【7】メルヒオール王国
「昨夜はちゃんと寝たのか?」
レクスが執務室に入るなり、先に到着していたキングが言った。
昨夜の悪夢が頭の中を過ぎる。
「……本を読んで、少し夜更かししてしまったんです」
キングの目を見ることができず、デスクに向かいながらレクスは曖昧に答えた。ふうん、と呟くキングはほんの少しだけ不審の表情をしている。
「仕事に支障を来さないようにしてくださいね」
優しさと厳しさをはらんだ声で言うブラムに、はい、とレクスは小さくなって頷いた。
起床したとき、イーリスに目が少し腫れていると指摘された。氷を持って来てもらい冷やしたが、まだ違和感は残っているようだ。それとも、キングが目敏すぎるのかもしれない。イーリスは何も言わずにいてくれたが、問い質されても正直に答えられたかはわからない。きっと答えられなかっただろう。
気持ちの切り替えは苦手だ。だが、夢見が悪いというだけで王の務めを滞らせるわけにはいかない。そんなことがあれば、本当の役立たずと成り果てるだろう。ただでさえ役に立てていないのだから、とレクスはひとつ息をついた。
「西の町から報告書が届いております」
椅子に腰を下ろしたレクスに、ブラムが二枚の報告書を差し出す。その内容は、西の町の治安が悪化しているというものだった。いくつかの事例が記されており、大事ではないが放っておけば危険なものに発展するだろう。
「自警団はどうしているのですか?」
「先の闘争での宮廷騎士の増員の志願で抜けた者が多くいたようで、そこから補填できていないのです。なにせ、教えられる者がおりませんから」
半年前までの闘争、その後の保安のため、王宮にて騎士隊の増員が図られた。次に人間が攻め込んで来た場合を想定して、軍事力の強化も視野に入れた特務だ。志願は騎士の家の者が多いが、一般市民でも応募することができる。自警団に所属する者の中には、宮廷騎士に憧れや目標を懐く者も少なくない。護衛官の配備は主要都市にしかなく、ほとんどの町や集落で自警団が組織されている。護衛官がいつ町では民に指導をして団員にすることが可能だが、そうでなければ団員を増やすのは困難だろう。自警団と言えど、所属するのは一般市民。腕に覚えのある者のほうが少ないのだ。
「自警団と言えど」レクスは言う。「犯罪を取り締まるためには戦う術が必要ですからね……」
「隣町から護衛官を派遣することも可能ですが」
「いえ……」
レクスは思考を巡らせる。自警団はボランティアのようなものだが、宮廷騎士や護衛官への入り口として利用する民もいる。自治体によっては多少の給金が出るらしい。護衛官を派遣することは簡単だが、自警団の組織を必要とする民もいるだろう。ボランティアのようなものと言えど、自警団を蔑ろにすることはできない。
「宮廷騎士をふたり、派遣してください。その騎士に民を指導させて、増員を図ってください。それでも駄目なら、新しく護衛官を常駐させましょう」
「はい。では、そのように」
新しい護衛官を常駐させるほうが早いし確実だ。しかし、護衛官は治安維持に特化した人材であるため、民を指導して剣術を教えるというようなことはできない。指南役に宮廷騎士を派遣して自警団員の増員を図れば、狭き門である宮廷騎士を目指す入り口を提供することもできるだろう。
手配のためにブラムが執務室を出て行くと、レクスは次の報告書に手を伸ばしながら溜め息を落とした。
「疲れているのか?」
本から顔を上げたキングが言う。
「あ、すみません、仕事中に溜め息なんて……」
「いや。これだけ仕事があれば、溜め息つきたくもなるさ」
キングは相変わらず優しい。その分、昨夜の夢が現実味を帯びていく。あんな本心を隠しているかもしれないと思うと、どうしようもなく怖い。それを確かめる勇気はない。もし同じことを目の前で言われたら、その瞬間にすべてが崩れてしまう。息が止まるかもしれない。王の座を退かざるを得なくなるだろう。もしそれがキングの望みなら覆すことはできないが、それを恐れて投げ出すことは許されない。
「お前は物憂げな表情すら可愛いな」
「……キングの目には、特殊フィルターがかかっているみたいですね」
「謙遜するな。お前は魔族イチ可愛いよ」
「嬉しくないです」
いつか、こんなやり取りすらできなくなる日が来るのだろうか。
* * *
気持ちの切り替えが得意でないレクスは、相変わらず昼食の席でも仕事のことを考えてしまう。それじゃ休憩にならないじゃないか、とキングは言うが、待っている大量の仕事がレクスの意識を持っていくのだ。もっと効率良く仕事をこなすことができれば、それも改善されるのかもしれない。
昼食と食後のお茶を終えて執務室のデスクに戻ると、ブラムが一枚の書類をレクスに差し出した。
「件の人間から、視察を受け入れるとの返答が来ました」
「そうですか。それじゃあ、日程を決めましょう」
