逢魔が淵 3
「ひょっとして、古い呪いのほうも、珂雪が関与しているの?」
自分が直接手を下さないあたりも、手口が似ている。
「大いに可能性はあるとみています。ただ、なにぶん呪術をかけた本人が既に死んでおりますので、確証を得るのは難しいかと」
何があったのか、大まかなところまではわかったとしても、誰が何を考えていたのかまではもうわからない。せめて逃げた穂積垂水が見つかれば、話は変わってくるのだろう。
ただ、穂積重蔵はかなり探したようだったから、簡単ではないはずだ。
「正直、上は昔の事件の方は触れたくないようです。穂積の家が絡んでいますから」
「それは……わかるわ」
穂積家は、四の皇子である正治の母の実家にあたる。政治的な権力はそこまでないとはいえ、名家であることは間違いない。藪をつついて蛇を出すような真似はしたくないと考えるのは当然だ。
「調べてみると実は藍川水雲の方がきな臭い」
泰時も藍川家について調査をしているようだが、かなり難儀しているようである。
「新羅の国の使節団との交渉がうまくいったということで、出世をしたが、一方で新羅の呪術者を使い呪詛をしているという噂があった。玄蕃寮の頭となる時、対抗馬だった同僚が次々に事故にあったようなのだ。もっとも証拠となるようなものはなにもない。だが、それゆえに藍川水雲を恨んだり妬んだ者はそれなりにいたと考えられる」
やり手であったのは間違いないが、偶然とするにはあまりにも運に恵まれた出世だった。真実であるかどうかはともかく、黒い噂が絶えなかったらしい。
「対して、穂積垂水のほうは、藍川家に入るまで非常に評判がよかった。水雲が亡くなって、よそに妻を作るまでは勤務態度も真面目で優秀だったようだ」
「その妻とは?」
「名前は艶。ただ、それ以上のことが分からない。貴族ではなかったようだ。逢魔が淵近くに居を構えていて、垂水は通っていたらしいが、何をして糧を得ていたかわからない」
泰時は首を振った。
「現在、逢魔が淵のあたりに人は住んでおらず、そもそも十年まえであっても人が住んでいたとは思えないのだが」
逢魔が淵は都の近郊には違いないが、山深く、人通りなどほぼない場所である。よほど世を捨てているか、もしくは追われる身でもない限り、好んで住んだりはしないだろう。
「それでも、当時、藍川家に勤めていて垂水の従者をしていた者によれば、淵の入り口まで送っていったと言っている。もっとも従者はその場にとどまらず、朝にまた迎えに行っていたらしい」
牛車の入れない場所に庵があると聞いていたようだ。なぜそのようなところに住んでいる女と、垂水が知り合ったのかはわからない。
「その女性は、狐狸妖怪の類ということはないでしょうか?」
河静が口を開く。
「逢魔が淵のあたりは、『出る』という噂の多い場所です。このところ、あのあたりで行方不明者のものと思われる、荷物や遺体がよく見つかっているため、近いうちに陰陽寮でも調査に出ることになっておりました」
静かな淵のある湖のほとりに、何かに喰われたと思われるものが幾たびも発見されている。
「道に迷って行き倒れたところを野犬などに襲われた可能性の方が高いと言われておりますが、あやかしの中には、人を喰らえば喰らうほどに、『人』に似ていくというものおります」
「不思議ね」
杏珠は思わず呟く。
「人は……生成は、人を喰らってしまうと、二度と人には戻れないというのに、異形のものは、逆に人を喰らうと人になっていく……」
「人に近しい『何か』になっていくだけで、人になれるわけではありません。少なくとも、人としての情は『知識』としてあっても、無きに等しい。魔は結局のところ、魔でしかないのです」
人は鬼となり、魔になってしまうことができるが、魔はどこまでいっても魔にしかなれないと、河静は断じる。
真実そうなのかは、杏珠にはわからない。魔の理は人のそれとは異なっている。
「女が人なのか変化の類なのかはともかくとして、名前以外は何もわからないに等しい。藍川家に押しかけてきてからは、屋敷の奥に閉じこもって、ほぼ外はおろか人前にも出なかったようだ。が、貴族に嫁いだ妻なら、それもまた不思議ではない」
泰時は大きく息を吐いた。
「なんにせよ、過去の事件に関しては八方ふさがりだ。りくという女には無念であろうが……」
「現状、珂雪の目的を探る方が先決でしょう」
河静は頷く。
「泰時どのと陛下との関係に溝を作りたいなら、遠征の時に何か仕掛けてくるかもしれないわね」
物理的な距離が開けば、噂ひとつで簡単に隙間風を吹かせることも可能だ。
「陛下に今回のことを含め、杏珠さまを遠征に連れて行く旨、言上しようと思っている」
遠征に妻を連れて行くのは例がない。禁止事項でもないが。
「秘密裡の方が安全なのではないでしょうか?」
河静は渋い顔をする。杏珠がどこにいるかわからない方が、狙われる危険が少ないと言いたいのだろう。
「それはそうだが、私の傍にいるとわかっているほうが、陛下は安心なさる。私の忠誠心は杏珠さまに向けられていて、杏珠さまの安全こそが、国家より優先されることをよくご存じであろうから」
真剣な大きな黒い瞳に杏珠の姿を映しながら泰時は話す。
杏珠は全く知らなかったことだが、泰時の想いは皇帝の知るところであり、皇帝はそれをわかったうえで、杏珠を与えたということになる。
「……その論理ですと、宮廷に杏珠さまがお帰りになったほうが陛下としては一番安心なさるのでは?」
「それはそうだが、一度臣下にくだった姫が宮廷に戻るなど前例がないからな。陛下がそうなさることはないさ」
呆れる河静に、泰時はにやりと口の端を上げた。