霜雪の霊廟
未開地域浅層、ラキノ森林。鬱蒼とした、日差しの届かない薄暗い森。道という道のない木々の間を、少女が目印もなしに駆けていた。背負っている大型のバックパックが、跳ねるように揺れている。
そして、どこか焦ったような声で前方に向かって叫ぶ。
「ちょっと、待ちなさい! 急ぎすぎよ!」
彼女の周囲に人の気配はない。叫んだ声も深い森の奥へと吸い込まれて、返事のないまま消えていった。
「もう、世話のかかるッ」
少女は苛立たしげにそう零すと、先程よりも速度を上げ、更に森の奥へと走っていく。
一時間か、二時間か。どれほどの距離を進んだろうか、気がつけば辺りの気温が急激に下がっていた。青々としていた木々も先へ進むほどに紅くなり、段々と葉を落とし始めている。ずっと山を登っていた訳ではなく、この森はなだらかな丘のような地形だった。通常ではありえない、環境の急激な変化。
光を遮っていた木の葉が減ったことにより、陽の入るようになった森は明るく、遠くの景色もよく見える。そして、森の奥に白銀の世界を見た。
少女は臆することなくその場所へと向かい、最後に、枝だけになった潅木を抜けた。
白く、雪が広がっている。
潅木を抜けたその先に広がっていたのは、辺り一面に雪の積もった、白銀の平原だった。気温はもう零度を優に下回り、風が吹く度に少女の体から熱を奪っていく。
先のラキノ森林とは違いどこか無機質で、それでいて溜め息が出るほどに美しい。生命の拍動を許さない静かな重圧が、辺りを包み込んでいた。
少女は、くるぶしまで埋まる程度に積もった、純白の雪を歩く。柔らかい雪を踏み締める度に、心地の良い音が鳴った。
少し歩き、少女はそこで漸く立ち止まると、目を細めて深く息を吐いた。
青空から照りつける日差しを、雪が反射する。遮るもののないそれは、今の少女には眩しすぎるようだ。
「リゼ、遅いよー」
太陽に手を翳して空を見上げる少女――――リゼに、横から声がかかった。少し離れた位置から、活発そうな少女が大きく手を振りながら駆け寄ってくる。
リゼは、それを見て眉を顰めた。
「いやいや、マリナが早すぎるのよ」
「だって早く来たかったんだもん」
そう言って、活発そうな少女――――マリナは、ばつの悪そうに目を背けた。
けれど文句は言いつつも、リゼもそれほど怒っていないらしい。水平線まで続く美しい雪原に目を向けると、
「まあ、その気持ちもわからないでもないけど」
そう言って、やれやれと溜息を吐いた。
「けど、ここには夕方に到着する予定だったのに」
恐らく時刻はまだ正午を過ぎた辺りであり、未だ太陽も燦々と照りつけている。夕方に到着すると言うには、些か早すぎる。
「マリナが未開地域に入るのはまだ一回目だし、本当はもっとゆっくり進んだ方が良いんだから。それなのに、もうユルカル雪原まで来るなんて。私だって、ここまで来るのは五回くらい経ってからだったのに」
「だって、思ったより疲れも溜まってないし、なら進めるだけ進んでみたかったんだもん。それに、リゼが居てくれるから、多少の問題は任せても良いかなって」
どうやら、アクシデントは他人任せにするつもりだったらしい。今回の探索にあたってガイド役を頼んできた癖に、予定外に先へ先へと進むマリナに合わせるのは、とても大変だった。そんなリゼのことなど、気にもしていなかったようだ。
「マリナが疲れてないのは、私がサポートしているからでしょうが! ここまで来るルートも、必要な道具の準備も、周囲の安全確認も、全部私がやってるからよ。マリナが一人だったらとっくに死んでてもおかしくないんだから!」
「ごめんごめんって。ありがとう、感謝してます」
脳天気な言葉に、リゼも声を荒らげる。けれど、自身に向かって手を合わせ、大袈裟に拝むマリナの姿に毒気を抜かれたのか、取り敢えずは怒りを収めた。
「いやー、流石は旧支部メンバー様だよ。こんなに優秀なガイドが手に入って、私って相当ラッキーだよね」
「マリナはそうかもしれないけど……私、押し付けられたようなものでしょ、アンラッキーも甚だしいわ」
リゼの言葉を聞きもせずうんうんと頷くマリナに、リゼは嘆息した。そして、初めてマリナが探索者ギルドに来た時のことを思い出す。
探索者ギルドに対する世間一般的な評判は、野蛮で恐ろしく、なるべく関わってはいけない人たち、というものだ。
リゼ個人としては異を唱えるところではあるが、現在のギルド全体として見るなら、やはり否定できない部分が多々存在する。
世間に広く利用されている革新的な技術や素材の中には、探索者が未開地域から手に入れたものも数多く存在する。だが、それを覆い隠して余りあるほどに、悪名もまた、広がっていた。具体的には、野蛮で横柄で、礼儀もなっていない人物が多く、力を誇示し直ぐに暴力に訴える。そんなところか。
事実、酒場での喧嘩などは日常茶飯事だし、その多くは知性も品性も大して持っていない。加えて、そもそも、それが悪いとも思っていない者ばかり。
詰まる所、どうにも行き先のない荒くれ者が、自身の命を担保に金を稼ぐ場所。という、その程度の認識をされていた。
