竜角樹
その巨体故の鈍重な踏み込みと、唸るような低い咆哮。様々な鉱石を纏った尾が風を切り、地面を叩く。その重い音と共に地面が陥没し、砂塵が舞った。
「もう、面倒ッ!」
迫る尾を側面に飛び込むことで回避した彼女は、そのまま振り向きざまに直剣を振るう。渾身の一撃ではなかったが、しかし、鉱石を纏った表皮には浅く擦ったような傷しか付いていない。
「本当にこいつ、硬すぎよッ!」
即座に体勢を立て直し、後ろに飛び跳ねるようにして距離をとる。
対するのは、全身が様々な鉱石で出来た鎧に覆われている竜。業物の剣ですら一切の傷をつけることの叶わない、現在見つかっている竜種の中では最硬級の外殻を持つ。名を、岩石竜と呼ぶ。
「……私じゃどうにもならないわ」
彼女は剣を前に構え、強く握り直す。
細身で美しい装飾の施されたその剣は、一見、耐久性に難があり、祭祀儀礼用のものとも見える。だが、岩のような表皮を斬りつけても尚、刃こぼれはしていない。妖しく呑まれるような輝きを放つ刀身は、明らかに異質なもので作られていた。
岩石竜が唸り声と共に地面を踏み締め、前傾姿勢をとる。それは彼女にとって今まで何度も見てきた行動であり、岩石竜が熱放射を放つ前兆だった。
そして、一度首を振り上げてから、口を大きく開けて前方へと向ける。口腔の内側は、まるでマグマのように赤い。
「分かってはいたけれど、ねッ!」
放たれるのは指向性のある爆発と、それに伴う強烈な熱波。
岩石竜の前方、扇状に広がる加害範囲から完全に回避することは、酷く難しい。
「メルシー!」
彼女の後方から、名前を呼ぶ声が聞こえた。
メルシーと呼ばれた彼女は、その声に返事をすることもなく、すぐさま後方へと跳んだ。
メルシーの眼前に、立ち位置を入れ替えるようにして黒髪の少女が飛び込んでくる。そして、素早く懐から深青色の布を取り出し、岩石竜から自分たちを遮るように宙に広げる。
――――瞬間、熱放射が放たれた。地を揺るがす轟音と衝撃。何もかもを焦がす灼熱の焔が、二人に迫る。
だが、柔らかい布だったはずのそれが、熱波が伝わった途端、広げられた形状を保ち硬化する。
衝撃も、熱も、音すらも通さない。放たれた焔は布にあたり左右へと押し流されて大地を焦がし、けれどたった薄い布一枚を焼くことすら叶わない。
まるで、深青色の布によって時空さえ遮断されたかのようだ。
「レイメイ!」
深青色の布を抑えている黒髪の少女が、名を叫んだ。
すると、炎の向こうから返事が来る。
「分かってるってば」
直後、岩石竜の熱放射とは比較にならないほどの衝撃が大地を駆けた。そして、漸く炎が収まる。
宙に広げられた布が、ぴしりと音を立てた。そこにはガラスのように罅が入っており、次第に広がって最後には音を立てて砕け散った。
「流石に熱放射が直撃したら使い捨てになっちゃうか。これ、相当高かったんだけど」
開けた視界、その奥に。
「そんなの、僕だって同じだよ」
そう話す少年。
先程レイメイと呼ばれた彼の傍には、岩石竜が倒れ伏していた。その横腹には、まるで混凝土の壁に大砲でも撃ち込んだかのような、凄まじい打撃痕。非常に硬質な筈の外殻が砕き、潰し、圧壊されていた。そして、破砕された鉱石の奥から、赤い血液がゆるゆると流れ出している。
レイメイは、その打撃痕の中心部に手を添えた。
「それにしても、何度見ても凄い破壊力だよね。岩石竜を一撃だよ」
「閃火の素材から製錬したアイテムなんだから、当然でしょ。本物はこれの比じゃないわ」
「そりゃ、すごいね」
威力は申し分ないんだけど、でも、一発撃ち切りなのがなー。とレイメイが呟いた。
