中学校三年、春のこと
ゴールデンウィークのこと。まだ肌寒い日に響は幼馴染達と道場へ来ていた。なんてことはない、いつもどおりの練習だ。ここ数年でサイズが変わってしまった、真新しい弓道衣へと着替えると気が引き締まる…と思っている。
「響、まだ不調のようだな?」
幼馴染に言い返すこともできない。去年の冬頃から少しずつ、響の集中力は途切れやすくなった。最初は僅かにズレた程度だったものが、最近では的に当たらない事すら増えた。
原因に心当たりはある。何度も何度も繰り返し、あの日のことを思いだす。
『私も、私は、お前に辞めてほしくない』
あれはどういう気持ちで言ったのだろうと考えると、夜も眠れない。
心に僅かばかり芽吹いた「何か」はもう見ないふりができなくて。枯れてしまえなんて呪いの言葉を吐きながら、育ててしまった。それを無邪気に喜べないのは、瑠璃に寄り添えるだけの覚悟があると言い切れないから。
「お茶でも買ってくるわ…」
休憩時間にそう告げて道場を出る。あのまま的と向き合っていたら、恐ろしいものに潰されてしまいそうで怖かった。
弓道衣のまま近くの自販機へと向かう。人通りの少ない場所にぽつんと立っている自販機は、道場に通う人達がよく利用している。大きなボトルの冷たいお茶か、小さいボトルの温かいお茶、どちらを買おうか少し悩む。
「響?」
その声に響はぱっと振り向いた。この場所では聞くはずのない声だと思っていたのに。幻聴でないかとチラっと思ったが、彼女はそこに立っていた。
「どうして此処に…」
瑠璃が何やら荷物を持って立っている。ぱんぱんに膨らんだトートバックを背負い直す姿に、冷静な自分が「本を持っているのか」と考えていた。
緊張で体が震えていないか心配になる。いつも塾で会う時は事前に気合をいれるけれど、今はそんな事はしていない。少し突かれたら、ずっと堪えていた「何か」が溢れ出してしまいそうだった。
瑠璃はそんな響の様子など気がついていないようで、なんてことない顔で答える。重そうなトートバックをまた背負い直した。
「私の叔母さん、この近くに住んでいて。本屋のついでに寄っていたんだ。お前の道場もこの辺りにあったんだな?普段あまり周りを気にしないから、気が付かなかった」
唾をごくりと飲み干す。そしてなんとか平静を保つよう暗示をかけて、いつもどおりの笑顔を浮かべた。
「気が付かなくても仕方ねぇよ。ちょっと奥まった所にあるからな」
響が指差したのは、閑静な住宅街の向こう側。何があるか知らなければ行かないような、そんな場所に弓道場はある。通っている門下生か、近所に住まう人でなければ知らない所だ。コンビニやスーパーは近くにないので、必然的にこの自販機によく世話になっている。
瑠璃はふぅんと声をあげた。
「なにか買うのか?」
「おう」
握りしめた小銭は、既に体温でぬるくなっている。まだ外気は寒いぐらいだというのに。弓道衣しか着ていない響の体がぶるりと震えた。
「これ、飲まないか?」
ひょいと投げて渡されたのは、口の開けられた伊左衛門。まったく冷えていないし、熱くもない。温いとしか形容できないボトルの中身は半分に減っていた。
「途中まで飲んでるじゃねーか」
「嫌だったか?」
そう聞かれては首を横に振るしかない。もともと回し飲みを気にするようなタチでもなし、くれるというなら喜んで受け取る。それが瑠璃がくれた物なら、尚更に。
瑠璃が微笑む。
「いい成績がでたら教えてくれ」
それだけ言って去っていく、ふわふわの栗毛。姿が見えなくなるまで目で追って、見送って。誰も居なくなった路地で貰った伊左衛門を口に含む。ぬるいとしか形容できない茶で喉を潤せば、ひた隠しにしてきた感情がぶわりと迫り上がった。
「あ~~~も~~~」
その場でしゃがみこみ、赤くなる顔を腕で隠す。いつもと違う場所で少し会えて、飲みかけの茶を渡されただけ。なのに胸はガロップを奏でるかの如く、速く、強く。脳髄は歓喜に湧いて、叫んで。
もう育ってしまったものを「何か」で誤魔化すことはできない。とっくの昔に答えは知っているのだ。瑠璃のふわふわとした髪が。落ち着いた声が。存外に穏やかな笑顔が。知性をたたえた瞳が。冷静に見えて情熱に溢れた心が。好き。
「離れたくねぇよ」
響の胸を占めるのは、その気持ちばかり。希望する高校にそのまま行けば、確実に瑠璃に会えなくなる。それは嫌だった。だけど弓道だって諦められないし、偏差値の高い学校で勉強してほしいという親の気持ちだって無視できない。なりたいものも決まってなければ、進路すらも決まらない。どっちつかずのまま。
そんな風に蹲っていた響を覆うような、大きな影ができた。
「体調が悪いのか?」
蹲ったまま顔を上げると、そこには自分より大きな男がいた。同年代でも飛び抜けて大きい響は、驚きに固まってしまう。
しばし呆然とその男を見ていたが、響はすぐ気を取り直して立ち上がる。僅かに立ち眩みはしたが、それもすぐに収まった。
「あ、いや、なんでもないです」
「なんか死にそうな顔をしてるぜ?」
「ちょっと考え事をしてただけで」
下手に誤魔化さずに、正直に答えた。すると男はニヤニヤと知ったふうな顔になる。
「さては恋煩いだな?」
ぎくり、体を強張らせる。男はそんな響の背中をバシバシとたたきながら、大口を開けて笑う。人の気持ちも知らないで…と恨みがましく睨みつけるも、男は一向に気にした様子はない。それどころか、ますます笑うばかりだ。
「本当に欲しいなら、本気で頑張らにゃならねぇ!大物ほど苦労しなきゃなんねぇ!我儘を通すんならよ、それなりに努力する必要があんのよ!」
その言葉は響の胸にすとんと落ちてきた。そんな彼の様子も気にすることなく、男は「それじゃ俺はこれで」と言って去っていく。それは丁度、瑠璃が来たのと逆方向で。その更に向こうから綺麗な人が歩いてきているのが見えた。
(我儘を通すなら、努力する必要がある)
伊左衛門をぐいっと飲み干す。迷う余裕はもう無かった。