5 秘密の取引
随分と長いこと見つめ合っていたような気がする。実際は、数秒程度だったろう。
「大丈夫なので……もういいですか?」
やがて、朔夜が決まり悪そうに言うと、陽は慌てて手を離した。同時に、パッと目を逸らす。
「ごっごめん!」
動揺を禁じ得ない。何だか、見てはいけないものを見てしまったような背徳感があった。
(驚いた……冬月って、こんな顔してたんだ)
それこそ、姫になれそうなくらいの……と、そこまで考えて、陽はハッとする。
「冬月っ! 姫にならないか!?」
勢い良く振り向いて、提案をぶつける。そんな陽の唐突な申し出に朔夜は鼻白んだ。
「……姫に?」
「ああ、お前なら絶対なれる!」
「いや、姫は一学年に一人という決まりでしたよね。一年は日向君が居るじゃないですか」
「だから、俺の代わりに姫になって欲しいんだ。俺、姫をやめたいんだけどさ……普通にやめるって言っても、受け入れて貰えないっていうか、またそのまま姫扱い継続されそうだし……」
だけど、新たな姫が立つのなら別だ。
「冬月が代わりに姫になってくれれば、みんな冬月に夢中になって、俺は晴れてお役御免で円満退職出来ると思うんだよな! 何せ、冬月こんなに綺麗なんだから! 俺なんかよりも、ずっと姫に向いてるって!」
名案とばかりに瞳を輝かせて熱弁する陽に、朔夜は暫し押し黙り、ふと辺りの地面に視線を巡らせた。飛ばされた自身の眼鏡を見つけ出して拾い上げるや、それを陽に見せつけるように掲げる。レンズには傷が入り、フレームも多少曲がってしまっていた。
「これ、実は伊達なんです。度は入っていません」
「へっ?」
不意の告白。虚を衝かれた陽が目を丸くする。
「視力は良いのに、わざわざこんなものを掛けていたのは……何故だと思います?」
謎掛けのように訊ねて、朔夜は陽の返事を待たずに自分で答えを出した。
「顔を隠して、目立たないようにする為です」
「!」
それは、単純明快な理由だった。朔夜は鞄から取り出したケースにメガネを押し込んで仕舞うと、長い睫毛を伏せた。口元に皮肉な笑みを浮かべて、語る。
「この顔の所為で、僕はこれまで散々な目に遭ってきました。女みたいだって揶揄われるのは勿論のこと、クラスの権力者の好きな女子に惚れられて、嫉妬からいじめのターゲットにされたり……だから、高校からは知り合いの居ない遠い学校で、顔を隠して目立たないように生きていこうと決めたんです」
陽は衝撃を受けていた。
(冬月に、そんな事情があったなんて……)
同時に、己の行いを酷く恥じた。
「ごめん……俺、何も知らずに勝手なこと言って……それなら、姫なんて有り得ないよな」
素顔で、あまつさえステージで女装を晒すような最大級に目立つ役職だ。朔夜の望む穏やかな学園生活とは全く正反対だろう。
「ええ、普通に考えれば、有り得ませんね」
肩を竦めて吐息する朔夜。陽は申し訳なさに縮こまってしまった。
(最低だ……俺、自分のことしか考えてなかった)「だよな……俺、冬月の素顔のことは誰にも言わないから」
「だから、安心してくれ」と続けようとして、陽は「ですが」という朔夜の言葉に遮られた。
「僕、日向君に興味があるんですよね。なので、条件次第によっては、貴方の提案に乗ってもいいかなと」
「えっ?」
「どうやら、この学園で姫となると周囲からは大切にされるようなので、絶対にいじめられるようなこともなさそうですしね」
陽は目を瞬いた。
「興味って……お前、俺のこといつも避けてたじゃんか。てっきり、嫌われてるのかと……」
「ああ、貴方と居ると目立ってしまいそうだったので……他意はありませんよ。むしろ、貴方のことは前々から気になっていたんです。それが、今日のことで一層深まりました」
「……どういう意味だよ」
「人に流されやすいお人好し。かと思えば、卑劣に立ち向かう正義感……貴方の言動って、まるで物語の主人公みたいなんですよね。――そこで、条件です」
ピッと人差し指を立てて、朔夜は述べた。
「僕の小説のヒロインになってください」
あまりにも予想外な申し出に、陽は言葉を失った。その間にも、朔夜は勝手に続けている。
「まぁ、これは断られてもそうするつもりでいるので、正確にはヒロインのモデルとして、作品作りに協力して欲しい、といったところですかね。具体的には……」
「ま、待て、冬月。冬月は小説を書いてるのか? てか、ヒロインって!? そこはヒーローでも良くないか!?」
陽のツッコミに対し、朔夜は質問に質問で返してきた。
「『転生したらぬらりひょんだった件』って知っていますか?」
「へっ? ああ、アニメとかやってたよな。俺は見たことないけど」
『転ぬら』の愛称で知られるそれは、元はネットの小説投稿サイトに上げられた素人の作品だったが、出版社に目を掛けられて書籍化し、瞬く間に人気を博して様々なメディアに取り上げられた有名なタイトルだった。漫画やアニメなどのサブカルに疎い陽ですら聞いたことがあるくらいだ。
すると、なんてこともない風に朔夜が言った。
「あれの作者が僕です」
陽は絶句した。たっぷり数秒間フリーズした後に、驚愕を露に叫ぶ。
「えぇっ!? 『転ぬら』の作者が冬月!?」
「しーっ、一応秘密なので、あまり大きな声では言わないでください」
唇の前に人差し指を立てて、朔夜が注意する。陽はまだ衝撃冷めやらず、唖然としてしまった。
「ありがたいことにあの作品が売れて、次の本も出そうということになったのですが、担当さんに今度は恋愛要素を入れて欲しいと言われまして……今の流行が異世界恋愛ファンタジーなので、女性ウケを狙いたいんだとか。けれど、僕には恋愛感情というものが、さっぱり分からないんです」
嘆くように、朔夜は首を振った。陽は一つ閃いたことがあり、訊ねてみた。
「もしかして、それで少女漫画を読んでたのか?」
「あれは漫画じゃなくてラノベ……ライトノベルです。丁度挿絵のページを目撃されてしまった訳ですが、仰る通り、いくつか恋愛ものを読んで参考にしようとしていました。けれど、全然理解出来なくて、困りました」
「そっか……大変そうだな」
だが、それが条件の話とどう結び付いてくるのか。陽が首を傾げていると、朔夜はこう提示した。
「そこで話を戻しますが、日向君には特にその辺りのご協力をお願いしたいのです」
「その辺り……というと」
こくり、頷きを一つ。朔夜の青い瞳が陽の茶色の瞳を真正面から捉えた。怖いくらいに真摯な眼差し。形の良い桜色の唇が、その先を告げる。
「日向君……僕に〝恋〟を教えてくれませんか?」