だから、マリナのように良くも悪くも、普通の若い女性が来ることは、珍しかった。ちょうどギルドの酒場で食事を摂っていたリゼも、その姿に目を引かれるほどに。
どこか自信に満ち溢れたような顔をして、受付へと真っ直ぐに進んでいく少女。奇異の目も、周囲のざわめきも、横合いから彼女を呼び止める言葉も、総て存在しないかのように。
その時だけは、こんな厳つい荒くれ者集団の中にあって随分と豪胆な人だ、と思ったものだ。
尤も、探索者ギルドの加入申請に行ったであろう受付で初心者講習の案内をされ、講習を受けに行ったと思ったら、何故か絶望した表情で出てくる迄の話だったが。
酷く落ち込んだ顔で酒場の席に座る彼女に、新人にちょっかいをかけるような輩ですらあからさまに目を背け、普段から荒くれ者どもの対応をしている酒場の店員ですら、及び腰になってメニューを渡していた。
そんな姿を見て、元々世話焼きな性格だったリゼは、話だけでも聞いてあげようと近寄って行ったのだった。
それが間違いだった。
ちょっと優しくしたら思い切り泣きつかれ、それを見ていたギルド職員にどうにかしてくれと頼まれたのだ。初心者講習すらも満足に出来ず落ちるような、駄目駄目の新人を。
「旧支部メンバーだからって、何でも出来ると思わないで欲しいのよね」
二年前、リゼの所属する探索者ギルド、沈花草原支部は、とある事件によって半壊したことがある。その事件で、幸い死者は出なかったものの、多数の重傷者を出し建物は崩壊。一時的にギルド支部を閉鎖する事態にまでなった。
その一件が切っ掛けで関係者の多くは処罰、謹慎や資格停止処分が下された。事件が大規模だったが故に、沈花草原支部の所属人数も相当数減ったのだった。そして、ギルド支部を建て直す際、手っ取り早く人員を補充する為に、力を重視し、金銭と栄光を餌にした。
その謳い文句で新しく探索者ギルドに加入するような人物など、人格はたかが知れている。探索者ギルドの悪名が広がったのも、この時期からだ。それ迄は、もう少し違った評価がされていた。
ややあって、以前からギルドに入っていた人を、前世代や旧支部メンバーと。新規に加入した人を、次世代や新支部メンバーと呼ぶようになった。
力と金、そして栄光を求めたのではなく、未知への探究心と好奇心によって探索者になった者。以前のギルドは研究職のようなものであったと認識して良いくらいに、知識や経験そのものが目的であったことから、新支部メンバーとは明確な差があった。
だが、当然それは旧支部メンバーがなんでも出来るということを意味しない。
「ここで一泊して、明日の朝になったら進みましょうか」
「えー。まだ明るいんだから、ちょっとは進もうよ」
つい先程怒られていたにも関わらず、マリナは何も反省していないようだった。
「いいのよ! この領域の境が一番安全だし、何よりも、誰かさんが勝手に進んでいくから、それに合わせるので大変だったの。もう疲れたわ。それにどの道、今からじゃこの雪原は抜けられないし」
そう言われるともう何も言い返せないのか、マリナはそそくさと引き下がり野営の準備を始めた。
リゼも背負っていたバックパックを下ろすと、中から焚き火の道具を取り出し組み立て始める。
「よし、出来た!」
小一時間程経つと、そこには立派なテントが張られていた。簡易的な調理場も設置されており、一泊するだけというには十分すぎる設備が揃っている。
「ああ、もう出来たの? 随分慣れてきたじゃない」
感心したようにリゼが言う。
「そりゃあ、もう何回も組み立てては片付けてを繰り返してるからね。流石に慣れたよ」
「最初の方はいくら経っても組み立てられなかったのにね?」
野営セットは、探索者にとって必要不可欠な装備だ。危険の蔓延る未開地域の中で、比較的安全な場所を探し休息場所を確保することは、優に半月以上も探索し続けることがある過酷な仕事の中に於いて、最も重要な作業の一つだ。
探索者ギルドで定期的に開かれている初心者講習でも、当然、簡易テントの張り方なども指導される。だが、あくまで初心者向けであり、最低限の基礎の部分しか教えて貰えない。加えて、講習で使用される機材も、金銭に不安のある初心者でも手に出しやすい安価なものばかりだ。
それと比較して、現在マリナが組み立てたものは、骨組みも太く頑丈で天幕の布も強靭なものだ。統一されたデザインから見るに一式セット物の様だが、付属している調理器具や整備道具なども安っぽくは見えない。必要最低限の道具しかないが、多少雑に扱っても壊れることはないような、耐久性を重視した作りになっている。
明らかに、初心者向けとして売られているようなものでは無い。
「組み立てられなかったのは、最初に受けた講習の時と全然違うものだったからだし。私は安物でも良いって言ったのに」
「講習のテント張りすらまともに出来なかった人が良く言うわ。それに、その話は終わったことじゃない。安物だったらもう壊れてたかもしれないわよ」
「それは、そうかもしれないけど」
マリナは未開地域に入る前、準備段階から手伝わされていたリゼの勧めにより、装備一式を見繕って貰っていた。その時に、マリナが探索者になる為にと貯金しておいた分の殆どを使う羽目になってしまったが、今となってはそれで良かったのだろう。
