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二十年目の恋文

作者: 桃園沙里

 若草萌える平城京ならのみやこ、戸を開け放した部屋にここちよい緑の風が吹き込んでくる。

「あら、ほととぎすの声」

 女がそう思って外を見た時だった。

「母上、聞いておられますか」

 女の意識が目の前の娘に戻った。

「ええ、なんだったかしら」

「ですから、父上の詠んだ歌が大伴家持おおとものやかもち殿の家集にあるそうです」

 そう告げるのは、今は亡き夫、藤原広嗣ふじわらのひろつぐとの娘、正子だった。

 宮仕えをしている娘は、宮廷から退出したそのしなやかな絹の朝服のままで現れた。世間では父親に似て美しいと評判らしいが、女はとうに広嗣の顔を忘れてしまった。

「広嗣殿の歌が? どうしてまた……。私はもう、広嗣殿からいただいたものは何ひとつ持っていないのに」

「なんでも家持殿が古今東西の優れた歌を集めて家集を作られたそうで、その中に」

「そう、広嗣殿の名を口にするのはどれくらいぶりでしょう。私が広嗣殿の妻となったのは」

 娘は、長くなりそうな母の思い出話を黄葉色の長い袖を振って遮った。

「詳しいことはわかりませんが、今度、叔父上が写しを下さると。いずれ母上にも連絡が来ると思います」


「藤原広嗣の妻」

 女はそう呼ばれていた。

 藤原広嗣の正妻となったその日から、広嗣が謀反人として処刑された後も今日までずっと「藤原広嗣の妻」であった。女の身体は、小さい爪の先から、流れる黒髪の一本一本まで「藤原広嗣の妻」で構成されていた。「藤原広嗣の妻」であることが女の矜持であり、今日まで女を生き長らえさせてきたのである。


「おひい様は、どのようなお方とご結婚なさるのでしょうね」

 今から二十余年前、十五歳になったばかりの女の髪を、年配の小間使いがとかしながら言った。

「親王、王、それとも」

 隣で幼い妹が無邪気に言う。

「私の身分では親王の妃になどなれないわ」

「ならば貴族の御曹司、藤家の若様」

 妹の若い小間使いも会話に加わる。

「皆の噂では」

 年配の小間使いは言う。

「今、京で最も人気があるのは、北家の次男、仲麻呂殿か、式家の嫡男、広嗣殿。おふたりとも抜きん出て見目麗しいお方。学問にも武芸にも秀で、いずれは右大臣間違いなしと言われているそうですよ」

「そうね、私もそういう方をお義兄様と呼びたいわ」と妹。

「そのような人気のある方の妻になったら、他にも何人も妾を作るのでしょう。苦労が絶えないわ」

「仲麻呂殿の妻になれるのでしたら、私でしたら少々の苦労は構いません」

 若い小間使いが笑う。

「でも、仲麻呂殿は既に正妻がいらっしゃる」

 と年配の小間使い。

「仲麻呂殿の妾になるのと、他の氏族のお方の正妻になるのとどちらがいいでしょうね」

「どちらがいいの? 」

 妹が聞く。

「正妻の子と妾の子では、財産の分け前がずいぶん違いますでしょ。やはり正妻のほうが有利ですわ」

「でも」

 若い小間使いが口を挟む。

「藤家ならば妾でも、中途半端な家の正妻より多くの財産をいただけるのではないかしら」

「財産、財産って、二人共いじましいこと。そのようなことより、お人柄。私や子を大切にしてくれることが重要じゃなくて? 」

「もちろんですとも。ええ、ええ、お人柄が一番」

「私は、お人柄が良くて、財産を持っていて、見目麗しい方がいいわ」

 妹が明るく言った。

「まあ、欲張りさん」

 皆で笑った。


 聖武天皇の御世、貴族豪族は挙って、天皇や上級貴族に娘を嫁がせようと考えていた。彼らが出世し氏族が繁栄する最も手っ取り早い方法は、高貴な家柄の子息と縁続きになることだった。

 平城京で最も栄えている藤原氏も、そうして権力を得てきたのだ。聖武天皇の母君も皇后もまた藤原氏の出身であった。

 今から二十余年前、女が少女だった当時、政権の中心にいたのは、今は亡き太政大臣(追贈)藤原不比等ふじわらのふひとの四人の息子たちであった。不比等亡き後、息子たち四人全員が参議(現代の内閣のようなもの)になり、政権の中枢を独占していた。

