逢魔が淵 1
通り雨と思われた雨は、降ったりやんだりを繰り返し、四日ほど降り続いた。
小雨だろうと、大雨だろうと、泰時は変わらず、朔見屋敷を朝に出て行って、夕刻に帰るという生活を送っていた。
杏珠としては、あまりに大雨の日に無理をする必要はないと思うのだが、泰時は杏珠にいらぬ誤解を受けたくないようだ。
「今日はいいお天気でよかったわ」
久しぶりの晴天で、朝から使用人たちは洗濯や掃除に忙しかった。
杏珠も遠征の時の為にいくつか札を作り続けた。
札を作るときは、狩衣を着ている。使用人たちは、杏珠が狩衣を着ているときは、決して邪魔をしないように気を使っているのだろう。夕刻まで、部屋にはほぼ誰もやってこなかった。
札は都度、咄嗟に書くこともできるけれど、あらかじめ用意しておけば、その分、霊力に余裕ができる。陰陽師としての力がどれほど必要になるかはわからないが、体力面で杏珠はお荷物にしかならないのだ。役に立てそうな場面では、出し惜しみするようなことはしたくない。
とはいえ、次々に作り続けることは難しく、まだ当初の予定の半分ほどしか完成できていない。
「杏珠さま。泰時さまがお帰りになりました」
「あら、早いわね」
いつもは日が暮れる頃に戻ってくることが多いのに、今日はまだ傾いた日が残っている。
「山科河静さまもご一緒です。お食事をしながら、お話があるそうです」
「あら、河静兄さまが?」
イズナに声をかけられて、杏珠は筆をおいた。
「すぐに用意するわ」
普通に考えたら客人を狩衣姿で出迎えるのは、妻としてまずいのだが、相手が河静なら問題はない。杏珠は、書きあがった札を丁寧にまとめ、片付ける。
──河静兄さまが来たということは、さとの件かしら。
泰時がわざわざ屋敷に連れてきたということは、杏珠に話をきかせるためであろう。
部屋に入ると、杏珠は泰時の隣に座った。几帳は用意されていたが、杏珠は不要と答える。どのみち、河静には素顔をさらしていて、今更だ。
「杏珠さまは相変わらずですね」
河静は杏珠の姿を見て苦笑する。
「辰野さまも、とんだお転婆を妻に迎えたとさすがに呆れておられるのではないでしょうか?」
「今日は、遠征のための札を作っていたの。袿だと動きにくくてかなわないから」
杏珠は肩をすくめた。
正直な話、袿より狩衣の方が圧倒的に動きやすい。重ね着をすれば重いし、また汚してしまいそうになる。
「杏珠さまは杏珠さまの好きなようにして下さればいい。そもそも何を着てもお美しいのだから」
泰時に微笑まれ、杏珠はどきりとした。相変わらず、泰時は杏珠を全肯定して褒めてくれる。それがどうにもくすぐったい。
「辰野さまは本当に我が妹弟子にお甘い」
「事実だから」
泰時は照れもしない。
膳が運ばれてきたので、杏珠は箸を手にとった。
「緑安寺の方から連絡が来ました」
河静は真顔に戻り、話を切り出した。
「辰野さまにはお話ししましたが、杏珠さまには最初からお話いたします。結論から申し上げると、さとの話と辰野さまの話にかなり相違があります」
さとから聞き取った話によれば、二人は幼い頃に将来をいいかわした仲であるらしい。泰時が東域にいったあとも、何度か文を交わしあった。
朔見屋敷に来るときに、皇帝の命令でやむなく杏珠を迎えることになったが、愛しているのはさとだけだと囁いたらしい。
「つまり二人は相思相愛であったということ?」
杏珠は首を傾げる。
「少なくともさとはそう言っているだけです。辰野さま、睨まないでください。誰もあなたが嘘をおっしゃっているとは思っておりませんので」
河静は不機嫌な様子を隠そうともしない泰時を先に制する。
「念のために、江頭の屋敷に勤めるものに確認いたしましたが、辰野さまからの文を受け取ったという事実はないようです」
「他の誰かと間違えているとか?」
「さとが辰野さまを慕っていたのは事実でありましょう」
河静はこほんと咳払いをした。
「しかし」
「たいして会ったことがないから、絶対に違うとは辰野さまに限っては言い切ることはできませんよね?」
「それは……」
痛いところを突かれたらしく、泰時は黙り込む。
「自分の親族で顔を知っている男性が、どんどん出世していくとなれば、興味を持っても不思議はありません」
「そうね。父親の江頭行橋は、泰時どのと娶わせるつもりだったようだから」
杏珠は口をはさむ。
江頭は辰野の家にたびたび金をせびりにきており、さとを奉公にだすにあたって、泰時の手がつくことを望んでいた。あわよくば、辰野の家を乗っ取りたいと思っていたようだ。
「……そうなのですか?」
河静に問われて、杏珠は頷く。
「ええ。気位だけ高い、変わり者で醜い皇女よりよほど気にいるはずだと、泰時どのに言ってましたわ」
くすくすと杏珠が笑うと、泰時はその時のことを思い出したかのように不機嫌な顔になった。
「なんとまあ、その男、よくこの屋敷を無事に出られましたねえ」
河静は呆れたようだった。
「あのさとという娘が、少々器量よしだったせいで、その男もいろいろと見失ってしまったのかもしれません。元皇族の杏珠さまを愚弄するとは不敬極まりない」
「それは別にいいわ。とにかく、さとは親に泰時どのの妻になるように強いられていたのは間違いないと思うの」
だからといって、さとの話がどこまで本当なのかはわからない。
「結論から言えば、もともと思い込みの激しい娘に、何者かが暗示をかけたのではないかと緑安寺では見ています」
「暗示?」
「呪言ですよ。甘い蜜のような言葉で、事実を誤認させていき、記憶を改ざんするのです」
河静の顔が険しくなる。
「術者はかなりの使い手でしょう。そして、さとという娘は辰野さまの従妹だけあって霊力も高い。淡い恋心を持っていたのも、夢見がちで思い込みの激しいところも都合が良かった。おそらく、かなり前から目をつけられていたと思いますね」
「かなり前ということは、私とは関係なくということ?」
杏珠が褒賞に決まったのは、ここに来る十日前。つまりまだひと月たっていない。
「はい。辰野さまを手に入れようとしているか、もしくは害そうとしているかはわかりませんが、間違いなく辰野さまに何事かを仕掛けようとする『駒』として用意されていたと思われます」
「……面倒な話だ」
泰時は心底そう思っているらしく、煩わしそうにため息をついた。