「大体、最初の一回目からこんなに奥まで進むなんて、想定してないのよ」
そう、ここはユルカル雪原。未開地域の中で浅層とは言えど、この場所へ来るには先のラキノ森林含め複数の地域を超えなくてはならない。ギルドを出発してからの到達日数も、ベテランで十五日程度とされている。本来、初心者が来るべき地域ではない。
それは二人も理解している。だが、彼女らにはリスクを負うに値する明確な理由が有った。
リゼを真っ直ぐに見つめるマリナの視線が、強い意志を持つ。
「でも、絶対に来なきゃって思ったからさ」
「全く、探索者はこれだから……仕様がない」
ガイド役としては迷惑極まりないが、リゼはそれ以上何も言わなかった。
「そろそろ昼食にしましょうか」
「うん。私が作るから、リゼは休憩しててよ」
「そ、じゃあそうさせてもらうわ」
リゼは、懐から未開地域の地図を取り出す。今まで通ってきたチェックポイントを指でなぞり、現在地、目的地へと進ませる。
今回の探索に於いての最終目的地は、ユルカル雪原の奥地。印が着けられている場所まではもうすぐだ、この調子ならばあと五日程度で着くだろう。
今現在、未開地域に入ってから二十日が経過していた。初めの予定では、初心者ということを考慮して目的地までは三十日程度と見積もっていた。
鼻歌を歌いながらフライパンを振るうマリナを、リゼは横目で見る。
予定よりもかなり早いが、二人とも疲労の方は問題なさそうだ。先程、ああは言っていたものの、リゼ自身もさほど疲れていない。それでも多少強引に足を止めたのは、適度な休憩や安全地帯の確保もガイドとしての役割だからだ。
リゼは命がかかっている以上、過度なリスクを負う必要は無いと考えている。まして、行けると判断したものの、初心者を抱えている状態では尚更安全を優先したい。
無理は禁物だ、気分的にも余裕を持ちたい。
ユルカル雪原には敵性生物として群狼が出現する。尤も、領域の境に来ることは殆どない。だからこそ、リゼはここで休憩することを選んだ。
霜雪狼。ユルカル雪原に生息する狼で、白く美しい毛皮を持ち、冷気を纏う。十頭以上の群れで行動することが多い。個々であれば問題なく処理できる自信があるが、群れとなるとそう簡単には行かない。気性も荒く、一度敵対すると逃げても広範囲を追いかけてくる。
戦闘は最小限に抑えるつもりではいるが、どうしても大型の群れとの戦闘が回避ができず、乱戦になった時にマリナを守りきれる自身はなかった。
今までリゼにサポートされ、言い方は悪いが、ぬるい戦闘ばかりしてきたマリナが、その時に対応出来るかなど、考えるまでもないだろう。
マリナの能力は兎も角、経験には全く見合わない地域への侵入。強行的な探索の弊害だった。
探索者によっては、それで死ぬならそこまでという思考の持ち主も居る。だが、ガイド役として以前に、友人として来ている部分もあるリゼとしては、心配性になっても仕方がないことだった。
口元に手を当てて思考に耽けるリゼは、ふとなにかの気配を感じ取った。
「ッ! マリナ!」
雪原の奥に、こちらへと向かって来る霜雪狼が見えた。それも一匹や二匹などではない。完全にボスを擁する、ぱっと見えただけでも数十匹もいる群れだ。
霜雪狼の群れは大型になるほどに縄張りを中心部へと移動させる。彼ら本来の活動区域からは大きく外れていた。それなのに、一直線にこちらへと向かって来ている。何かに駆られているような、どこかそんな雰囲気もする。だが、今はそれどころではない。
「全く、なんでここに来るのよッ」
順調に進んでいたから、油断していた。いや、それは言い訳にしかならない。何故、どうして。そうではない、今考えることは状況の打開策だ。
マリナが悲鳴のような声で叫ぶ。
「どうする、逃げる!?」
「当たり前でしょ! 荷物は置いていく、武器だけ持って森に戻るわ!」
リゼは腰に短剣が差してあることを確認すると、テントの横に立てかけていた強弓を素早く回収する。マリナもその横にある斧槍を手に取り、元来たラキノ森林へと走る。
リゼの短剣は兎も角、マリナの斧槍は障害物の多いラキノ森林では役に立たないだろう。だが、ここで戦ってもあの数の群れ相手ではどうにもならない。ならば逃げるに限る。
「あーもう、折角の料理が!」
「そんなこと気にしないで、ほら走る!」
未開地域は、場所によって環境の変化が激しい。特定の地域に順応した生物は、そこを大きく超えて移動することはない。これが、エリアの境が比較的安全な理由だ。それは霜雪狼でも変わらない。追跡されない所まで入り込めれば、一先ずは安全と言っても良いだろう。
だが、状況はもっと危機的だった。
「前に敵! 止まって!」
ラキノ森林まで後一歩のところで、リゼが叫ぶ。
足場が悪いこともあって、勢いを止めきれずにマリナが雪に倒れ込む。
「ちゃんとしなさいッ!」
リゼは喝を入れつつ、背中から素早く強弓を抜くと前方の森林に向かって構える。何か居る、確実に。直感が警告を鳴らしている。それは、背後に迫って来ている霜雪狼よりも強い。
挟まれた、もう戦うしかない。リゼは直ぐにそう判断し、ラキノ森林へ入ることは諦める。回避できないなら、周囲が開けている方がまだマリナも戦える。