レイメイが手に持つその武器は、所謂カートリッジ式と呼ばれる作りをしていた。非常に大型で特殊な杭が装着されており、それを、装填する爆薬の力によって打ち出す。単発高威力の武器だ。
今回使用した閃火由来のものは、様々な装薬の中でも最高の火力を誇るが、当然威力に相応しいだけの費用がかかる。加えて、カートリッジに内蔵された装薬は一発で使い切ってしまう。閃火の素材自体が非常に入手し難いこともあり、一般の探索者では使用する機会はそうあるものではない。
それに対して文句を言うレイメイを横目に、メルシーが黒髪の少女へと向く。
「それでシェリル、あっちはどうなっているの?」
黒髪の少女、シェリルは肩を竦めながら言う。
「さっきまで適当に援護してたんだけど、こっちが心配で抜けて来ちゃった。でも、シュヴァルツなら大丈夫じゃない?」
「まー、シュヴァルツさんなら、岩石竜とも相性良いしね」
探索者パーティ「払暁の輝き」。そのリーダーを務める、シュヴァルツ・ヴァルトーレ。副リーダーである、メルクリアリス・エクリシエス。そしてシェリル・シェルターと、レイメイ・ヴァーミリオン。
この四人が、探索者ギルド沈花支部に於いて現最強と言われており、ギルドの貢献度、未開地域の進行度共にトップクラスに君臨しているパーティだ。各々の人当たりも良く人望も厚い為、他のギルドメンバーから憧れを持たれることも多い。
彼らが現在探索している地域の名は、死竜砂漠。老いた竜たちが死に場所を求めて彷徨い歩く、未開地域の浅層に存在する、危険地帯である。
三人並んでシュヴァルツの元へと歩きつつ、レイメイが話す。
「それにしても、竜角樹は全然見つからないね」
竜角樹。竜種の死骸を苗床にし、その腐肉や体液を養分として育つ、寄生植物だ。成長するための栄養を総て寄生元に依存している為、植物ではあるが光合成の必要がなく枝葉は存在しない。荒々しい幹だけが捻れながら伸びていき、それがまるで竜の角のように見える。最終的に死骸の養分を吸い尽くしたら、幹に点々と花を咲かせて種をつけ、後は残った竜骨と共に枯れ朽ちていく。
また、生きている状態の竜角樹を傷つけると、生々しい血のような樹液が流れ出る。
そして、竜角樹の樹液には寄生元の竜種によって様々な効能があり、最も利用価値の高いものは肉体の完全な再生である。怪我による欠損や生まれつきの障害など、原因は関係なく、使用者の肉体を完全に回復させることが出来る。
これを、錬金術の霊薬、万能薬と結びつけてエリクシールと呼ぶ。
余りに強力な効果、及び希少性と入手に際しての危険性から、その樹液は法外な価格で取引されていた。
今回の探索は、この完全回復効果を持つ竜角樹の樹液――――エリクシールの採取が目的だった。だが、進捗状況は思わしくない。
懐から出した数本の試験管を揺らしながら、シェリルが溜め息を吐いた。
「本当よね。私たちが死竜砂漠に入ってから、もう十日目なのよ? それなのに、見つかった竜角樹はたったの五本だけ。その内三本は既に枯死していたし、残り二本は効果が違ったし」
「それなのに、出会う敵は竜ばかりだしね」
「私もう嫌になってきたわ」
「ほんと、面倒な依頼受けちゃったよねー」
レイメイとシェリルが、二人して悪態ばかりを吐いている。
「文句ばかり言ってないで、ちゃんとしなさい」
そんな彼らを見て、メルクリアリスはそう咎めた。だが、必要なことであるとは言え強力な竜種と連戦することは、彼女にとっても十二分に辛いと感じるものだった。
「この辺りは十分探したから、シュヴァルツと合流して次の場所に移動するわ」
「了解よ」
「あいさー」
[第2話:竜角樹]
岩石竜が繰り出す致死の威力を持った噛み付きを、大剣の腹で受け止める。全身に押し潰される程の重圧がかかり、両足が砂地を滑る。