 世間では不比等の息子たちをそれぞれ、長男の武智麻呂むちまろの家をその邸が宮殿の南にあったことから「藤原南家」、次男の房前ふささきの家はそのすぐ北にあったから「藤原北家」、三男宇合うまかいは式部卿だったから「藤原式家」、京職大夫だった四男の麻呂まろを「藤原京家」と呼んでいた。

 藤原四家と縁続きになれば、良い官職に就け、出世も早い。娘を持つ父親たちは、藤原四家の中でも特に有望な男子を見極め、娘を嫁がせたいと願っていたのである。

 中流貴族の家に生まれたその女もまた、成長すればどこかの貴族の子弟と結婚するだろうと、幼い頃から周囲の者たちに言われてきた。


 そんな女が十七歳の夏の終わり、父親が言った。

「そなたの結婚相手が決まった」

 女は何も思わなかった。貴族の娘として生まれた以上、結婚相手を親が決めるのは当然のことである。相手はどこかの貴族の息子だろう。

「せめて不男でなければよいのだけれど」

「聞いて驚くな、そなたの結婚相手は」

 父親は勿体ぶった。

「なんと藤原氏、式家の嫡男、広嗣殿だ」

「え? 」

 女は、今までに感じたことのないほどの胸の高鳴りを覚えた。

「式家の、広嗣殿って、あの、広嗣殿? 」

「そうだ、藤原式家の嫡男で、藤原家の中でも特に才に秀れていると評判の広嗣殿だ」

 私があの広嗣殿の妻。京中の女たちが妻になりたいと望む広嗣殿の妻になれるなんて。なんという幸運でしょう。ああ、これは夢でしょうか。

 女は眩暈がした。

「嫌なのか? 嫌なはずあるまい。あの、式家の御曹司だ。来春、広嗣殿は二十一歳になられる。その前に訪ねてこられよう。今から心しておくのだぞ」


 藤原広嗣は、藤原不比等の三男藤原宇合を父に、左大臣の石上麻呂いそのかみのまろの娘を母に持つ、藤原式家の嫡男だった。

 他の藤原一族の子がそうであるように、幼い頃から英才教育を受け育った広嗣は、父譲りの頭脳と母譲りの気品ある顔立ち、武芸にも秀で、快活な性格は皆に愛されていた。

 広嗣は、来年正月に二十一歳になる。貴族の子弟は二十一歳になると一斉に位階を与えられる。その機に結婚する貴族の子息は少なくない。広嗣殿もそれに倣ったと思われた。


 結婚の話が決まると、さっそく広嗣から女の元に文が届いた。

 白菊の蕾に結んだ文には

「まだ見ぬ妻との結婚が待ちきれない」といった意味の歌が書かれていた。

「ええ、ええ、私も」

 女は文を胸に抱き締めて呟いた。

 それを見た家庭教師は眉を顰めて諌めた。

「そのような正直なお気持ちを書いてはなりませんよ。教養のない下品な女だと、足元を見られ侮られます」

 家庭教師の彼女は、女に貴族女性としての礼儀作法や教養を教える役目である。

「ええ、わかっています。そのようなことは承知していますとも」

 初めての文に「嬉しい」とか「私も好きです」とか、好意的な返事、相手を受け入れる返事をしてはならない。相手を焦らせ、気持ちを昂らせるような歌を返すのが貴族女性の嗜みなのだ。

「お手本の歌を詠んでちょうだい」

 女は家庭教師に明るく言った。

「だって私は歌が苦手なんですもの。字も、貴女が書いたほうが美しいと思うわ」

「おひい様は、ご結婚の日までにもっときちんと勉強しなければなりません。これからも広嗣殿に歌を贈りましょう? 広嗣殿の妻として、歌を作れるようになり、筆の練習もいたさねば」

 女はニコッと微笑んで言った。

「その時はまたよろしく頼むわ」

 そうして女は家庭教師が書いた歌を広嗣に返した。


 何度か同じような文のやり取りをした後、いよいよ広嗣が訪ねくる夜となった。

 その夜、女はいつもより時間をかけて髪の手入れをし、肌が透けるような薄い絹の夜着に上着を纏った。風の音にも飛び跳ねるほど緊張し、部屋で夫となる男を待った。

 やがて縁側からひそひそ声がしたと思うと、薄暗い部屋の几帳を開け、人影が入ってた。

 人影は、すっと動くと滑らかに女の背に手を回し、顔を近づけた。

 女は驚いて仄かな明かりに照らされるその顔を見つめた。普段はこのように男性の顔を間近で見ることはない。

「整った眉、切長の目、まっすぐな鼻に凛々しい口元。ああ、なんと美しい男子。父とも兄弟とも下男たちとは同じ人間とは思えぬほど、今までに見た男子の中で最も秀でて美しい。いいえ、この先もこの方より美しい男子を見ることはあるまい」

