朧げな輪郭から鼻が高いことが窺えた。きっと顔も整っていて美しいのではないか。隣には、おそらく彼女の私物であろう焦げ茶色のケリー・バックが置いてある。彼女がこちらに気付き、顔を向ける。
彼女の表情はベールによって見えなかったが、俺は不意をつかれた。酔いが冷めかけた。相手からの返答が無いので、俺はとっさに、動揺を隠せないまま言葉を発した。
「え、大丈夫ですか。えぇっとー、今ティッシュとか、持ってなくて」
彼女は静かに、激しく泣いていた。
ほんのかすかに、声にもなっていないような声が出ている。勿論嬉し泣きなどでないことは明白であった。
「えぇっとー」
なにか言わなければと「ええっとー」で時間を稼ぎつつ言葉を紡ぐ。
「あっ、そうだ。ビール!飲みますか?」
辛いことがあるならアルコールに頼るのも一つの手だ。頼りすぎたのは、良くなかったよなあ。
ビールを呑む。
別段、墓地で泣くことは異常でもなんでもないが、見た目の華やかさから無意識に泣いているという選択肢を除外していた。墓地の中にウエディングドレス姿というのは、確かに異様ではあったが、まるで「私は生きているんだ」とその身をもって高らかに宣言しているかのようでもある。衣装と表情のアンバランスさが美しい。
ウエディングドレスの女が口を開くまでには幾ばくかの時間がかかったが、それまで俺は何も言わずに、少し心配そうな表情で待っていた。ビールの勧めは無視された。
「大丈夫ですか」
「うん。大丈夫そう」
とても安心する声だ。特別この人の声が透き通っていてとか、そういうことではなかった。ただ、心が安らいだ。
「よかったです。あの俺…。あれ」
自分の名字を告げるつもりだった。
しかし、思い出せない。
名前でさえも、思い出せなかった。いや待て。思い出した。名字だけではあったが、なんとか思い出すことが出来た。俺は昔から名前というよりも名字で呼ばれることの方が多かったからだろう。思い出すことができた。
「俺は佐藤って言います」
こんにちは、と返した女が自らの名を明かすことはなかった。何故このタイミングで名乗ってくるのか。それに、この状況でビールを勧めるなどどうかしている。そう、思われたかもしれない。どうでもいい。どうとでもなってしまえばよかった。けれども、嫌わないで欲しいなどとめちゃくちゃなことを思った。しかし、幸いにも彼女は、まるで呆気に取られたといったように笑った。一体なにがおかしいというのか。
ビールを呑む。
「おー、なんか懐かしいね」
意味が分からない。ただ、俺にとってはどうでもいいことだった。気になる事柄を早く解消したかった。
「そのウエディングドレス、お似合いですね」
「え?うん。でしょ。凄く気に入ってる」
実際、お世辞で言った訳ではなかった。
少しだけ間ができた。
「私コシオ。越えるに生きるで越生」
すらすらと名乗ったのだった。きっと何十回も人に同じ説明をしているのだろう。
「へえ、珍しい苗字ですね」
「多分五百人もいなかったはず」
「ちょっと羨ましいです。ありきたりな名字よりは埋もれないですし」
「どうだろ。確かに佐藤も私とは別の理由で大変そうだよね」
「お互い苦労しますね。ところで俺、あなたがウエディングドレスを着ている理由が知りたくて話しかけたんですよ。出来たら教えて欲しいなって」
「そっか。まいったなあ。えっとね」
ゆっくりと分の節々で区切りながら丁寧にこちらに訴えかけるような口調だ。越生は、色々な感情が入り混じったような泣きそうな笑顔で
「私、太陽と結婚したかったんだー」
と、こう告げてみせた。それだけでは、分からない。つまりそれは、太陽の所有権を主張している、ということだろうか。前に誰かがそんなことをやっていた気がするが、愚行としか思えない。
酒を呑む。
そうでないなら、なにか、詩的な言い回しなのだろう。
「分からないけど楽しそうだ」
「いーや分かって。でも楽しいのは間違いないよ。そもそも書類とかなくても私は気にしないし。一緒に居られれば。もちろん、証があるに越したことはないと思うけど」