リゼは考える。しかし、一体何だ。ラキノ森林に現れる敵性生物の殆どは、待ち伏せが主体なのでエリアを回遊しない。ラキノ森林に、強力な徘徊性の敵性生物は居なかった筈だ。
それに加え、この圧の強さは。明らかに未開地域の浅層に出現するようなものではない。もっと、中層やそれ以上の強い気配を感じる。
完全なるイレギュラー、こんなの予想出来るわけがない。リゼは悪態をつきたい気分だった。
勝てるかは分からない。だが、せめてもの思いでリゼはマリナの前へ出る。
「私が前に出るわ。マリナは後ろをお願い」
「そっち、平気なの?」
「さあ、どうだか。でもやるしかないでしょ。マリナこそ、さっきはすっ転んでたけど?」
「うん。でも、もう大丈夫だから。後ろは任されたよ」
二人して強がりを言い、笑い合う。
ここで死ぬかもしれない、それは分かっている。だが、簡単に死んでやる訳には行かない。
二人には目的がある。その為に、今、無理をする。虚勢でもなんでも良い、ただ生き残る為に。
背後から、霜雪狼が雪を踏み鳴らす音が迫ってくる。だが、マリナが抑えてくれる、そう信じるしかない。リゼは背後を向きたい気持ちを抑え、前方へと意識を集中し直す。後方を任せた以上、前方を抑えるのはリゼの役割だ。どちらかが崩壊したら、それで終わり。
さあ、鬼が出るか蛇が出るか。リゼは強弓をしっかりと握り締め、ラキノ森林を睨みつける。
そして、木々の間からそれが現れた。
「あれ、もしかして取り込み中?」
この場に似つかわしくない、呑気な声。
その声、姿にリゼは呆気に取られ、反応が遅れた。
森の中から現れたのは、一人の男だった。鍛えているわけでもなさそうな一般的な体型に、街に出かけるような身軽な服。装備という装備はなく、まともな武器すら持っていない。一見して、街の青年が迷い込んだような、そんな場違いな姿。
けれど、今も感じる押しつぶすような圧は、間違いなくこの男から放たれているものだ。
「は?」
リゼは、その異様さに言葉が出なかった。どうしたの、と振り返ったマリナも同じく呆けている。
そして、男はそんなことを気にもかけずに、二人の横を素通りしようとする。そこで漸く、リゼが我に返った。
「ま、待ちなさい!」
「なに?」
「貴方何者なの? と言うか霜雪狼の群れが、ああッ! もう!」
リゼの頭は最早パンク寸前だった。取り敢えず、前方はもういい。人間である以上、いくら圧が強かろうが無闇に襲ってくることはないだろう。ないと思うしかない。
と言うより、霜雪狼だった。意味のわからないものを対処するくらいなら、まだこちらの方がマシだった。
「取り敢えず逃げるわ、マリナ!」
「あ、うん! 分かった」
名前を呼ばれ、マリナが再起動する。
「貴方もほら、着いてきて!」
「逃げるよ!」
見知らぬ男。他人だが見捨てる訳にも行かない。
ここで素知らぬ顔をして二人だけで逃げてしまえば、それは敵の押しつけと何ら変わらない。未開地域内で起こり得る総ては自己責任。そういった暗黙の了解がある探索者であっても、それはリゼの道徳心に反していた。最低でも、霜雪狼が追ってこなくなるまでは見送らなければ。
だが、男はリゼの切羽詰まったような声も意に介さず、平然とした顔をして立っている。
「なんで?」
「なんでって!?」
それに加えて逃げる素振りも見せないどころか、寧ろ、自ら霜雪狼の群れに向かって歩く。
「ああ、そういう事か。君たちは新人さんかな」
そして、眼前で悠々と立ち塞がった。まるで、霜雪狼からリゼとマリナを守るようにして。
この状況で、この余裕。明らかに素人ではない。
「もうッ」
「はいはい、分かりましたよっ!」
逃げる気のなさそうな男をみて、二人は諦めたように武器を取り出した。
勿論、二人とて死にたくはない。だが、それ以上に、置いて逃げるという選択肢は有り得ないものだった。
二人は男の横に並び、武器を構える。
男はリゼとマリナに視線を向け、笑った。
「あはは。そんなことしなくても、大丈夫だよ」
霜雪狼の群れは、もうすぐそこまで迫っていた。
まるで引き寄せられるかのように、一直線に。
「これは……」
そう、ただ一直線に。――――男に向かって。リゼとマリナには目をくれていない。そして霜雪狼たちは、走る勢いをそのままに男に向かって飛びかかった。
男は、ただ立っているだけだった。威圧感のある群れが目前に迫っても、自らに向かって大口を開けた彼らが飛び込んできても。まるで応戦しようとする気さえもないように見えた。
「ちょっと!」
リゼがそれに気がついた時には、既に遅かった。
助けようにも、戦闘時は互いに邪魔しないようにある程度の距離をとっている。少しでも時間があれば、加勢するには十分な距離ではあるが、なにも無抵抗に攻撃されるとはリゼも思っていなかった。
それでも何とか手を伸ばすリゼの前で、無情にも霜雪狼は男の首に噛み付いて、押し倒した。
そして、まるで飢えた獣が屍肉でも貪るかのように、群れは男を囲う。途端に、男の姿は霜雪狼に埋もれて見えなくなっていった。
「うそ……」
「なんでっ!?」