「くッ」
先程から隙を見つけては何度も斬りつけてはいるものの、殆どダメージを与えられていない。岩石竜の硬さと、何より砂漠地帯特有の砂地によって、踏み込みがままならないことが大きかった。
だが、良い。目的はその鉱石の鎧を切り裂くことではない。
俗に言う重剣。斬ると言うよりも重量を活かして叩きつけるという使い方をする大剣だ。
現在使用しているものを重剣と呼ぶには、長さは兎も角、比較的細身で一見軽量に見える。だが、実際は元になっている素材によって、それ以上の重量と耐久性を持つ。
一般的な剣の二回り以上も大きい長大さと、外見以上の重量。攻撃に溜めが必要で、その重さから体が振り回されやすい。故に使いこなすには多大な努力が必要となる扱いにくい武器だ。しかし、その一撃には労力に見合うだけの威力があった。
こちらを睨みつける岩石竜と、目が合った。
「ふっ!」
再び繰り出される噛みつきに合わせ、上体を逸らす。まともに喰らえば抉られるどころでは済まないその攻撃を、ほんの僅かな間隙で避ける。
人間と比較して巨体であるが故のリーチの長さは、却って小回りの効かなさとなる。だからこそ、前に。常に武器を取り回すことが出来る最低限の間隔を保つことで、岩石竜の行動を制限する。
一方的に有利な武器、有利な距離で戦う。そして、狙った行動を誘発する。これは如何なる相手にも言える、基本的な戦闘技術だ。
だからこそ、見切ることが出来る。
岩石竜の肩付近に位置取れるように調整しつつ、半回転。そして、その勢いのまま重剣を叩きつけた。
全力の一撃によって、岩石竜の図体が揺れる。
入った。そう確信して後方へと跳ぶ。
痛みに呻く咆哮と共に、鎧の役割を持っていた鉱石に罅が入り、重い音を立てて崩れ落ちた。そして、鎧で隠されていた岩石竜本来の姿が現れる。
まるで溶岩のように熱を持った鱗。その赤黒い鱗は元々気温の高い砂漠にあってさえ熱気を放ち、周囲の景色を歪ませる。
一回り以上も小さくなった姿は、鉱石によって守られていた時とは異なり、近寄り難い凶暴性を持っていた。
岩石竜が地を踏み鳴らし、咆哮する。
「漸く硬い鎧を破壊したかと思えば、これだから岩石竜は……嫌いだ」
重剣を構え直す。
黒曜の輝きを持つ鎧を身に着ける男、シュヴァルツ・ヴァルトーレも覇気を押し返すように咆哮する。
「うおおおおお!!」
シュヴァルツは重剣を振り上げ、距離を詰める。すると、それに合わせて岩石竜が半歩下がり、身体を斜めに向けた。
――――体当たりが来る。そう判断して振り上げた重剣を背中まで回し、更に踏み込む。
体当たりにしても威力が乗る前に、出鼻を挫くように。まるで弓から矢を放つように岩石竜が体を引き切った、その瞬間に合わせて。
背にまわした重剣の腹を盾に使い、こちらから体当たりを。
「ッ!」
岩石竜にとってこれだけ至近ならば、体当たりをするにも距離が足りていない。威力を上げようとするなら助走が必要だ。だから半歩下がる、体を引き絞る。そうして少しでも距離を稼ぐ。
無理に距離を作り出せば、その分体勢は崩れる。だからこそ、シュヴァルツは前に出る。
鉱石の鎧を纏っていた時とは異なり体重が軽く、軸がぶれている竜の体を、強引に押し倒す。
間に挟んだ重剣を超えて熱が伝わる。シュヴァルツは灼けるようなそれを我慢し、更に力を込める。
「おぉぉッ!」
そして、砂塵を上げながら岩石竜が横転した。こうなってしまえば、後はただの的と変わらない。
起き上がろうと藻掻く岩石竜の首に、シュヴァルツは重剣を振り下ろした。骨を断つ際の確かな抵抗を感じつつも、重剣を完全に振り切る。
