【10】人間の町
『やはり私もついて行くよ』
駄目ですよ、という言葉は喉に張り付いたまま、声にならない。目を逸らすことは叶わず、ただ見つめることしかできない。背筋に嫌な汗が伝った。
『レクスは弱いからな。人間の手にかかれば一捻りだろう?』
辺りが闇で溢れ返る。まるで霧が立ち込めるようにその姿も虚になり、体が動かなくなった。声は喉の奥に詰まったまま。
笑う顔が、見る間に冷たく変わる。その瞳に射抜かれ、体が氷に包まれたようだった。
『そんな弱い王はいらない』
――ほら、あなたも怖いんでしょう?
ふたつの響きが重なる。いつも甘く愛を囁く音色と、もう一度でもいいから聞きたいと願った旋律。
『お前の存在が魔族にとって悪影響だとなぜ気付けない?』
――民の役に立てただなんて、よくもそんな妄想を懐けたものね。
体が凍り付いたまま耳を塞ぐことができず、その声は頭の中で不協和音を奏で続ける。
『早く王の座から降りてくれ』
――あなたに王は相応しくない。
これが自分の求めていたものの答えなら、願いなど捨ててしまえばよかった。望んだものが手に入らないなら、希望など懐かなければよかった。
『あの子が死んだのもお前のせいだ』
――私のことを救えなかったくせに。
* * *
叫びそうになるのを堪えながら飛び起きた。胸の鼓動は激しく、いくら呼吸を繰り返しても苦しい。全身が汗だくで、顔は涙で濡れている。
(これが、あの子の望み……。あの子は、役立たずな僕を憎んで……)
声を上げそうになって、枕に顔を埋めた。
あの子の力になれたことなど一度もない。役立たずな自分をあの子が恨んでいてもおかしくはない。
「……ユリア……」
できるならば、もう一度、あの子に会いたい。そのためなら王の座など投げ捨てることができるのに、それは許されることではない。それが二度と叶わぬことなら、なんのために魔族の王の名を冠したのだろうか。
* * *
翌日。カルラに被衣を被せられ、人間の町へ視察に向かう準備が進められる。今回はブラム、フィリベルト、ルドが同行することになっている。
「いいか、レクス」キングが重々しく言う。「知らない人間に声をかけられても、ついて行くんじゃないぞ」
「知らない人間しかいませんが」
キングは心配しすぎだ、とレクスは思う。魔族の中で二番目に強いと称されるブラムがいると言うのに、何をそんなに案じているのだろうか。
心配そうなキングに見送られ、馬車が城の門から出て行くと、その途端にレクスは緊張感に襲われていた。人間の国へ行くことも、それどころか国を出ることさえ初めてで、キングがそばにいないこともレクスを不安にさせた。
「緊張しなくとも大丈夫ですよ」
ブラムが優しい口調で言うので、レクスは顔を上げる。
「今回は外交ではなく、ただの視察です。肩肘を張る必要はありません。それに、今回はレクスは何も発言をしなくても構いません」
「発言をしない?」
レクスが首を傾げると、ブラムはくいと眼鏡を上げて言った。
「人間は姑息ですから。発言を自分たちの都合の良いように解釈するかもしれません。特に、王の発言は重大です。会話のやり取りは私にお任せください」
「わかりました」
正直なところ、発言をしなくていいというのは助かる。何を話せばいいか一切わからないからだ。それに、ブラムの言うように、迂闊な発言はできない。レクスにそれだけの話術はない。ブラムに任せておけば問題ないだろう。
「握手などにも応じないでくださいね。友好の証だと取られる可能性もありますから」
「わかりました」
* * *
キングは執務室でぼうっと空を眺めながら、いま頃レクスはどうしているだろう、と考えていた。いまはまだ馬車の中だろう。もし人間にレクスを害する気があるなら、今度こそ滅ぼしてやる。レクスには、私情を挟むなと怒られるだろうが。
「失礼いたします」
その声でキングは考えるのをやめて振り向いた。執務室に入って来たのはイーリスだった。いつもの穏やかな色を消し、少し険しい表情を浮かべている。
「キング、ご報告がございます」
「報告? 私に?」
首を傾げるキングに、イーリスは真っ直ぐに彼の目を見据えた。
「レクスのことで」
「――!」
キングが居住まいを正すと、イーリスは静かに話し始める。
「ここのところ、レクスが毎晩うなされています。起こそうと思っても起きることがなく、私が部屋を出た頃に目を覚まされ、ユリア、と呟いて泣き続けるのです」
「ユリア……聞き覚えのある名だ」
「レクスの妹君ですわ」
キングは思考を巡らせる。着任してから、レクスからそんな話を聞いた記憶はない。それ以前、と考えたところで、キングは顔を上げた。
「レクスが開発を頼んで来た特効薬を必要としていた少女か」