 広嗣の放つ光輝で、女は目が眩む思いがした。

「私がこの方の妻。ああ、無上の幸福」

 広嗣に抱き寄せられながら、女はいつか妹たちと話したことを思い出した。人気のある方の妻になったら苦労が絶えない、と。

「そんなことはもう今はどうだってかまわない。この方の妻になれるのなら」

 広嗣は甘く蒼い果実の匂いがした。


 女は突然、辺りに広嗣の匂いを感じた気がして心が騒いだ。

「そんな時は経を」

 女は経文を棚から出した。あの時からずっと、心が乱れた時はただひたすら経を唱えた。その経文は、広嗣の供養にと誰かが譲ってくれたものである。経を唱えている時だけは、何も考えずに済む。ただ何も考えずに唱えていると、つらいことも全てを忘れられるのだ。


「お姉様、お聞きになりました」

 突然、ずかずかと部屋の奥に上がり込んできたのは、実妹だった。

「まあ、何かしら、貴女まで、騒がしいこと」

 妹は宮仕えをしている。正子と同様、仕事帰りにそのまま家に立ち寄ったのだろう。

「あら、また経を唱えてらっしゃる。若い頃はあれほどお裁縫をしていらしたのに、もうずいぶんと針を持つのを見たことがないわ。そんなに好きなら出家なさったらよろしいのに」

 妹は、手机に広げてある経文をちらと見た。

「だって縫い物しようにも布がないのですもの。そんなことを言いにきたの」

「あ、そうだ、いえ、先ほど宮で正子さんとばったり会ったの。そしたら」

「広嗣殿の歌がどうとかって話でしょ」

「まあ、知ってらしたの」

「今、知らせに来たのよ」

「久しぶりに聞いたわ。お姉様から広嗣殿の名を聞くの」

「私も久しぶりに口にしたわ」

「思い出すわ。お姉様が広嗣殿の正妻になって有頂天になっていた日。将来は右大臣かと期待される、式家の嫡男藤原広嗣殿。京中の女が憧れる広嗣殿と、まさかお姉様が結婚するなんて」

「遠い昔のことね。もうずっと忘れていた」

 女は先ほどまでに浸っていた感傷を忘れていた。

「それから広嗣殿が処刑された知らせが届いた日」

 女は眉を顰めた。

「そんな顔をしないで。あの日のことは、お姉様だけでなく私の運命も変えてしまったのですもの。夫に依存して生きる妻が、どんなに惨めなことか。お姉様の姿を見て、私は夫がいなくても生きていけるように、宮仕えを始めたのだから」

「それは知らなかったわ」

「今初めて言ったもの。ええ、お姉さまが結婚して家を出て行った後、あの流行病でお兄様が没して、もしお父様までどうにかしたら私はどうなるのかと不安でいっぱいでしたもの。お姉様は広嗣殿が式家を継がれて安心でしたでしょうけれど」

「そんなふうに言うの? 流行病で広嗣殿のお父上も亡くなられたのよ」

「でも、そのおかげで式家を継いだ広嗣殿は一気に出世なさってよ。驚いたわ、大養徳守やまとのかみ(現在の東京都知事相当)になられた時は。皆がお姉様は運がいいと噂していた。結婚してわずか四年で大養徳守の正妻、そのような身分になるなんて」

「そんなこともあったわね」

「すぐに太宰府に左遷されたけれど」

「今日の貴女は意地悪ね」

「なんだかね。何も努力もしないで広嗣殿の正妻になり、広嗣殿が亡くなった後も実家に戻って何の生活の心配もなく、のほほんと暮らしているお姉様に、イライラしてただけ」

「広嗣殿との結婚はお父様が決めたことよ。それよりも、夫を謀反人として処刑され、財産を全て没収され、実家に戻るしかなかった私を可哀想とは思わないの」

「本当に可哀想。頂点から一気に谷に落とされたお姉様。でも没収されたのは広嗣殿の財産でお姉様の財産はそのままでしたでしょ。こちらの家に戻ってからも、お父様がお姉様の生活の面倒を見ていらしたし、藤原家からも子の養育をしていただいたじゃない。お姉様は何もしていない」

