【6】間違いだったよ
視察から戻り昼食休憩を挟んだあと、レクスはいつも通りデスクで報告書を手に取った。しばらく彼を眺めていたキングも、視線がうるさい、とレクスが怒ってからは大人しく本を読んでいる。ブラムとカルラは、デスクの上の書類をレクスが取りやすいように丁寧に整えた。特に急ぎの報告書はないようだ。
問題のある町はいまのところ南の町の報告があるだけ。南の町も、雨乞いの儀式をすることで解決に向かうと思われる。しかし他の町も、今回の件のように何か見落としがあるかもしれない。王宮に対して隠し立てすることはないだろうが、南の町の民も問題の原因に気付けていなかった。視察に向かうべき場所がまだあるかもしれない。
報告書に記されていなければ、その町がなんの問題を抱えているか気付くことはできない。そう考えると他の町にも視察に行くべきだろうが、視察に行ける時間は限られている。民に会いに行く時間が無駄だとは思わないが、問題のない町に行くと他の仕事に割く時間を削ることになる。それなら、報告書を信じるべきなのだろう。
「レクス。お茶を淹れました。少し休憩なさってはいかがですか?」
ブラムの優しい声で、レクスは顔を上げる。報告書に集中しすぎていたようだ。
集中していたおかげで報告書をいつもより多く片付けられたが、目が疲れてしまった。紅茶をひと口啜り、少し休めようと目を閉じる。これくらいで疲れてしまうなんて、自分の能力の低さを痛感させられる。
「そろそろ王都で収穫祭の準備が始まるね」
キングがそう言うので、レクスは顔を上げた。
「そうですね。そちらも様子を見に行かないといけませんね」
王都で開催される収穫祭は、この国の中で最も大規模な祭りだ。大昔は人間も招かれて大盛況だったらしいが、現在では魔族のみが国中から集まって来る。きっと今年も賑わうことだろう。
収穫祭では毎年、何かしらの問題が起きる。人手不足だったり、不作による農作物の出品の減少だったり、材料不足だったり。王宮はその問題に対処しなければならない。今年も報告書が山ほど届くだろう。もちろんレクスだけでは対処しきれない。部下たちが忙しなく動き回ることになるだろう。
それも報告書だ。次回の収穫祭はレクスが就任して初の開催となるが、収穫祭のように期間の限られた報告書には即座に対応しなければならない。せめて部下たちの負担を減らすことができればいいが、自分にそれだけの能力が見込めないことはレクスは自覚していた。
「レクス」
「はい」
レクスが視線をやると、キングは手を広げた。
「おいで」
一瞬だけ呆けたレクスは、慌てて室内を見回す。いつの間にかブラムもカルラもいなくなっていた。なぜそんなところで息が合うんだ、と考えているとキングがまた促すので、レクスは重い腰を上げる。レクスが膝に乗ると、キングは満足げに彼の腰に腕を回した。
「私の可愛いレクス。何をそんなに考え込んでいるんだ?」
本を読んでいたはずなのに、とレクスは考える。おそらく本を読んでいるふりをしていることに自分が気付いていなかったのだろう、と考えると無性に悔しかった。
「……やはり、私は王に向いていません」
報告書を信用することができず、何か問題を抱えているのではないかと考えてすぎてしまう。報告に上がっていないことを探ろうとするのは時間の無駄だ。もしかしたら、自分が未熟で頼りない王だから、民も信用していないのかもしれない。
そう話すと、キングは肩をすくめた。
「初めから完璧な王なんていない。お前はまだ就任して半年だ。駆け出しの王なんてそんなものさ。信用だって、これから得ればいいだろう?」
キングは慰めるようにレクスの頬を撫でる。それでもレクスの気分は晴れず、顔を背けるように俯いた。
「それに、王宮に報告しないのが不利益だということは民もわかっている。ひとつひとつに真摯に応じていればそれでいいんだよ」
それはその通りだろうと思う。就任から半年で完璧な王になれるとは思えないし、王宮の体制はキングの頃から変わっていないので民も信用しているはずだ。信用に足らぬ王だからと言って、報告を怠ることはないだろう。
「王宮は信用できるかもしれませんが……」
王宮を統べるのは、結局のところ魔族の王。現在ではレクスだ。王宮への信頼は自分にかかっているのではないかとレクスは思っている。王宮を頼りにしていた民が、現王に期待できないと判断すれば、民の心は王宮から離れるのではないだろうか。
キングはレクスの頬に手を添え、彼の視線を引き上げた。
「信用を勝ち取りたければ、まずは自信を持て。自信のない者を民は信用しない」
優しくも厳しさを湛えた真紅の瞳に、レクスの視界が滲む。
「……私よりもっと優れた者がいるはずです」