立ち上がろうとしてのたうち暴れていた岩石竜が首を失い、まるで糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「さて、向こうは無事だろうか」
シュヴァルツは、先程別れた仲間たちの方へと歩き出した。岩石竜の死体は放置したままに。
岩石竜の外皮に形成される鉱物は、日々の食事から少しずつ精錬されていく。その為、その個体が生活していた環境により、それぞれ異なる鉱物を纏うことになる。それは容易に入手出来る鉱物から、非常に珍しいものまで、本当に様々だ。
また、頻繁に生活域を変える個体は、鉱物が木の年輪のような層状になっていることもある。
鉱物の鎧を纏い、超高熱のブレスを吐く。特徴を説明しようとすればそれだけで済むが、それが非常に危険であり、討伐難度は相応に高い。
探索者ギルドの市場に流れる岩石竜の素材も貴重であり、外皮に形成される鉱物も持ち帰ればそれも金銭になる。岩石竜を定期的に討伐することが出来れば、それだけで安定した収入になるだろう。
だが、今回シュヴァルツたち払暁の輝きが目当てにしているものは、エリクシールである。余り嵩張るようなものを持っていては、移動もままならなくなってしまう。小石程度の大きさで価値のあるものであれば良いが、それ以外は重いだけだ。
それに、シュヴァルツは探索者だ。金銭に興味がある訳ではない。目的を見失うことは、ない。
そうして、シュヴァルツが予め決められていた集合場所に到着した時には、既に他のメンバーは皆揃っていた。
「ごめん、少し遅くなってしまった」
「構わないわ」
「そうそう、僕たちも休憩できたし」
「それに私たちは良い素材も手に入ったから」
そう言って、シェリルが腰に着けた鞄から小さな石を取り出した。
それは、深青色に透き通る宝石だった。研磨されていない原石の状態だが、それでも、その美しさには目を見張るものがある。
「へぇ、氷電石か。良いものが手に入ったね」
「そう、運が良かったわ」
氷電石。半透明な深青色の宝石であり、電気を通すと温度が下がり、温度を下げると電気を発する特殊な石だ。主に、雪の解けない極寒の地で見つけることが出来るものだ。
氷電石が手に入るということは、その個体は元々極寒地域に生息していたのだろう。それが、寿命か何かで自身の死を悟り、死に場所を求めてこの死竜砂漠まで移動してきたということか。
「取り敢えず、近場の敵性生物は居なくなった。探索を再開しよう」
「は〜あ、さっさと見つからないかな〜」
「早く帰って温泉にでも行きたいわ」
そうして、払暁の輝きは再び死竜砂漠の探索を始めた。けれど、結局この日は流血樹が発見出来ず、また翌日へと延びることになったのだった。
元々、ギルドへ探索申請を出した時に、帰還予定を目標達成次第ということにしていた。だから、一月や二月程度でギルドに生死の心配をかけるようなことはないと思うが、それでも早く帰還できるに越したことはない。
探索日数が増えれば、それだけ疲労も蓄積されていく。致命的な失敗が起きてしまっては手遅れであるし、早々と発見したいものだ。
シュヴァルツがそう考えるも虚しく、中々発見することは出来ず、新たな竜種との戦闘も起こった。
そして更に数日が経過した後、漸く新たな竜角樹を見つけることが出来たのだった。
寄生元の竜は既に腐敗しており、残った骨格が鱗のついた皮膚を通して浮き出ている。そして、それらを覆うように竜角樹の根が張っていた。
樹液の効果は寄生元の竜種に依って変化する。故に、どの種類の竜に寄生しているのか判れば、大まかな予想は立てられる。
竜の死骸は原形を留めていないが、辛うじて残っている鱗から竜種の判別は可能だった。