「貴女は、謀反人の夫を持ったことがないからそんなことが言えるんだわ」

「ええ、そうね。本当、お姉様は可哀想」

「意地悪を言うなら帰ってちょうだい」

「違うの。そうじゃないの。思い出したのだけれど、あの時、広嗣殿は嵌められたのだとお父様が言ってらしたこと」

「嵌められた? 」

「私たちが聞いた話では、広嗣殿が太宰府で兵を招集し、帝を滅ぼそうとしているから、謀反人として処罰された、ということでしたでしょ」

「そうだった。そんな感じだったかしら」

「その時に、こっそりお父様が言ってらしたの。広嗣殿は彼の方たちに陥れられたのだって」

「ううん、よくわからないわ。彼の方たちって」

 妹は声を顰めた。

「前左大臣橘公と吉備朝臣よ」


 女が広嗣と結婚して間もなく、国中で疫病が流行り多くの人民が死んだ。

 平城京の貴族たちも例外ではない。広嗣の父、藤原宇合ら、藤原四兄弟が次々と病に倒れ、政治の中枢にいた多くの貴族が没した。

 流行病が治まるまでに、京では官人の三分の一に近い数がいなくなり、世の中は混乱した。農村では働き手が減り、荒れ地も増え、石高が減少し税収も激減し、人民は貧困に喘いだ。

 藤原四兄弟に代わって政権を担ったのは右大臣に任命された橘諸兄たちばなの もろえ(後に左大臣)だったのだが、国内の貧困や混乱に対して有効な策を打ち出せず、人民はますます飢えていった。以前は、権力を独占する藤原氏に対し反発する豪族も多かったが、藤原氏の時代のほうがマシだったと言いだす者も出てくる始末である。更に、諸兄の偏った人事なども重なり、政権に対する不満が次第に溜まってきた。

 そんな中、広嗣は「世の混乱の元は、右大臣の政治顧問となっている下道真備しもつみちのまきび(吉備真備のこと)と玄昉げんぼうが、私利私欲から帝を惑わして政治を動かそうとしているからである」と主張し、真備と玄昉の追放を要求する上奏をした。皇后や大后が玄昉に籠絡され、玄昉によって悪い方向へ導かれている、とも言った。

 広嗣の上奏は、表向きは真備と玄昉への批判であるが、右大臣橘諸兄の政治手腕に対する批判でもある。自分より上位の右大臣という立場の諸兄を批判することはできないため、すりかえたのだ。

 その直後、それまで出世街道まっしぐらだった広嗣が、大養徳守を解任され京から遠い太宰府に赴任させられた。広嗣の上奏が右大臣の癇に障っての左遷に他ならないと噂された。


「彼の方たちは以前からずっと藤原家に私怨を抱いていたのよ。藤原家の一族に冷遇されていたのを恨んでいたの」

「ええ、確かに広嗣殿はよくあの方たちの悪口を言っていたわ。唐から帰国した何とか言う僧侶のことも。でも皆さん、そうでしたでしょ」

「ええ、そう、他の貴族の方々もそうでした。でも誰も上奏するようなことはなさらなかった。帝に悪口を言いつけたのは広嗣殿だけ。吉備朝臣が広嗣殿に対して私怨を抱いていなかったわけがないでしょう。橘公にしても、一族の力を削ぐ絶好の機会と思っていたに違いないわ。だから、広嗣殿の上奏を、謀反という大逆にすり替えてしまったのだとか」

「そんな」


 広嗣が左遷された当時は、本人も周囲の人間もすぐに京へ戻れると思っていた。しかし、太宰府に留め置かれたまま、一向に状況が変わらなかった。業を煮やした広嗣は、再び帝へ上奏し、太宰府で兵を招集してみせたのだ。

 広嗣からしたら、上奏をまともに取り合ってもらえないのなら、このまま京へ上って真備と玄昉を取り除く覚悟があるという、半ば脅しだったのだろう。藤原式家の、皇后の甥っ子である自分なら、上奏を聞き入れてもらえるはずだという思い上がりと甘さがあったのは否めない。