なるほどなるほど自己満足なわけだ。別段周囲に迷惑をかけることもないその省エネ的思考は、願望の内容とは裏腹に、ある意味現実的であった。
「けど、なんで結婚したいと思ったんですか」
「それは、んー秘密で」
「そうですか。じゃあ、ここにウエディングドレスを着て来た理由は教えてくれたりしないですか」
酒に濡れた言葉が俺の口から飛び出しいく。
「え、なに、私尋問されてんの?それはサトウサンが良く知ってると思うけど」
そう言いつつも不快には感じていないようだった。
「いや分からないな」
「じゃあそれで良いと思うよ」
はぐらかされてしまった。
ビールを呑む。
「ねえ、これからどうするの?」
そういえば最初から越生はタメ口を使っていた。恐らく年が近いと判断したということもあるのだろうが、俺はこのタイプが嫌いだ。
ビールを呑む。
しかし羨ましくもある。俺は昔から目上の人には敬語を使うように言われて育った。それがいつの間にか俺にとっては「絶対」になっていた。親戚にこんな小さい頃から敬語を使えて偉いだの言われて鼻高々であったことも、そういうスタンスを保持し続けることになった要因の一つだったかもしれない。そこで味をしめてしまった。目上には敬語。目上には敬語なのだと。そして、そこにはしっかりと穴があった。敬語がぬけず目上の人と親しくなれなかった。休み時間にはタメ口で先生と友達の様に喋るクラスメイトを見て気持ちいいものではなかった。俺は自分の価値観とは違った行動を取る人を許せるほど大人ではなかったということだ。しかし同時に、自分もあれくらい楽しく話せたら良いのにと、クラスメイトを羨んだ。結局社会人になっても癖は抜けず、先輩や上司で仲良い人は出来ずじまい。畢竟、何が言いたいかといえば、俺は自分の意識を変えることが苦手で、自ら覆った殻を破ることが出来なかったということだ。多分、もっと柔軟になれていればこんなことにはなっていなかったのかもしれない。
ビールを呑む。一気に酔いが回ってきた気がする。元々酒に強い方ではない。
「俺は…まあ…買い物がてらぶらぶらしていたらここに辿り着いて。この後目当てのものを買って、還ろうとしてました」
土に。
「え?土に、ってこと?」
「ちがうよ」
「本当は?」
「ほんとは、そう、あってるよ」
「だよね。なんかそんな雰囲気だったからさ。ねえ、未練とかないの?」
「みれん?んなもの、ないない。ないよー。仕事は無断で一週間くらい休んだし着信でうるさいスマホはどっかにやっちゃったからさあー。後戻りできないみたいな?親はそこで寝てるし知り合いも三年くらい連絡とってないし。みれんなんてないよー」
越生の顔にわずかに戸惑いと逡巡のようなものが見受けられた。
酒を呑む。
「も、もう呑むのやめときなよ」
「つらいことを忘れるにはこれが一番いいんだよお」
「でも、それ結局逃げてるだけだよ」
「分かってんじゃーん。俺もそれは分かってる。でもさー、そうするしかなかったんだよ」
「私は話したからさ、サトウ君がなんでそうなってるのか教えてよ」
「仕事がさ、上手くいかなかったんだ。別にどんな職種でもいいと思って、内定をもらった中で一番給料が良い会社を取った。けどまあ、自分には向いていなかったんだよ。その仕事。人間関係も上手くいかなくてさ。この時点でだいぶまいってはいたんだけど、すぐ辞めるのは良くないって思って。とりあえず三年。三年さあ。働いて粘ってみようと思ったんだ」
「偉いね」
「だろ。えらいんだえらいと自分に言い聞かせて持たせてきた。で、三年目になった。まあ、色々あったんだ。ある日の朝、急に思ったんだ。もう良いだろって。なんで会社なんて行ってるんだろうって」
ガラスの容器が割れて、中に詰め込まれた色々な思いが溢れ出ていく。きっとその容器がエレベーターなら、とっくに重量制限を超過して落ちていったことだろう。どこまでもどこまでも、下へ、下へ。それを酒で誤魔化し続けてきた。
「それで、もうどうでも良くなって首でも吊ってしまおうかと考えてたんだけどさ。さっきふと思ったんだ。俺がいなくなったら俺はなにも残らないんだって。やっぱり死ぬって嫌だよ。けどもうどうすれば良いかわかんないしさ」