「この爬虫類のような鱗は、湿地帯に生息する蛇竜の仲間だろう。竜角樹の根が覆っていてよく見えないが、胴が長いようにも思う」
「それってつまり、この竜角樹は毒性ってこと?」
「いや、蛇竜種は様々な毒を持っていて危険だが、上手く扱えば薬にも重宝されている。それに、蛇は永生や新生を司るものという信仰もされている。実際、蛇竜種に寄生した竜角樹から、エリクシールが採れたこともあると聞く」
「期待はできるって事ね」
「これでまた別の効果だったら、僕もう帰りたいんだけど」
「またそんな事を言って……」
うんざりとした顔で悪態を吐くレイメイに、呆れるメルクリアリス。だが、正直なところ他メンバーも似たような思いだった。
加えて、問題は精神や体調だけではない。薬や食糧といった消耗品も減ってきているし、簡易的ではない装備の整備も必要だ。
何よりも、レイメイの武器は消費型だ。装填するカートリッジがなくなれば、後はもう木偶でしかない。そうなってしまえば、精々が本体を投げつける程度だし、その威力は高が知れている。
既に、払暁の輝きというパーティとしての、活動限界が近付いていた。
「そろそろ見つかって欲しいことには同意しよう。流石に時間がかかりすぎている。これ以上の探索はリスクが大き過ぎる。異なる効果だとしても、一度帰還することを優先しよう」
シュヴァルツの言葉に、全員が頷く。
そして、シェリルが竜角樹にナイフを滑らせた。
「本当に、どうか頼むわねっ」
荒々しい竜角樹の幹に傷がつき、そこから樹液が流れ出る。粘性はあまりない、真っ赤な、血のような樹液が滴り、シェリルが構えていた試験管へと溜まっていく。
試験管の七割まで溜まった所で、シェリルが竜角樹の傷口に軟膏を塗る。止血剤、のような効果があるのだろうか。塗って直ぐに樹液の流出が止まった。そして、その軟膏を塗った上から、幹を覆うように布を巻き付けて固定する。
竜角樹は希少だ。それは今回の探索からも十分に分かる。彼ら払暁の輝きが数日間探索しても、たった数本しか発見できない程度には珍しい植物だ。
探索者は未開地域の素材を利用するが、生態系や環境の破壊は極力避ける。それらの特異な姿こそに、探索者たちは魅了されるからだ。
「さて、問題はこれが回復効果を持っているかどうかってことよ」
シェリルが様々な色をした短冊型の小さな紙束――試験紙を取り出し、順番に試験管の中の樹液へと浸す。
「神経毒じゃない、出血毒じゃない、筋肉毒でもない……」
あれでもない、これでもないと言いながら、次々と検査していくシェリルを、レイメイは懐疑的な目で見ていた。そして、手の空いているメルクリアリスへ疑問をぶつける。
「この検査毎回やってるけど、本当に意味あるの?」
「あるわ。毒性があるかどうかだけでも分かるのなら、それはとても重要なことよ」
回復効果があるかどうかだけで良いのなら、傷口につけてみるだけで判断がつく。けれど、もしも毒性があるのなら、それは取り返しのつかないことに繋がる可能性がある。
それがある程度防げるだけでも、検査することは十分に意味があった。
「でもそれって、既存の毒物にしか反応しないんでしょ?」
「そうね」
しかし、この試験紙も万能では無い。既存の毒物に反応するように作られているので、それ以外には反応を示さない。未開地域は多様な生物が生息しており、それによって様々な毒素も存在する。そしてその多くは、未だ研究が進んでいない。
故に、いくら試験紙の種類を揃えようと、どれにも反応しない毒素も存在する。そして、それらは往々にして重篤な症状を現すものだ。
だからこそ、レイメイはその検査を行うこと自体に意義を感じなかった。