「京の貴族たちの間でも、広嗣殿を好意的に捉えている方は多かったわ。だから彼の方たちは広嗣殿の人気を利用したのよ。広嗣殿には大きな影響力がある、広嗣殿の言葉に多くの人間が呼応したら大変なことになる、危険人物だ、と帝に大仰に言ったのだろうって。広嗣殿は、自らを陥れる機会を与えてしまったのよ」

「ええ? 」

「あんな大軍隊を送り出すなど、普通ならあり得ない、とお父様が言ってらした。広嗣殿は兵を招集したけれど、京へ上るつもりはなかった。だって、本当に謀反を起こすつもりなら、帝の軍隊が来る前に京に上っていたはず。自分にはこれだけの兵を集められる、だから上奏を聞き入れてもらいたい、ということよ。普通ならそこで帝が、兵を解散せよ、と命令を出して、それでも解散しなければ討伐、ということになるはずが、彼の方たちによって一大事に仕立て上げられたの。広嗣殿も、まさか藤原式家のご自分に、討伐の軍隊が差し向けられるとは思っていなかったでしょう」

「でも、帝は広嗣殿を謀反人だと言ったのだし」

「ううん、だってあの後、あの僧侶は京から追放され地方の寺でおかしな死に方をして、吉備朝臣だって太宰府に左遷されたじゃない。結局、広嗣殿が正しかったということを、帝は気づかれたのだわ」

「どうして、そんなこと今さら言うの? もうどうだっていいじゃない。広嗣殿はもういないし、帝も橘公も」

「そうやって面倒なことから目を逸らすのがお姉様の悪い癖ね。もし私が広嗣殿の妻だったら、あの処罰は正当ではなかった、と申し立てる」

「貴女は強いわね。私は今の生活をするのに精一杯だもの。余計なことをして、生活を壊したくないのよ」

 妹は、女の手机にある経文を横目で見て、ふふんと鼻で笑った。

「そうね。お姉さまらしいわ」


 妹が帰った後、女は思った。

「そうだ、なぜあの時出家しなかったのだろう」

 広嗣が謀反人として処刑された時、女は選択せねばならなかった。

 子を藤原氏に渡して藤原氏と縁を切り、一切忘れて再婚するか、実家でこのまま子を育て、成長した子が貴族となって養ってくれるのを期待するか。はたまた勉強をして宮仕えをして自活するか。

「誰と再婚すると言うのだ。謀反人の妻だった女と、誰が結婚してくれる」

 父親は無慈悲に言う。

「これまで何を言われても勉強をしてこなかったお姉さまが、宮仕えができると思うの」

 そう言ったのは実妹だった。

「生まれてこの方、何もかも家の者にしてもらっていたのに、ええ、わかっていますとも。ただお父様の言う通りに広嗣殿と結婚して、あんなことになったのよ。一体、私の何が悪いと言うの」

 女はそう反論した。


 結局、女は何の決断もしないまま父親の邸で生活し続けた。やがて父親が死に、妹が婿を取っても、女は生活を変えようとしなかった。娘が成長し宮仕えをして京内に家を与えられても、今日まで実家に居座っている。

「皆、謀反人の妻、と呼ばれたことがないから、好き勝手にあれこれ言うのだわ。ええ、そうよ。皆、式家の嫡男を夫に持ったこともなければ、謀反人の妻になったこともない。そんな人たちに何がわかるの。私の知らないところで広嗣殿は首を刎ねられ、夫の死に顔を見ることも叶わなかった。毎日、身も世もなく嘆いたのよ」

「周囲の女たちは皆、嘲りの目で私を見た。面と向かって、いい気味だと嘲笑する女もいた。広嗣殿が生きている時は妬み、死んでからは嘲り。私がどんな悪いことをしたと言うの」

 女は、経文を持つ手をブルブルと振るわせた。


 数日後、女は広嗣の実弟、藤原宿奈麻呂ふじわらのすくなまろ(後の良継)の別荘にいた。

「今日は庭の花を楽しみつつ、兄、広嗣の思い出話をしたいと思ってな」

 式家の嫡男であった兄の広嗣が逆臣として死んで以来、長い間不遇の時期を過ごしていた宿奈麻呂も、ようやく別荘の庭を花木で飾る余裕ができた。

 鮮やかな新緑の庭に面する部屋に設けられた席には、広嗣と縁のあった貴族たちが集っている。夏の近い庭から、花橘の爽やかな香りを含んだ緑風がほのかに漂う。

「今まで広嗣殿のことなど何も思い出しもしなかった宿奈麻呂殿が、突然にどうして」

 そう言って茶化すのは、広嗣、宿奈麻呂兄弟の亡き父の妾であった久米若女くめのわかめであった。久米若女の息子、藤原雄田麻呂ふじわらのおだまろ(後の百川)は宿奈麻呂の腹違いの弟である。