飢えた獣は捕えた獲物を貪り、喰らい尽くす。この群れが離れた後には、骨すらも残っていないだろう。
世界はどこまでいっても弱肉強食だ。それは理解しているが、目の前で同族が食べられる瞬間など見たくはない。
直視することはなくとも、その鋭い牙によって皮が裂かれ、臓物を引き出され、肉を食われる。その想像だけで、吐き気から口を押さえたくなる。
だが、目の前の惨劇に立ち竦む二人の前で、それは起きた。
「――もう、やめ――ん――」
二人は、霜雪狼の山の中から聞こえたその声に刮目する。あれだけの霜雪狼に囲まれておきながら、どうやら男はまだ生きていたらしい。
それも、あまり切羽詰まった声音でもない。
てっきり、もう人間としての原型すら留めていないと思っていたリゼは、寧ろ何故生きているのかという驚きですらあった。
「どうして、あの状態で……?」
そして思い出す。大丈夫だよと笑った男の、不気味なまでに落ち着いた瞳を。
「あはは。久しぶりだからって、これはちょっとやり過ぎだよ」
その声と共に、群がる霜雪狼の山の中から、男が立ち上がった。多少衣服が乱れ一部破けているところはあれど、その姿には怪我のひとつもない。
愕然とするリゼとマリナの前まで歩いてくると、何でもなかったかのようにして言う。
「驚かせてしまったかな、ごめんね。まさか、こんなに戯れ付かれるとは思ってなかったから」
「戯れ、付かれる?」
霜雪狼は歴とした敵性生物である。それも危険度の高い、ユルカル雪原の攻略に於いて重要視するべき獣である。
それを、戯れ付かれるだと? それではまるでペットの犬猫のようではないか。
「すごーい! ねえ、それどうやったの!?」
目の前の事象を処理出来ずに固まるリゼとは異なり、マリナははしゃいだ声を上げた。
そんなマリナを見て、男は足元に纏わりついている霜雪狼を撫でながら言う。
「単純なことだよ」
ごろごろという甘えた鳴き声、ちぎれんばかりに振られた尾、野生を忘れた瞳。呑気に腹を見せてひっくり返り、男の足首を甘噛みしている個体も居る。
完全に飼い犬のそれであった。
有り得ない。敵性生物を手懐けるなど、聞いたこともない。それも、獰猛で群れとして行動する性質から、なるべく戦闘は避けることがセオリーになっている、霜雪狼など。
そこで、リゼは思い当たる。
嘗て散々に迷惑を振りまかれ、しかし第三者からは彼らと同様の存在だと認識されるという苦痛を受けた。加えて、自己中心的で、危険を危険だと認識していないような正真正銘のイカれた連中。
全く、溜め息が出る。
「もしかしなくても、貴方、旧支部メンバーね?」
「旧支部メンバー?」
そんなものは知らないとばかりに、男が首を傾げた。けれど、その反応が正しく旧支部メンバーである事の証である。
探索者ギルド沈花草原支部半壊事件。それ以降の状況を知らないのは、ギルドを利用することができなくなった人間だけだ。
「まあいいわ。それで、この状況は一体どういうこと?」
「あー、うん。そうだね……」
リゼが問い詰めるが、男は困ったような表情を浮かべるだけ。
「ふうん? 説明する気はないってこと」
「だって、それじゃつまらないからね」
分かっていたことだが、これでは話にならない。
「迷惑はかけたみたいだけど、危険にさらした訳ではないし。別に説明する義務もない」
男が悪気もなさそうに言う。
リゼは毛頭納得できないが、未開地域内では総て自己責任。そういう了解がある以上、無理に追求することも出来ない。
結局、もうどうすることも出来ないのだった。
「はあー……」
イカれた連中なのだから、しょうがない、諦めるしかない。リゼはやるせなさと、この男に対しての怒りを込めて、長い溜め息を吐く。
「じゃあ、僕はもう行くよ。先を急いでいるんだ」
そんな人の気も知らずに、男は背を向ける。そして、群れのボスらしき一際大きな霜雪狼に跨ると、群れを引き連れて去っていった。
「全く、これだから関わり合いたくないのよ」
「旧支部メンバーって、全員ああいう感じだったりするの?」
横で話を聞いていたマリナが、走り去る男を見ながら言う。
「そうでもないわよ。ま、あの人が特別って訳でもないけど」
まともな感性をもつ旧支部メンバーだって居る。ただ、一部の人間が悪目立ちしているだけだ。尤も、先程の男程度ならばさして珍しくはないのだが。会話が通じる辺り、寧ろまとも寄りですらある。
「まあ、あんなやつの事なんてもういいわ。拠点に戻るわよ、昼食も作り直さないと」
「そうだね。あー、それにしても、私も霜雪狼に乗ってみたいなー。どうやったら手懐けられるのかな」
「さあね」
リゼとマリナも踵を返し、拠点へと戻っていった。
[第1話:霜雪の霊廟]
幾らかアクシデントはあったものの、それからの旅路は順調に進んでいった。これといった大きな戦闘もないまま、五日後、二人は目的地近辺まで到着した。
ユルカル雪原、その深部に向かうほど、気温は低く、気象は荒くなっていく。ラキノ森林との境に居た時とは異なり、ここは既に極寒の地となっていた。
暗澹たる猛吹雪の中、荷物を乗せたソリを引きながら、ただ雪原を歩く。
