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12 空っぽの親子が向き合うとき

 午後六時をまわった頃、父が帰宅した。

 母が四人分のアイスティーを入れて並べる。


 父が定位置の席についたところで、ミチルはテーブルに箱を乗せた。


 色褪せたお菓子の箱は、何も知らない人から見たらゴミ。

 ミチルも中身を知るまでは、ただの空き箱に見えていた。


 けれど駆は、ひと目で歩のものだと気づいた。




「歩の宝箱!? なんで、ミチルたちが」


「母さんが、観光するなら使ってって貸してくれたガイドブック、一部のページがないから、ユメが同じ本を買ったの。行ってみたら歩叔父さんの店だった」


「ガイドブックって。美優、お前余計なことを!」


 父は語調を強くして母を問い詰める。

 好奇心旺盛なユメにページが抜けたガイドブックを渡せば、調べて店まで行くのは目に見えている。


 母は静かに父を見て、口を開く。


「ミチルは娘だもの。歩くんのことを知る権利はある。それに…………見ていられないの。今のミチルも、駆さんも。だから、せめてキッカケを作りたかった。沙優から家庭教師の話をもらったとき、今しかないと思ったわ」


 空っぽのミチルと、空っぽの駆。

 ずっと側で見ていた母も、もどかしかったのかもしれない。

 

 父は何かを言いかけて、飲み込んだ。

 ミチルはフタを開けて、中のメダルを父に渡す。

 


「歩叔父さんが、これを渡して父さんの子どもの頃の夢を聞きなさいって」

「インターハイの、メダル…………まだ持っていたのか、あの馬鹿。なんで、今更こんなものを。俺に見せて、どうしろって言うんだ」


 父の声が震えている。泣きそうな顔でメダルを握りしめる。


「教えて。父さんの夢」

「俺の……俺の、夢は………………世界大会で、金メダリストになること、だった(・・・)。親父とお袋は、理解してくれなかった。どうせお前は凡才で、叶えられるわけないから、はなからそんなものを目指すなと言った。陸上を続けるなら勘当すると言われて……」


 辞めたくて辞めたわけではない。

 辞める以外の道を許されなかったから、辞めた。

 泣き出しそうな、震える声で吐露する。


 どうしてもやってみたいことがあるのに「お前には無理だ」と決めつけられてしまったら悔しくて悲しい。

 それをしたのが自分の祖父母だと思うと、胸が痛くなる。


 大好きな陸上を諦めてからの三十年。

 どんな気持ちで勉強して、商社で働いて来たんだろう。

 父もミチルと同じ。

 満たされることがなくて、ずっと空っぽだったのかもしれない。



「歩は、なんて言っていたんだ。夢を諦めた根性なしの兄とでも言ったか? 俺と違って、アイツはちゃんと叶えたもんな。勘当されるのが怖くて言いなりになった俺とは違う」


 投げやりで、自嘲気味に言う。


「ううん。父さんのこと何も言われてないよ。ただ、これを渡して、ちゃんと父さんと向き合いなさいって。私、将来どうやって生きたいか……父さんと真剣に話したことなかったって気づいた」



 歩と父の間にあるものを、ミチルとユメは知らない。

 でもきっと、メダルを渡すことに意味がある。

 父が言う、“宝箱”にメダルが入っていることに、意味がある。



「父さんは、今でも陸上の世界に戻りたいと思う?」

「…………そう願わなかった日はない。走るのは、俺の全部だったから。走ることをやめて許されることなんて、親父たちが納得する学歴を残すことだけ。なんで俺は履歴書っていう紙切れのために、こんなにくだらないことしているんだろうって、思っていた」


 父は目を閉じる。

 ミチルもずっと考えていた。

 誰のための勉強だろう。

 テストで良い点を取ると、蛇場見の祖父母は「さすがわたしたちの孫」と言って上機嫌になった。

 順位が五位以下だと「努力と根性が足りない」と怒られた。

 あれはミチルを愛しているから言ったのではないのだと、今ならわかる。


 祖父母にとって、ミチルはアクセサリーなんだ。

 人に自慢するための道具。

 さすが蛇場見さんちのお子さんお孫さんは優秀ですねと、褒められたいんだ。


 駆にもミチルにも、心を求めていない。

 本当に空っぽなのは、あの人たちだ。


 

 これまでの日々を思い返してみれば、父は成績のことでミチルを責めたことは一度もない。

「大学を出て名のある企業に勤めさえすれば、何も言われない」と。


 なんて、馬鹿だったんだろう。

 好きなことを全部諦めて親の顔色をうかがっても、自分には何も残っていないのに。

 


 もうきっと、父もそのことに気づいている。


「歩にメダルをやった日、歩と約束したんだ。インターハイは通過点に過ぎないから、次は……世界大会の金メダルをやる。三年になって間もなくだ。陸上部を辞めさせられたのは」