書面には、人間は魔族を歓迎するという旨が記されている。先日の関所での一件では、外交を結びたいとの書面が届いた。この視察でその一歩を得たいということだろう。
「二日後に組み込めますが、いかがでしょう」
「そうしてください」
「かしこまりました。では、被衣を用意しておきます」
ブラムの言葉に、キングが首を傾げた。
「なんで被衣?」
「レクスの顔を知られないためです。それから、人間の信用度を測るためです」
「ふうん?」
「今回の視察は、人間が信用に値するか見極めるためのものです。正式な外交ではありませんし、何より、レクスの顔が知れて暗殺にでも来られたら困りますから。それに、レクスが顔を隠すことを尊重すれば、敬意を払っていることになります」
「なるほどね。まあ、レクスの可愛い顔を人間のお偉方の不躾な視線で穢すわけにはいかないからね」
レクスが城でひとりきりになることはないが、万が一ということもある。もし人間が複数人で暗殺に向かって来た場合、レクスはひとりで打ち勝つことができない。これがキングであれば話は別だ。キングは何人で襲撃して来ようとひとりで勝利することは容易いだろう。首を捻っているところを見ると、キングが外交の際に被衣を着用することはなかったようだ。
「私も同行するよ」
キングが朗らかに言うので、レクスは首を横に振る。
「さすがに今回は連れて行けません。魔族のために、キングがご健在であることは隠しておきたいですから」
「それ、そんなに重要なことかなー」
「人間は魔王を討伐したと思っています。魔王が生きていると知れば、手のひらを返して再び戦いを挑んで来るかもしれません。敵対関係になるよりは、いまの曖昧な関係のほうがいいと思います」
「しっかりしてるなー、レクス。そこまで考えてるなんて」
「キングが考えなしなだけですよ」
厭味たっぷりで返したレクスに、それはそう、とキングはおかしそうに笑う。相変わらず厭味の効かない人だ、とレクスはひとつ溜め息を落とした。
「この国の文明は、人間の国より遅れています」レクスは言う。「できれば人間の知恵が欲しいところですが、魔族の人間への信用を得るには時間がかかります」
レクスは人間の暮らしを直接に見たわけではないが、いままでの報告書を見る限りそれは明らかだった。魔族はもとより魔法で生きて来た種族。文明の遅れはそのためだろう。裏を返せば、魔族は魔法でなんでもできてしまうのだ。だが、それでは国の発展につながらない。この先も魔族の国が存続していくため、文明の進化は必要なことだろう。
「視察の結果如何で、人間の視察団を受け入れてみてはいかがですか?」
「そうですね……」
「魔族の人間に対する信用は、レクスが人間の本質を見極めることで改善に進ませることも可能かと」
「……ですが、メルヒオール王国には勇者がいます」
外交を希望して来た国は、勇者を嗾け戦争を挑んで来たメルヒオール王国だ。そんな国が友好を示して来たのだから、まさに手のひら返しといったところだろう。
「もしメルヒオール王国が再び勇者を使って私を討伐しようと目論んでいるなら、友好関係を結ぶのは難しいでしょうね」
「それはないと思うよ」
あっけらかんと言うキングに、レクスもブラムも揃って不審の視線を向ける。
「メルヒオール王国はつい最近、王が代替わりした。それに正直なところ、魔族総動員で掛かれば滅ぼすのは容易い国だ。メルヒオール王国が再び魔王討伐を企てているなら、自殺行為だよ」
「それに気付いていない可能性は?」
「私との戦いでわかっているはずだよ。なにせ、私のもとへ辿り着けたのが勇者パーティの三人だけなんだから」
先の戦いで、メルヒオール王国は多くの軍勢を魔族の国へ送り込んで来た。その中からキングのもとへ辿り着けたのが勇者パーティの三人だけだとしたら、あまりに実力不足だ。キングの言う通り、魔族の力で圧倒することができるだろう。
「それに、次に魔王討伐をしようものなら、もうこちらに遠慮する必要はなくなる。国交の申し出がそのためのものだとしたら、見通しが甘すぎる。賢い王ならしない選択だよ」
なるほど、とレクスは小さく呟く。確かに、賢い王なら敵対より和睦を選ぶだろう。とは言え、魔族の人間に対する心証を察せられていないところを見ると、認識の甘さが顕著なのではないだろうか。
「まあ、何にしても」キングは肩をすくめる。「この視察で人間の本質と目的を見極めることだね」
「私は人間のことをよく知りません」
「知らないからこそ見えてくるものがあると思うよ。レクスが感じたことでいいんだ」
「…………」
自分の判断が魔族の未来に影響すると考えると、重圧を感じざるを得ない。人間の本質を見抜けなければ、魔族の不利益になる可能性もあるのだ。自分にそれだけの感性があるかと言うと、レクスには甚だ疑問だった。