「いや何、先月、大伴家持殿が因幡から文をよこしてな。そのついでに、家持が凝っている家集作りの作業中に広嗣の詠んだ歌を見つけたからと、写しを一緒に送ってきた」

「兄上の歌が? それはまた稀代な」

 そう言うのは、雄田麻呂。広嗣が死んだ時、まだ九歳だった。

「家持殿は、長い地方住まいの間、自分で歌を詠むだけに飽き足らず、古今東西の歌などを集めていたのだそうですよ。何しろあちらは京と違って遊びが少ない、退屈凌ぎで集めた歌をまとめて家集を作ったのだとか」

 家持と親しい石上宅嗣いそのかみのやかつぐが説明する。

「ほお、それは興味深い」

「そう、その中に広嗣殿の歌があったそうな。写しをひとつ送ってくれたので、皆で見ようと」

 宿奈麻呂が言う。

「なんと。兄上の物はあの時、全て無くなってしまったと思っていましたわ。邸も財産も奴婢も何から何まで全部没収されてしまいましたでしょ」

 広嗣の妹、藤原家子ふじわらのやかこが驚いて言った。

「ええ、邸を兵が取り囲んで、それは恐ろしかった」

「家持殿も驚いたそうだ。一体どのような経緯だったか覚えがないのだけど、昔よく、歌の代書をしている人から下書きの歌を譲ってもらったりしていたから、きっとその中にあったのだろうと」

「あらまあ、私はもう、広嗣殿からいただいた物は何も持っていないというのに」

 広嗣の妻が他人事のように言った。

「今も広嗣殿を覚えていてくれる方がおられるとは、ありがたいことですわ」

 と久米若女。

「広嗣殿の話をするのは、吉備朝臣が松浦の宮で広嗣殿の霊を祀って以来だ。あれはどのくらい前になるだろう」

「奥方は松浦には行かれたことがありまして? 」

「いいえ、遠くてとても」

 女は首を振った。

「そうね、遠いですものね」

「俺も松浦には行ったことがない。こっちはそれどころじゃなかった。家をどうするかで手一杯だったからな」

「式家は大変でした」

「思い出しますわ、式家の邸がまだ大路に門を構えていた頃、京の大路を闊歩する広嗣殿が姿」

「何しろ広嗣殿は麗しかった」

 そう言うのは広嗣より数歳年下だった藤原魚名ふじわらのうおな。魚名は広嗣の妹、家子を妻にしている。

「濃き緑の長い上着の裾を捌いて、宮殿の廊下を颯爽と歩く広嗣殿は、本当に凛々しかった。私が同じように裾を長くしても様にならなかったな。広嗣殿だからこそ似合っていた」