天候は大荒れ、視界は数メートル程しか確保出来ていない。吹き付ける風が耳元でうるさく鳴っている。互いをロープで結んでいなければ、すぐにでも見失ってしまうような、そんな真っ白な世界。方角も、時間も、自分たちが歩いている正確な場所すらも不明瞭。
けれど、二人の足取りに迷いはない。
この絶望的な視界の中、目的地へ迷うことなく向かう能力。刻々と変化する風向きを正確に把握し、決まった歩幅と無意識の内に数えている歩数から距離を割り出す。脳内に地図を広げ、常に自分たちの位置を更新していく。
視界に頼らずとも、周囲の状況を把握すること。それは、探索者が過酷な未開地域から生きて戻る為の、必須技能だった。
そして、予め決めていたポイントまで来ると、リゼは立ち止まってマリナへと振り返る。
「ここで最後の休憩にするわ。この後は一気に目的地まで向かう」
「了解」
ファーのついた厚手のコートを身につけ、その下には断熱性の高い服を何重にも着ている。二人はそんな体格も分からないくらいにモコモコとした姿で、シャベルを手に取った。
積もった雪を円形に掘り出し、掘った雪は外周に積み上げていく。風避けも兼ねた、塹壕じみた簡易的な休憩スペースを作る為に。
半刻ほど経過し、ある程度しっかりしたスペースが確保出来たところで、漸く腰を下ろす。
けれど、身体の動きを止めた瞬間から、外気によって体温が失われていく。もしも素肌をさらけ出そうものなら、すぐさま凍傷になることは想像に難くない。
リゼは背負っていたバッグを下ろし、中から赤い丸薬を取り出した。
「ほら、これ食べて」
「うえー、この丸薬不味いからあんまり食べたくないんだよね」
「文句言わないッ! ま、凍死したいなら別に食べなくても良いけど」
そう言って、リゼは丸薬を口に入れて噛み砕いた。口の中に広がる独特な苦味と、鼻腔に抜ける仄かな薬品臭。思わず顔を顰めた。リゼだって、幾ら重宝するからと言っても、出来れば余り食べたくはない。
丸薬の効果は飲み込んでからすぐに現れた。厚着をしていても凍えるほど寒かった体に、徐々に熱が篭もり始める。
未開地域はその領域によって環境の変化が大きい。幾つもの領域を越えるような探索は、最大の気温差が百度を超えることもあり、それだけで人間にとってかなり過酷なものになる。
この丸薬は、そういった場合に用いることで体温を一定に保つ効果があった。
「さて。ここから目的地まで、残り約三キロと言ったところね」
「だいたい一時間くらい?」
「ま、そんなものかしら」
そして、マリナは目的地のある方角へと視線を向ける。けれどそこには、ただ雪に埋もれた灰色の景色が壁の如く聳え立っていた。それはまるで、二人を先へと行かせたくないかのようだ。
それから、以降のタイムスケジュールや地図を使用した進行状況の確認など、他にも幾つかの懸念事項を含めて、軽いブリーフィングを行う。
「この酷いブリザードも、もう直ぐ抜ける予定だから、辛いのはそこまでね」
「よーし、じゃ後もう少し。頑張ろ!」
「ええ」
確認事項を周知した後、二人はフードを深く被り直して立ち上がった。
そして、灰色の壁の中へと歩き出す。
吹雪は先程よりも一層強くなり、視界も更に悪くなっていた。たった一メートル先も見えず、最早、自分の足元すら霞むような程に。
耳元で轟々と、唯、風の音が鳴っている。他の音は何も、聞こえない。
例え、互いの体と荷物を乗せたソリがロープで繋がれているとして。本当にこのロープの先が繋がっているのか、不安になる。そして、一度そう考えてしまえば、瞬く間に酷い孤独感が押し寄せて来た。
マリナは、前方に繋がれているロープを掴むと、二度、引いた。それは視界の不能なこのブリザードの中に於いて、互いの無事を確認する合図だった。続いて、リゼからも二度、ロープが引かれる。
それだけ。たったそれだけに、命がかかっていた。例えこの場所で何か非常事態が起ころうと、助ける方法はない。もし反応がなくなれば、それはもう、既に死んでいると判断するしかない。無理に救助するくらいなら、反応がないことを確認した上でロープを切断し、帰還する。無理に助けることはしない。
相手に異変があれば、救助せず切り捨てること。それは、二人がこのユルカル雪原へ探索に行くとなった時、一番始めに決められたルールだった。
そうして、また、黙々と歩き進める。
リゼの言う通り、凡そ一時間が経ったころ。ふと、マリナは気付く。あれほど煩かった風の音が随分と小さくなったこと、加えて、吹雪で霞んでいた筈の足元がはっきりと見えていることに。
マリナはすぐさま顔を上げた。
「――――えっ?」
そこには、しん――――と静まり返った白銀の世界。ただ、月光の輝きを受け妖しく光る、美しい雪原が広がっていた。先程までの猛吹雪が嘘だったかのように、空気も透き通っている。
突き刺さるような寒さも幾分か落ち着いており、マリナはフードを上げて辺りを見回す。
雪原に、いつの間にか夜の帳が下りていた。見上げれば、一面に広がる藍の空。
「漸く気がついたみたいね」
前を向き直せば、リゼが苦笑しながらこちらへ振り返っていた。
「吹雪を抜けてからもう十分は経ってるのに、なんにも反応がないんだもの。ちょっと心配したわ」
「……全然気が付かなかった」