「けれど、含有頻度の高い毒素は網羅しているわ。既存の毒素に中らないということだけで十分。被害の確率が下がる、それだけでいいわ」
「幸いなことに、試験紙は高価なものでも携行に支障が出るものでもない。やらずに何かしらの害が出るよりはましだろう」
「……それもそっか」
リスクは少ないに越したことはないか。それに自分の体で試すのは、やっぱりちょっと怖いからね。そう言って、レイメイは納得したように頷いた。
そして、シェリルが総ての試験紙を試し終え、振り返る。
「取り敢えず、毒性を持っているわけではなさそうだけど」
「既存の、だよね」
「煩いわね、分かってるわよ。で、どうする?」
試験の結果、反応はなし。
「さて、これでエリクシールである確率が高まった訳だけど」
試験紙のみでそれを判別出来れば良かったが、エリクシールは非常に複雑な組成をしており、専用の試験紙を作ることは難しい。それ自体が余りにも貴重な為、研究に回されることが非常に稀ということが輪をかけている。
「後は使ってみなければ判らないな」
結局はそこに行き着く。実際に使用してみなければ、正確な効果は分からない。
「何にせよ、消耗品が足りなくなってきているのは事実だ。これを持って一度帰還しよう」
これ以上の鑑定は、この場ではもう無理だ。少なくとも既存の毒性は持っていないだろう、という事は分かった。後はこれがエリクシールである事を願うだけ。
「良いと思うわ。これ以上探索しても、次の竜角樹を見つける前に持ってきた物資が枯渇する」
「うーん、釈然としない微妙な感じだけど……まあ、帰れるならいっか」
「了解、一度帰還するわ」
完全に目的を達成した、とは言えない状態で引き返すことは残念ではある。だが、もしエリクシールではなかったとしても、もう一度この死竜砂漠に赴けば良いだけの事だ。
「幾ら報酬が良いからって、安易に受けるべきじゃなかったんじゃない?」
「仕方ないよ。なにせ彼からの依頼だからね、断れないさ」
シェリルが疲れたような顔で言うと、シュヴァルツは少し困ったような顔で肩を竦めた。
「ヴィクトリアね……。まあ、確かに断れないわね」
「この依頼を受けなければならない義理はないが、彼には恩がある。蔑ろには出来ないさ。それに、返せる時に恩を返さないと、後になって何をさせられるか分かったものじゃないからね」
まあ、恩がどうとかではなく、彼の役に立ちたいと思っている人も居るけれど。シュヴァルツがそう呟いて、メルクリアリスを見る。
「何よ」
「いいや、なんでもないさ。これがエリクシールだったら良いなと思ってね」
「そうね、それが依頼だから」
メルクリアリスの素っ気ない言葉に、シュヴァルツは何か言いたげに溜息を吐いた。しかし、直ぐに顔を上げて手を叩く。
「さて、取り敢えず今回の探索はここまでにしよう。各自物資の点検を行うこと、その後、速やかに帰還ルートへと切り替えよう」
探索者ギルド、沈花草原支部。名前の通り、沈花草原に隣接して設置された支部だ。沈花草原は活発な敵性生物が居らず、安全性が高い故に初心者に適した支部でもある。探索者の黎明期、一番初めに作られた支部だということもあり、探索者の元祖とも言われている。
また、沈花草原自体は上級者には旨みが少ないが、そこから先、他の地域への移動性が高く中・上級者も多く所属している。
探索者パーティ払暁の輝きも、沈花草原支部に所属していた。
「はー、やっと着いた。やっぱり死竜砂漠って案外距離あるよね」
「いやいや、死竜砂漠は一応浅層なんだけど」
「ん、まあそうなんだけど、労力的にさあー。竜と戦った後じゃん? 浅層だからどうのってのは違うと思うなあー」
そんなことを話しながら、沈花草原支部の扉を開く。