「そう、広嗣はいつも格好つけていた。母上譲りの容姿の麗しさが、何を着ても優雅に見える。同じ兄弟なのに、どうしてこう違うのか、正直言って羨ましかったよ」

 宿奈麻呂は広嗣と同じ両親から生まれていた。

「宮中でも注目の的でしたわね。広嗣殿が現れると、まるで光の道ができたみたいで。妾になりたいと言っている女性は何人もいましたもの」

「真っ直ぐな鼻と薄い唇が、それはまたそそられると評判で」

「大養徳守に抜擢された時には、さすが広嗣殿、将来は右大臣間違いなしと言われていましたわ」

 女たちが口々に褒め称える。

「あの時が頂点だったけれどな」

 宿奈麻呂が皮肉をこめて言った。

「半年で太宰府だ」

「でもあの時、広嗣殿が上奏する気持ちもわからなくはなかった。京の人間は皆そうではないか? なあ」

「ええ、あの頃は集まれば皆、前左大臣や吉備朝臣の悪口を言っていましたわ」

「橘公はなにしろ政治能力が低かったからな。あの当時はずいぶん国が混乱したものだ」

「贔屓になさっていた吉備朝臣だって、軍事には長けていてもそれだけのこと。前左大臣が取り立てたあの僧侶なんか」

「あの僧侶な。声だけは良かった。声が良いと言うだけで帝に気に入られたのだ」

「そうそう、帝はいつもあの僧侶に歌を詠ませていた。女たちなど、うっとりとした顔をして聞いておったわ」

「あの声で耳元で囁かれると、皇太后でなくとも腰が砕けるだろう」

 男たちが下品な笑いをした。

「まあ、悪い気は致しませんでしょ。ちょっとした火遊び程度なら、相手をしても」

「そういうものかね」

「しかし、僧侶なのに欲に溺れ放蕩三昧、よくもまあ、宮殿の中に入れたものだと」

「ええ、まったく、あのようなどこの馬の骨かわからぬ者たちを帝に近付けるなど、前左大臣の浅さが見えるようでしたわ」

「広嗣は間違ったことを言っていないが、ただ、正面切って言うことではない、心の中に留めておいて、出世して自分が権力を持った時に、思うようにこの国を変えればよかったのだ」

「いやいや、腹の中に溜めておくことができぬ真っ直ぐな性格だから、広嗣殿は人気があったのだぞ。藤原一族の中でも広嗣殿は見どころがある、広嗣殿が政治を執った時が楽しみだ、と皆言っていた。広嗣殿は帝と国の行く末を心から憂いて上奏したのだ」

「ああ、わかっている。広嗣は決して帝に弓を引くような人間ではない。直情径行な男だっただけだ。日頃から言っていた。帝が正しい政治ができるよう、砕身するのが我ら群臣の役目、と。だが、首を刎ねられてしまっては何にもならない」

 宿奈麻呂は苦々しく言って酒を口にした。

「うむ、さぞ口惜しいかったであろう。しかし、あの後、怪しげな僧は積悪の報い、おかしな死に方をしたし、吉備朝臣は今や筑紫の人、前左大臣にいたっては、亡くなってすぐに息子の奈良麻呂殿が謀反の罪で処罰された。人を陥れれば返ってくるのだ」

「因果応報か……」

「……でも、今思うと、本当に前左大臣たちの仕業なのでしょうか」

 ふと、雄田麻呂がつぶやいた。

「うん? 」

「広嗣殿がいなくなり、真に得をしたのは誰でしょう」

「それは……」

 宿奈麻呂が急に声を上げて笑った。

「言えないだろう。こんな世で」

「あの頃、次の世を支えるのは広嗣殿か、仲麻呂殿か、と言われていたからな」

「皇后も、多くいる藤原甥っ子たちの中で、仲麻呂殿と広嗣殿を格別にお目をかけておられた。ワシのような不男は眼中なかったものよ」

「ほほほ、皇后も眉目秀麗な男性がお好きだったから、あら、失礼、宿奈麻呂殿が美しくないと言う意味ではなくてよ」

「広嗣殿には奥方もさぞヤキモキしたことでしょうね」

「ああ、当時はよく噂を聞いた。広嗣殿が内侍の女官に文を贈ったとか、何やらと言う女孺と何したとか」

「私、あまりに見かねて奥方に伺ったことがあるわね。もしも広嗣殿がその女を正妻にしたいから別れてくれ、と言ったらどうなさる? って」

「あら、そんなことがあったかしら」

 女の記憶の中の広嗣は、とうの昔に散逸していた。

「そうしたら、貴女、笑いながらおっしゃったわ。広嗣殿はそのようなことは言いませんことよ、広嗣殿のことをよくご存知でない方にはわからないでしょうけれど、広嗣殿と私は深いところで繋がっておりますの、と。余裕綽々でしたわ」

「聞くほうも聞くほうだけどな」

「ところで家集に歌が書かれたら何かいいことでもあるのかしら? 」

 女は聞いた。

「いいことって、そうだな、広嗣殿の歌が皆に褒められることかな。帝もご覧になるかもしれない」

「たいしたことではないのね」

 女は興味なさげな顔をした。

「でも、考えようによっては貴女は運が良いわ。広嗣殿が大それたことをしてくれたお陰で今もこうして皆が名前を覚えていてくださるんだもの。私の夫のように中途半端な地位で死んだ人間のことなど、世間は誰も気にしちゃくれないわ」

 女の叔母が言った。彼女は二度結婚したが、二度とも夫に先立たれている。

「そんなことはないでしょう」

「貴女はそうよ、運がいいのよ。若い頃から、何もしなくても幸せが舞い降りてくるんですもの。私なんか、夫の世話をしてもすぐに死んでしまったし、一生懸命勉強しても試験は落ちるし、どうして貴女ばかり」