でしょうね。リゼがそう言って一呼吸空けると、雪原の先へと指を向けた。
「ほら、あそこ。見えるでしょう?」
その指が指す場所へ、目を向ける。
すると、遠くにある、なにやら建造物らしき柱のような物が見えた。細長い円錐形のそれは天に向かって垂直に聳え立ち、その天辺から上空へと青白い光が放たれている。よく見れば、その光はゆるゆると何かを放出するように動いており、上に伸びた青白い光は夜空の天蓋に当たって四方へと広がっていく。そして、雪原の彼方方方へ落ちていく。
まるで、何条もの彗星の如く。それは無数の星が降り注ぐ、眩い夜の中に居るようで。
「……」
マリナは、呼吸も忘れて天を仰いだ。
知っていた、この景色があることを。そう、ユルカル雪原にどういうものがあるのかは、知っていた。知識はあった。資料を読んで得た知識ではあるが、それだけでも心が踊り、期待で胸が一杯になる程だった。だが、所詮は文字を読み、絵を見ただけでしかない。
これは、この感動は、易々と言葉にできるものではない。眼前に広がるこの景色と比べて、あの本に書かれていた表現の、なんと貧弱で矮小なことか。
マリナの頬に、涙が流れる。それは顎先から離れた途端に凍り始め、小さな結晶となって雪の上に転がった。
「これが、これが未開地域。これがその浅層、ユルカル雪原の奥地」
マリナは、夜空を流れる光に手を伸ばした。
この景色に、言葉にならない幻想と出会う為に。ただその為だけに、探索者は命を賭ける。
この場に来て思う、それは当然のことなのだと。この風景は、命を賭す、それだけの価値がある。絶対に。例え行けば死ぬと分かっていたとしても、ここへ来る。そして、必ずこう思うのだ。――――もっと知りたい、見たい。未知なる出会いを、景色を、感動を、手に入れたいと。
そう、それは欲だ。たった一つ、譲ることの出来ない業と言うべきもの。危険を、無謀を犯し、命すら投げ打って。それでも求めるものがある。それが、それこそが探索者の存在意義。探索者たちが求める総ては、その欲望へと帰結する。
マリナは探索者として誓う。
いつか、いつか必ず。あの夜天に流れる光さえ、手に入れてみせると。
「マリナ……マリナ!」
リゼの呼ぶ声で、漸くマリナは我に返った。
それを見て、リゼは半ば呆れたような、乃至、仕様がないと諦めたような、そんな表情で溜息をついた。
「感動してるところ悪いけど、まだ目的地には着いていないから」
そう。遠くに見える円錐型の建造物、目的地は彼処だ。
「あれが、霜雪狼の故郷」
「そう。総ての霜雪狼の母が眠る場所、霜雪の霊廟」
遠目でも判る、荘厳たる佇まい。
そこには、王獣と呼ばれる強力な個体が眠っている。
「さて。じゃ、行くわよ」
この環境が激変する未開地域という場所に於いて、周囲環境の一切を変化させることで、自らの支配領域を作り出す存在が確認されている。環境そのものが、たった一匹の個体によって統べられているという様態。それを行うことの出来る強力な個体、大抵がある種族の支配者たる個体だが、それを王獣と呼ぶ。
このユルカル雪原も自然に形成された環境ではなく、霜雪狼の母と呼ばれる王獣の支配領域である。故に、仮にその王獣が住処を移動することがあれば、この雪原という環境そのものごと移動することになる。
尤も、霜雪狼の母が住処を変えることはないと考えられているが。
霊廟に近づくにつれて、まるで感情すら凍るような、それでいて清く澄み渡るような。
けれど、この冷たさはどこか心地よく、何故か心を酷く落ち着かせた。多くの生物にとって、生き延びるにはあまりにも厳しい凍てついた大地。その中心にしては異様な程に、気持ちが安らぐ。
霊廟と呼ばれる塔のようなものは、当然人工物ではない。それは一見、水晶にも見える程に透き通る、美しい氷で形作られていた。
マリナは、霊廟の美しい氷の壁に手をついて、内側をじっと見つめていた。月光を湛えて薄い青紫色に反射する氷晶たち、その艶やかな光景に見蕩れていた。
「気をつけなさい、あんまり触れ続けると手袋の上からでも凍傷になるわよ」
「うん……」
そう言われて、漸くマリナは氷の壁から手を離した。そして二人は外壁に沿って幾らか歩き、亀裂のように見える入口から、霊廟の中へと入っていった。
「これが、全部ただの氷で出来てるなんて」
霊廟の中は綺麗な多角形の氷柱が並び、それらもまた、外から差す光で輝いていた。ここはまるで、巨大な晶洞のようだ。ただの、と言うには、それは些か――。
宝石のようなそれらを眺めつつ、二人は、霊廟の奥へ奥へと進んでいく。
すると、突然大きな空間に出た。円形に空いた部屋らしき場所、その中心に、一際美しい氷晶が鎮座していた。そして、そこから、外にいる時に見えた青白い光が上方へと放たれていた。
「あれが、いえ彼女が霜雪狼の母、白嵐」
「白嵐……」
今現在、四体確認されている王獣の内の一体。纏う冷気によって、周辺環境を雪原へと塗り替える力を持っている個体。総ての霜雪狼の生みの親、白嵐。
彼女は、部屋の中心にある氷晶、その内側で前足の上に頭を乗せてくるまった体勢のまま、氷漬けにされていた。まるで、一種の芸術品のように。
二人は、ゆっくりとその氷晶に近付いていく。
