高校一年、進級前のこと
3月も終盤の春休み頃。響は瑠璃と共に水族館に来ていた。駅を乗り継がなければたどり着かない、海沿いにある大きな水族館。その隣には広々とした海浜公園があるが、桜を植えていないこともあって人はまばらだった。それは水族館も然り。
人の殆ど居ない水族館を二人でまわる。いつもは人垣ができる水槽も、今はよく見ることが出来た。
「いつもこの大水槽がよく見えなかったんだ」
そう言う瑠璃は嬉しそうだった。キラキラと輝くイワシの群れ、そこを横切るように泳ぐサメ、水槽の回りをひらひらと舞うエイ、その全てを愛おしげに眺めている。
「ほんと、生き物が好きだよな」
「そうかもしれない」
いつもは無愛想な瞳が、喜びで細められる瞬間が好きだった。冷え切ったようにも思える瑠璃の根底に、燃え上がるような熱情があるのが垣間見える。それがどうしようもなく響を惹きつけるのだから。
「好きだな」
思わずポツリと零した言葉に瑠璃がぱっと振り返る。その頬が赤く染まっているのは気の所為ではないだろう。今更もう隠すこともないと響が笑って肯定すると、瑠璃の顔はさらに赤く染まってしまった。
「お前は」
「ん」
「…なんでもない」
それ以上は聞かないことにした。まだ時間はあるのだから、のんびり待とうなんて思いながら。
水槽を見て、食事をして。満足のいくデートだったなんて思いながら駅に向かって歩く。夜になってますます人の居なくなってしまった海浜公園を横切るように歩いていた。
「楽しかったな」
「ああ」
「また来るか?」
瑠璃がぴたりと足を止めて響の服をぐいっと掴んだ。辺りは暗く、街灯の頼りない明かりしかなくて。俯く瑠璃がどんな表情をしているか、よく見えない。
「瑠璃?」
静かに問うた声は、思っていたより小さくて。海浜公園の夜闇に溶けていくようだった。
「どうして私なんだ」
響はその言葉の意図を汲み取れない。いったいなんだろうと続きの台詞を待っていると、瑠璃は苛立たしげに声を荒げた。
「どうして私なんだ?お前の周りには人がいるだろう?いつだって誰かがお前の側にいる、男も女も。なのに、どうして私なんだ?私は、自分でもろくな人間じゃないと思っている。興味があること以外がどうでもいいんだ。無駄なことを喋るのだって苦手だ。それなのに、なぜ」
なぜ自分が好きなのか、という続きは発せられなくとも理解した。同時に腹立たしくて、そして恋しかった。そんな瑠璃の不安さえも好きになってしまいそうで、否、好きで。どうしようもない。
「わかんねぇよ。好きになっちまった理由なんて。食べ物みたいにさ、好きだって思ったら、それが理由なんだろ。オレにとって瑠璃はそうだったんだ。好きだって思った。だから好きだ」
服を握る手に力がこもる。辺りは暗くてもわかるぐらいに、瑠璃の顔が赤いのがわかる。目が少しだけ涙ぐんで、小刻みに震える姿は。いつもの堂々とした姿が嘘のようで。
「私も」
「ん」
「お前のせいだからな」
「ん」
「好き、なんだと思う」
か細い声で絞り出した告白に、心臓が鷲掴みされたような心地がする。余裕ができたなんてチラとでも思ったのは錯覚で、本当はいつだって緊張していた。
「なあ」
「なんだ」
「抱きしめてもいいか?」
「好きにしろ」
ぎゅうと抱きしめた体は思ったよりも小さくて、風ですっかり冷えていた。だけど恋心は落ち着かなくて、やっと抱きしめられたことに歓喜するだけで。
まだ辺りは寒くて震えるぐらいなのに、胸はポカポカと温かい。鼻先にふれるフワフワの髪から、安っぽいシャンプーの香りがした。
「ヤバい」
「どうした?」
「いや、これは流石に、いい」
「言え。気になる」
「いいって」
「言ってみろ」
イライラと言われて、観念したように口を開く。バクバクという煩い鼓動に目を背けながら。
「キスして、いいですか」
情けないぐらいの震えた声で。いつも使わない敬語で。我ながら目も当てられない醜態だなんて、冷静な自分が自嘲する。そんな僅かな沈黙の後で、瑠璃がぶっきらぼうに言った。
「いいんじゃないのか」
改めて向かい合った顔は、羞恥心を滲ませていた。どこか素っ気ないような、他人事のような態度は、全て恥ずかしさと緊張を隠すものだと。そう理解してしまうと、もうどこで止まっていいかも分からなくなった。
キスってどうやってするのだろう。漫画では勢いがよくて歯がぶつかる事があるなんて言ってたっけ。顔は傾けるものだった筈。なあ、視界に殆ど頼れなくて、何処が唇かわからないんだけど。そんなことを考えながら唇同士をぶつけあう。恐る恐ると触れたので、感触なんて殆どわからない。頭の中が真っ白だ。
(どうしよう、好きだ)
ファーストキスはレモンの味だとか、誰かついた嘘だったか。そんな馬鹿らしい事を後で考えた。