 約束は果たされることのないまま、二人は会うこともないまま、時だけが過ぎた。



 自分が歩の立場だったらどう思うか……ミチルは考えた。


「……きっと叔父さんにとって、夢を追いかけて走る父さんは、今でも大切な宝物なんだよ。陸上部だったときの写真、母さんに見せてもらったよ。写真の中の父さん、すごく楽しそうに笑っていた。私、父さんが笑っているところ、一度も見たことがないもの」



 陸上選手を目指していた頃のように、心から笑ってほしい。

 きっと歩の願いはそれだけだ。


 そしてミチルも、父に笑顔でいてほしいと思った。

 両親に作られた“大卒で商社務めの理想の息子”という鳥かごを出てほしいと思った。



「ねぇ父さん。私、ちゃんとがんばるから。父さんと母さんに迷惑かけなくて済むように、仕事見つける。だからもう、おじいちゃんたちの目を気にして自分の気持ちを押し殺さなくていいよ。父さんには、自分の好きなことしてほしい」


 好きなことを仕事にして、昔のような笑顔を取り戻してくれたら。

 ミチルも、夢を追うのがどんなに楽しいのが理解できるようになる気がする。



「……何をわかったようなことを。俺はもう世界大会に参加できるような年齢じゃない」


 三十年というのはあまりにも長い。


「あらあら、鎌倉のチーターが聞いて呆れるわ。高校生のときは「俺より速いやつはいない」って自信満々に言っていたのに」

「美優。俺はもう、そんな安い挑発に乗る年齢じゃないからな」


 視線をそらした父に、ユメがさらなる発破をかけた。


「駆伯父ちゃん、年齢を言い訳にするなんてすっごくダサーい! うちの隣に住んでいるおじいちゃんなんて、八十過ぎてるのに毎回市民マラソンで走ってるよ! 伯母ちゃん、やっぱ伯父ちゃん、UFOで改造されちゃったんでしょ。もっともらしいこと並べて走らない人が、元メダル選手なわけない!!!!」


 ビシっと勢いよく父を指差す。

 怖いもの知らずというか、なんというか。

 八十過ぎの元気なおじいさんと比較されて、さすがに駆のこめかみに青筋が立った。

 冷静を装いつつも、怒っているのがわかる。


「ほう。俺が八十過ぎのじいさん以下だと言うのか、ユメ」

「そうだよ。走れるのになんか偉そうなこと言って走らないなんてご老体以下。そこにある鉢とかわんないよ!」


 ヒートアップしたユメがテーブルを叩き、さらに言い返した。

 そこにある鉢とは、母が育てているベンジャミンだ。

 観葉植物呼ばわりまでされて、さすがに父は黙っていなかった。


「……さっきから大人しくしてれば、ご老体だの観葉植物だの。お前はどうすれば納得するんだ」

「なんでもいいから陸上でなんか賞とってよ。あるでしょ、市民マラソンでも一般向けの陸上競技大会でも。どうせ無理なんでしょ、お年だから走れないってさっき自分で言ったもんね?」


 ユメはへへーんと胸を反らして勝ち誇る。


「ゆ、ユメちゃん。さすがに駆さんがそんな子どもみたいな安い挑発に乗るわけが」

「ふん。そこまで言うなら入賞してやるよ。その代わり、お前たちも走るんだ」


 乗った。

 小学生みたいな安い挑発に。

 ミチルも母も、挑発したユメも一瞬固まった。


 父に言われた言葉を頭の中で繰り返す。


「…………ねぇ、父さん。お前たち? ケンカをふっかけたのはユメだよね」

「連帯責任っていう言葉を知っているか。お前が歩からメダルを受け取ってこなければこんなことにならなかったんだ。美優。お前もな」


 子どもみたいなことを言い出した。

 本来はこういう口調なのか、ミチルと年近い青年と変わらない、斜に構えた話し方だ。


 母は陸上大会に参加することになったのに、嫌がるどころか、やる気だ。


「あらら〜。わたしも走らないといけないのね?」

「引退して長いから、かけっこすらできなくなったのか。なぁ、マネージャー」

「そうね。わたしも久々に走りたくなったわ」


「スポーツウェアとスニーカーを買わなきゃ。ミチルとユメちゃん、お揃いで色違い買いましょう。チームっぽくていいでしょう?」

「わーい、お揃い! それじゃあ、あたしこれ欲しい! ミチルちゃんもこれ見て!」

「ねぇちょっと、本当に……本当に私も走るの? 学校のマラソン大会最下位から数えたほうが早かったんだけど」

 

 ユメもやる気で、さっそくスマホでスポーツウェアを検索した画面を見せてくる。

 父に走ってほしいと言ったけれど、自分も走りたいなんて言っていない。

 どうしてこうなった。



 父はメダルと宝箱をポケットに押し込んで立ち上がった。


「ちょっと出てくる」

「あら、どこまで行くの?」

「ちょっとはちょっとだ。いちいち説明しなくてもいいだろう」


 

 母の問いかけにぶっきらぼうに返し、革靴をはいて出ていった。



 きっと、歩に会うために。

 

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