氷晶の内側に閉じ込められた彼女は、普通の個体よりも一回り程度小柄であり、加えて尾が長い。そして、霜雪狼は元々雪のように美しい銀白色の毛皮を持つが、それらと比較しても一層白く、白く、そして艶かしい。
氷漬けにされており、故に微動だにせず、死んでいるのかとも思ってしまう。
だが、生きている。彼女は生きている。このユルカル雪原という環境が存在しているということが、何よりの証明だ。
リゼとマリナ、二人の目的は彼女にあった。
王獣の中で唯一積極的な敵性ではない彼女は、ペットの様とまではいかないにしても、最低限のコミュニケーションをとることができる、とされている。普段は今のように氷の結晶の中で眠っているが、時折起き出しては周囲を徘徊しているらしい。前にリゼが霜雪の霊廟へ来た時も眠っていたので、まだ動いているところは見たことがない。
そして、白嵐は、忠誠を示した相手にその証明として印を与えることが出来る。
白嵐の印。俗に白雪紋と呼ばれるそれは、ユルカル雪原を最奥まで踏破したという証明であり、探索者として一定の実力を表すものになる。
だがそんなもの、実力を誇示するというものなど、本来、探索者にとってはなんの意味も成さない。
だからこれは、唯の自己満足だ。興味と好奇心に突き動かされた、たったそれだけ、子供じみた感情故の。
氷晶の中で眠る白嵐に近付いた二人は、その前で跪くと、腰のベルトからナイフを取り出す。そして、手のひらを薄く切ると、白嵐の前に血を垂らした。その格好は、玉座を前にした騎士の様に。それはまるで、偉大なる神に対する、儀式のようで。
否、正にそれは霜雪の王たる白嵐に忠誠を誓う、儀式そのものだった。
二人は跪いたままゆっくりと手を差し出し、流れる血を捧げた。
手のひらから落ちた血は、地面に着くと次第に凍り始めた。ゆっくりと滴り続ける血は、地面に赤い薄氷を作りながら白嵐へと向かって広がっていく。
そして、白嵐が眠る氷晶へ、繋がった。
――――瞬間、手のひらに走る激痛。
「ッ!!」
「あぐッ!」
氷晶へと触れた血は白嵐の力を受けて結晶化し、広がった赤い薄氷が剣山のように一斉にささくれ立つ。それは流れ出た血を逆流し、手のひらを貫いていた。
「ぐ、ああッ!」
白嵐の力が、貫かれた手のひらから体内へと侵食していく。それは腕に流れていた血液を一瞬にして凍らせ、血管を破裂させた。そして、流れ込む力が雪の結晶のような模様を描いて広がっていく。
それはまるで、植物が成長し雪結晶の花を咲かせるように。
――――ピシッ――――ピシリ。
「――――!!」
「あ”あ”っ!!」
腕の内部に棘が刺さり、それが暴れているような壮絶な痛み。呼吸すらままならず、肺の空気を絞り出して、ただ嘔吐くような声を出すことしか出来ない。
ゆっくりと、しかし確実に、白嵐の力は肉体を作り替えていく。そして、肘辺りまで紋様が広がって、漸く侵食が治まった。
「ふッ……」
「はあ……はあ、ああ……」
痛みに耐えていた二人は、息も絶え絶えに、流れ出た脂汗を拭う。そして、手を貫いた棘を、ゆっくりと抜き取っていく。そして、震える手で凍って血の滴ることの無い傷口に包帯を巻く。
「これが、白雪紋」
マリナは、自らの腕に刻まれた白嵐への忠誠の証、白雪紋を見る。手の甲から肘の辺りまでに伸びる、赤黒い、雪結晶の紋様。未だ痛むそれを優しく撫でると、ほんの少しだけ、冷えるような感覚が返ってきた。
「少し、冷たいでしょ。それが白雪紋の力よ。今は赤黒い紋様も、いずれは黒に近い青色へ変わる。その頃には白嵐の力が定着してるはず。ま、その恩恵は微々たるものだけど」
白雪紋を刻まれた者は、少しだけ寒さに耐性を得る。そして、霜雪狼から狙われることが減る。敵対関係が解消される訳ではないので、気をつける必要はある。だが、白雪紋が有ればユルカル雪原の探索は格段に楽になる。加えて、これはあまり気にならない部分だが、若干、体温が低くなる。
「さて、これで目的は達成ね。ここまで来るのに相当苦労したけれど、帰りはもう少しマシになると思うわ」
マリナは今回が初めての探索だった。だから、行きは全くの無経験状態から始まっている。それと比較すれば、多少なりとも経験を積んだ今ならば、もう少し楽になるだろう。
「白雪紋もあることだし、ユルカル雪原はもっと楽に抜けられると良いけど」
「行きは忙しかったから、帰りは景色を見て、ゆっくり帰りたいなあ」
「ま、予定に遅れない程度でゆっくり行きましょうか」
そうして、二人は白嵐に背を向けて霜雪の霊廟を後にする。ゆっくりと、氷の床を踏みしめて。天井から降り注ぐ、氷晶が散乱する美しい月光を浴びて。
二人は口数少ないままに出口を抜け、外へ出た。来た時と変わらない、美しい景色。ユルカル雪原の猛吹雪の中、この霊廟の周辺だけが、風もない異様な静けさに覆われている。
マリナは振り返ると、霜雪の霊廟と、その上部から流れる光を仰ぎ見る。
「またね」
そう呟くと、先を歩くリゼを追いかけるように、真白な吹雪の中へと消えていった。
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