普段から喧々としたギルド内だが、今日は特に賑わっていた。賑わっている、と言うよりはどよめきのような、混乱していると表現すべきか。そんな、普段とは異なる雰囲気だった。
「払暁の輝き、帰還しました。依頼品の納品をお願いします」
「皆さん、おかえりなさい。畏まりました。依頼書はお持ちですか? はい、確認させてもらいます。納品はこちらで受け取りますね」
「ところで、ギルドの様子がいつもと違うみたいだけど、どうしたんですか?」
シュヴァルツが窓口でそう聞くと、受付嬢は苦笑いを浮かべる。
「崩壊事件で謹慎処分になった方々が、復帰するというお話を聞きまして。その噂で少々、騒がしくなっていますね」
「ということは、彼も?」
「ヴィクトリアさんですね。ええ、といいますか、ヴィクトリアさんはうちの支部からは追放されていますから、午前中に本部の方で解除手続きを行って直ぐにグロリンド霊峰支部へ異動申請されたようですよ」
「グロリンド霊峰支部、ですか」
グロリンド霊峰とは、未開地域前線に隣接しながらも、危険度の高い山岳地帯のことだ。
浅層や中層、深層といった区分は、あくまで未開地域前線からの距離で分けられている名称であり、危険度や踏破難易度の高さとは関係がない。故に浅層でありながら、危険度はトップクラスということもあり得る。先の死竜砂漠に加え、グロリンド霊峰もそういった、未開地域前線に接するという浅層でありながらの危険地帯だ。
この支部は、その危険度故に新規登録を受け付けていない。貢献度や実績など、一定の基準を合格している者だけが、グロリンド霊峰への異動申請を行うことができる仕組みになっていた。
「あそこの支部長はヴィクトリアさんとは仲が良いみたいですから」
「そうみたいですね。とはいえ、彼はどこへ行っても問題を起こしそうで、僕としては心配なんですが」
「確かに。私もよく後始末をさせられました」
そこまで言うと、受付嬢はペンを走らせていた書類を纏める。
「はい、確認しました。納品は竜角樹の樹液が三つ。内訳は麻痺毒一、軽度回復一、不明一で間違いないでしょうか?」
「それで間違いありません」
「それでは、報酬は口座へ振り込んでおきますね。それと、受領書はこちらになります」
「確認しました。ありがとうございます」
シュヴァルツたち払暁の輝きは受付を離れ、沈花草原支部を出る。次の探索について仲間たちと話しながら歩いていると、今からギルドに戻るのだろう二人の女性探索者とすれ違った。
「んー、建物が並んでて、人が沢山いるってだけで新鮮に感じるねっ! 本当はただ戻ってきただけなのに」
「そうね。でも探索者を続けるならいつもの事よ。そういう感覚も直ぐに慣れるわ。ま、新人のうちの特権ね」
それは、いかにも新人という雰囲気をした少女と、探索慣れしている少女だった。
二人とも腕に包帯を巻いている。背負っている防寒装備からして、ユルカル雪原帰りだろうか。
「あの二人さ、将来有望かもね」
二人を視線だけで追っていたレイメイがそう零す。
確かに、ユルカル雪原まで行ったのであれば、それは新人が容易に出来ることではない。それに、見たところ成果物をバックパックに詰め込んでいる様子でもない。背負っているのは、探索における必需品のみだ。そして、包帯の巻かれた腕。
つまり、金銭が目的ではない。それは、彼女たちが探索者たる本質を違えていないことを意味していた。
「確かに。今どき珍しいちゃんとした探索者ね」
「だから多分、すぐに死んでしまうね」
「運が良ければ生き残れるわ。きっと」
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