温い涙が頬を伝う。キングの言わんとすることはもちろん理解しているが、それが理想論でしかないことも知っている。レクスの実力が追いつかなければ意味がないのだから。
そうして俯くレクスに、キングは愛おしむように優しく目元を指で撫でた。
「それはそうかもしれないが、民のことを第一に考えて尽力するお前は立派な王だよ」
「そんなこと、誰にでもできます……」
次々と溢れてくる感情に、情けない、とレクスは心の中で自分に毒づく。だからいつまで経っても未熟なままなのだ。向上心だけでどうにかできるほど、王の座は甘くない。実力が身に付かなければ向上心も意味を成さない。それはわかっている。
「誰にでもできることから始めるのでもいいじゃないか。結果を急ぎすぎだ。お前は私が選んだ王なんだから」
キングはそう言って、あやすようにキスをする。それから、優しく微笑んでレクスの目元を指でなぞった。
「理性が働いているうちに泣き止んでほしい」
「なんですか、それ」
引き気味に顔をしかめるレクスに、キングはまた穏やかに笑った。そうしてレクスの気を紛らわせようとしているキングの思惑にまんまと乗せられて、レクスはまた悔しい気分になった。
キングの期待に応えたい。いつも懐いているそんな気持ちとは裏腹に、手も頭も動きが遅い。こなした仕事の量より新しい任務が増えていくほうが早いように思う。本当に自分が王でいいのだろうか、そんな自分への不審ばかりが募っていく。こんなことでは民を不安にさせてしまう。自分はレクスの名に相応しくない。その名に釣り合う者が、もっと他にいるはずだ。
* * *
気が付くと、真っ暗な中に佇んでいた。右も左も、前も後ろも暗闇が広がっている。なんの音も聞こえない。しんと静まり返った闇の中、ただひとり、立ち竦んでいる。心臓が頭に移ったかのように、鼓動だけが騒がしい。
辺りを見回している彼のそばで、突如として闇が実体を持った。
『お前は王に相応しくない』
悍ましい声が耳の奥を突き刺した。男、女、子ども、すべての声が何重にも響き渡る。不快な不協和音に足が竦んだ。
『ひとりではなんの役にも立たないくせに』
闇が彼を取り囲む。四方八方から責め立てる混声に視界がぐらりと歪んだ。見えない何かが、彼の胸を締め付ける。
『お前が民のために何ができると言うんだ』
彼は耳を塞いだ。それでも、無遠慮で不躾な罵倒が手をすり抜ける。耳の奥に直接に滑り込むような声は、止めどなく彼を責め立てた。
そうしているうちに身動きが取れなくなって、彼はその場に屈み込んだ。喉の奥に張り付いたように言葉が出てこない。やめてくれ、と心の中で叫んだ。その叫びも、無意味な空間に消えていく。
そんなことは、自分が一番よくわかっている。痛いほどに実感している。誰になんと言われようと、自分が役立たずであるという事実は消えない。そんなことはわかっている。
『お前はキングの期待に応えることはできない』
息ができない。酸素を失った肺に圧迫されたように涙が出てくる。雫が落ちた足元で波紋が広がった。それに合わせるように溢れて来る不協和音。まるで耳元で囁かれているようだ。
『お前はキングを失望させる』
『ほら、キングだって――』
どくん、と心臓が大きく跳ねて止まった。視界が歪む。
『――お前を王に選んだのは間違いだったよ』
* * *
大きく息を呑んで、コーレインは覚醒した。
カーテンの隙間から、仄暗い月明かりが漏れている。風もないのにチェストのランプの光が揺らめいた。
鼓動が早鐘のように脈打って胸が痛い。短い呼吸を繰り返すのに合わせ、涙がとめどなく溢れてくる。ベッドの上に体を起こすと、まるで鉛のように重かった。
なんて酷い夢だ。
(……もし、あれが……キングの本心だとしたら……?)
そんなことを考えただけで、騒がしい心臓がいまにも止まりそうだ。息が苦しく、頭の血管が弾けそうなほど痛い。
もしかしたら、夢ではないのかもしれない。そう考えると息が詰まった。悪夢だなんて、都合の良いように解釈しているだけなのかもしれない。この部屋の外で、誰かが同じように囁いているのではないだろうか。それが事実なのだから、コーレインに否定する術はない。
誰か、と呼び鈴に手を伸ばして、すぐに思い留まった。この鈴を鳴らせば誰かが来る。自分の夢見が悪いだけで誰かの眠りを妨げていいなんてことがあるはずはない。
枕に顔を埋める。そうしていれば、いつか朝が来る。
悪夢かどうか、朝が来ればすぐわかる。目の前の真実が捻じ曲げられることはなく、目に映るすべてが真実。だからこそ、この目を開くのが怖かった。あの闇が待ち受けていたとしたら。彼がそれに打ち勝てるはずはなく、きっと支配されるばかりなのだろう。そう考えると、ただ恐ろしかった。