キングがレクスの村を視察で訪れたとき、レクスは薬の開発を頼んで来た。妹が病気で、それが国に難病として認定されているものだった。国の研究所で薬の開発が進められているものだったが、それを知らないレクスがキングを頼ったのだ。
「特効薬の開発はいまでも進んでおります。ただ……ユリア様は、レクスが王宮に召し上げられる直前に亡くなっております」
「――……」
* * *
人間の国の末端の町に到着すると、人間たちが物珍しそうに遠巻きに一行を眺めていた。不躾な視線に晒されながら、レクスはルドの手を借りて馬車を降りる。被衣のせいで足元がよく見えない。
「魔族の王、よくお越しくださいました。わたくしは外務官のバーレントと申します」
歩み寄って来た大柄な男――バーレントが握手を求めて手を伸ばすのに対し、レクスは応えなかった。まだ握手を交わす間柄ではない。バーレントは肩をすくめるだけだった。
「王都では人間が多すぎて視察にならないと思い、魔族の国と近いこの町を選びました。いかがですかな?」
「…………」
レクスは首を縦に振ることも横に振ることも許されない。それはそれで忍耐力を要することだった。
「今日は紹介したい者たちがいるのですよ」
そう言ってバーレントが手のひらで差した先に、三人の若い男女が控えている。明るい茶髪と青い瞳の青年、綺麗な金髪をウェーブにして肩にかける少女、短い黒髪の細身の青年だ。
「こちらは、勇者パーティの者たちです」
バーレントの言葉に、レクスは背筋がぞわりと凍った。
勇者パーティ……つまり、この三人がキングを討伐したのだ。
目を逸らしながら前へ進み出た勇者パーティの三人に、ブラムが警戒してレクスを背に庇う。バーレントは卑しく笑っている。この状況を面白がっているような表情だ。
「どういうつもりですか」
「いえいえ、新しい魔王にもお会いしていただこうと思ったまでですよ」
ブラムは不快感に顔をしかめる。そんな中、レクスは勇者パーティの三人を観察した。
どうやら彼らは嫌々でついて来たようだ。彼らの表情がそれを物語っている。何より、彼らは丸腰だ。戦う意志はそもそもない。これは、魔族の仇討ちを狙っているということ。つまり、人間に魔族と友好関係を結ぶつもりはない、ということだ。
「帰りましょう。意味のない視察でした」
ブラムが踵を返す。おやおや、とバーレントが笑う。
「人間の国はいかがですかな、魔族の王」
挑発するように言うバーレントに、レクスは何も言わずに背を向けた。何も言う必要はない。
馬車に乗り込むと、ブラムが深い溜め息を落とした。
「おかしいと思ったのです。キングの戦いでは、人間側から攻撃を受けて始まりました。だと言うのに、いまさら友好関係を築きたいなど……。キングが拒絶すると断言していないのをいいことに、調子に乗らせてしまったようですね」
今度は魔族側から攻撃を仕掛けさせ、自分たちの行動を正当化しようとしている、ということだ。レクスが勇者パーティに激昂して攻撃を仕掛けると思っていたのだろう。
「勇者パーティの三人が可哀想でしたね」
レクスは呟くように言った。勇者パーティの三人は人間の思惑に巻き込まれたに過ぎない。丸腰で魔王の前に立つなどということは、恐怖がないことではなかっただろう。
「もし、したくもない戦いを強いられたのなら、彼らもまた被害者なのかもしれませんね」
「だからと言って、彼らに同情する魔族は多くないでしょう。少なくとも、キングは彼らに討伐されたことになっているのですから」
「……そうですね。国には改めて、外交拒否の書面を出しましょう」
「承知いたしました」
時間の無駄だったと言えばそうだが、人間の本質を見極めるという点では意味があったのかもしれない。人間が魔族に対していまだに敵意を懐いていることはよくわかった。人間に友好関係を築く気がないということ、その必要がないことも判明した。それらは魔族にとって重要な意味があるのかもしれない。そう考えれば、まったくの無駄だったというわけではないだろう。
* * *
「おかえり、私の可愛いレクス」
執務室に入るなり、キングがレクスを抱き締めた。
「人間に何もされなかったか?」
「特に、何も」
今回のことはキングには話さなければならない。だが、帰還を喜ぶ立ち話ではなく、きちんと席を設けて説明するべきだ。そう考え、レクスは首を横に振った。
カルラが丁寧に被衣を脱がせ、レクスはようやくひと息つく。頭が重くて肩が凝った。緊張で体に力が入っていたこともあるだろう。
「お食事のご用意がありますわ」と、カルラ。「どうぞ食堂に」
「ありがとう」
この日、改めて外交拒否の書面が送られ、人間の国からの返答は途絶えた。