「何もしていないのに、不幸に見舞われましたけれど」

 女は口を尖らせていった。

「そう、何もしていない。広嗣殿の助命嘆願も、処刑された後の名誉回復も、何も。ええそう、何もしないで広嗣殿の正妻となったのだものね」

「そのような仰り方。私だって苦労していますわ」

「いいえ、貴女は本当の苦労を知らないの。貴女が羨ましいわ。広嗣殿はあちこち妾がいらしたみたいだけれど、子はいなかったのだもの。私なんて、夫が死んだ途端、見知らぬ妾が来て、この男子は死んだ夫の子だ、財産をよこせ、と言ってきたのよ。ひどい話」

「ええ、ひどい話」

「いいわね、貴女は。妾の子でなくて歌が見つかるのだもの。広嗣殿の正妻としての幸せだわ。貴女への恋文だったらいいわね」

「……恋文」

 女は驚いた。自分への恋文だと思いもしなかったのだ。

「あの時、すぐに父が迎えにきて私は父の邸に連れていかれましたの。本当に身の回りの物だけを持って。広嗣殿の邸も財産も全て没収され、そんなこんなで私はもらった文のことなど構っている余裕がなく、手元に何も残っていませんの」

「まあ」

「でも、きっと、あの人、歌を代筆していたあの人が持っていたのだわ。私が広嗣殿から頂いた文を見せると、いつも写し書きをしていたもの。それで歌をいくつか作ってどれがいいか私に見せていたわ。そう、きっとあの人ね。今はどうしているか知らないけれど」

「やはり貴女は運がいいわ」

「さあ、宿奈麻呂殿。もったいぶらないで、早く歌を見せてちょうだい」

「種継は来ないのか」

「ええ、今日は来られないそうですよ。さあ」

「まあ、そうせかさなくても、義母上」

 宿奈麻呂が家人を呼び手紙を持ってこらせた。


「待ちかねたな」

 宿奈麻呂は手紙をさあっと広げ、皆に回した。

 庭から花橘の爽やかな香りが漂ってきた。まるで手紙が放っているようであった。

 女は広嗣の匂いと似ていると思った。

「貴方、詠んでちょうだい」

 若女が隣の雄田麻呂に手紙を渡した。

「こほん」

「この花の ひとよのうちに 百種の 言そ隠れる おほろかにすな(このはなの ひとよのうちに ももくさの ことそこもれる おほろかにすな)」

 雄田麻呂がゆっくりと男の声で読む。

「素敵だわ。愛しい気持ちをたくさんの言葉で伝えたいけれど、この一輪の花にたくさんの言葉を込める、この花こそが自分の気持ちだ、大事にしろ、と」

 家子が解説をする。

 女はじっと聞き入っている。

「でも、偉そうですね。おほろかにすな、とは」

「照れ隠しですよ。本当は、自分の気持ちは言葉で表しきれないほどで、軽い気持ちでは決してないから受け入れてほしい、という」

「さすが、姉上。こちらの返歌は」

 と雄田麻呂が家子に手紙を渡す。

「この花の ひとよのうちは 百種の 言持ちかねて 折れえけらずや(このはなの ひとよのうちは ももくさの こともちかねて おれえけらずや)」

 家子は声を出して読み、隣に座る女に渡した。

「たくさんの気持ちが込められ過ぎて、花が折れてしまったようですね、と、ちょっと意地悪な歌ね。届いた時に花が折れてしまっていたのかしら。でもきっと、これは最初のうちの文ね。貴方も経験あるでしょ、雄田麻呂さん。最初のうちは素直に男性の気持ちを簡単に受け入れてはいけないの。上手に受け流すものだから、これもきっとそうね」

「なるほど……。二十年目に恋文を改めていただいて、どうですか、母上」

 正子が、手紙にじっと見入っている母に声をかけた。

「素敵ね。いろいろ大変だったけど、二十年後にこうしてまた恋文が届いて、お義姉様は幸せだわ」

 何も言わず、歌を見つめている女の顔を家子が顔を覗き込む。

「これも代筆だったの? 」

「……いいえ」

「あら、まあ、それじゃ貴女が詠んだの。珍しい。なんだかんだ言ってもちゃんと歌を勉強していたのじゃないの。てっきり」

 女はため息をつくと、歌の上にぽとりと涙を落とした。

「この歌は、私に贈られたものじゃないわ」(了)

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