もう訳が分からない。自分でも何を言っているのか理解しないまま、思いが意味を持った音になっていく。何故、こんなにもベラベラと話せてしまうのだろうか。酒のせいだろうか。きっと違う。顔も見えないし、ウエディングドレスを着ているし、どう考えても胡乱な女だが、彼女には言ってしまっても良いかと、そう思えた。どこかで会ったことがあるのではないだろうか。そもそも「会ったことがある」程度の言葉で片付けられる関係だったのか。声も口調も聞き覚えがある。しかし、誰だったか。思い出せない。彼女の顔を見れば思い出せるだろうか。そもそも、思い出せないのはそれだけではない。この会話ですら、どこかデジャヴを感じるのだ。
「じゃあさ、私たちいっそ友達になるとかどう?」
悪くないと思った。それに、その提案には既に答えたことがある。
「こんなやつでよければ喜んで」
「別に、サトウ君の気持ちが分かるなんて無責任なことは言わないけどさ、共感は出来るよ」
「え?」
「私も、そうなんだ。知ってるでしょ」
そういって彼女は、越生は笑う。そうか、だから親しみが湧いたのかもしれない。ただし、それだけでは説明できなだろう。俺は越生とどこかで会ったことがあると確信した。益々、顔が気になる。
「そういえばさ、コシオさんはずっと顔を隠してるけど、友達になるなら素顔をみせてくれても良くない?」
「別に隠してたわけじゃないよ。じゃあ、取っていいよ」
「俺が取るの?」
「うん」
少し迷いはしたが、顔が見たいという欲の前にはあまりに小さいものだ。多分、顔さえ見ることが出来れば、俺は全てを思い出せるのだと思う。ウエディングドレスに手をかけ、ゆっくりと上げた。
「あ」
どちらが言ったかは分からなかった。俺か、コシオか。或いはどちらもだったのかもしれない。
俺は全てを思い出した。自分の名前も、コシオとの関係性も、「今」どうなっているのかも。そういうことだったのか。間違いなくこれは現実ではなかった。
「残念だな。もう少し、話していたかったのに」
彼女は泣いていた。それはもう、とても泣いていた。目の前の彼女は俺が勝手に作りだした妄想のコシオでしかない。彼女とはもう、二度と逢うことは出来ない。
「そんなの、こっちの台詞だって」
とても、悔しかった。彼女のウエディングベールを上げることは、現実において叶うことはなかった。ここでの彼女の言葉も全て俺の中だけで補完されたものであるから、俺が伝えた言葉も、実際の彼女に届くことはない。意識が覚醒していくのがわかる。ただ、たとえまやかしだったとしても口に出しておかなければならない。
「綺麗だね」
そんな言葉も泡沫のように、誰にも届くことはなく、静かに霧散していった。
目が覚める。ここはいつもの俺の部屋だ。いや、違う。既にこの部屋は俺のところから離れている。見渡してもゴミや家具一つない。ライフラインも止められていた。詰まるところ、空き家だった。俺がいた形跡はもう、残っていない。原因もよく分かる。どうやら俺は助かったようだ。いや、違う。そうではなかった。俺は全てを思い出している。
出かけよう。墓に行かなくてはならない。
俺はあの墓場にやってきた。やってきたという表現は正しくないだろう。歩いてきた記憶はない。気づいたらここに居た。空は灰色に濁り、雪が降っている。鼻腔には潮の匂いとわずかなヘドロの匂いが漂う。コンクリートに落ちた雪は留まることなく、ものの数秒で消えていく。おれは一つの墓石の前に立つ。彼女が立っていたあの墓石の前に。つらいし、悔しいが、どこか救われた気がした。墓石には
「佐藤家之墓」
と彫られている。この世に佐藤は限りなく存在するが、この「佐藤家」はうちのことを指している。そこには、俺も含まれていた。俺は死んでいた。
「なんで、こうなるかなあ」
やや自嘲気味に呟く。しかし、思い出すことが出来たのは幸せな事だろうと、そう思うのだ。意識がなくなっていく。次に目覚めるのはあの部屋でもここでもない。
どこでも、ない。