聖誕祭の夜
雪がふわふわと舞う、聖誕祭の夜のことでした。
少女は冷たくて痛くなってきた手に、白い息を吐きかけました。
少女は先程まで白い口ひげの紳士の靴を磨いていました。紳士の靴の汚れは頑固なもので時間がかかってすっかり夜になってしまいました。
今日は冬の聖誕祭です。高貴な人々は大きなお邸に集まり、街の人々は皆家族と温かな食卓を囲みます。少女には優しい母親がいましたが、病弱で働くことが出来ません。
貧しい家に生まれてしまったことを恨んだこともありましたが、少女は母親を愛していましたので、毎日口に糊して靴磨きをしに街角に立つのでした。
あぁ、真っ暗になってしまったわ……。
少女は靴墨で所々汚れた手を摺り合わせました。昼間は晴れていい天気でしたが、今は雪がちらついています。「わ、お母さん見て! 雪だよ!」と喜ぶ子どもの声がどこからか聞こえ、次いで「本当ね、さ、冷えるから入りなさい。今日はご馳走ですよ」という母親らしき声もしました。
少女は寒さに冷え切る体をさすりながら、母親の待つ家へと急ぎました。
街の中はオレンジや赤の灯りがそこかしこに飾られていて、通りの家々からは冬の神様にお祈りする声や楽しげな笑い声が溢れていました。歩きながら家々の窓を覗いていた少女は、これから帰る満足な食事のない灯りさえ少ない家を思い、薄くため息を吐きました。母親に早く抱きしめて欲しい気持ちと帰りたくない気持ちが混ざり、足取りが重くなります。
一際大きなお邸の玄関の前を通ったときでした。
明るい美しい音楽が聞こえる中、少女はそのお邸の窓かどこかがバタン! と閉まった音を聞きました。それと同時に、少女の目の前にドサ、と木が落ちてきました。
「まぁ」
それは彼女の背丈の半分ほどの聖樹でした。この街の人々は、聖樹と呼ばれる木に向かって冬の神様にお祈りを捧げます。それなのに聖樹を外に投げ捨てるなんて!
少女は驚いてお邸の窓という窓を眺め、玄関から誰かが慌てて飛び出して来ないかしばらく待ちましたが、誰も拾いに出てくる気配はありません。少女は恐る恐る、そのゴツゴツの幹に手を掛け、チクチクの枝に頬を擦りながら木を抱えて歩き出しました。
なんて幸運なんだろう……!
少女は聖樹を抱えて口元に微笑みを浮かべました。
聖樹は冬の神様の宿る木ですから、手に入れるにはたくさんのお金が必要だということを、少女は知っていました。
一体何足磨けばいいかさえ分からない! あぁ、早くお母さんに見せてあげよう。
少女はまるで1日街角に座っていた疲れや、先程感じたわびしさなど感じなくなったように足取り軽く森へ入っていきました。少女の家は、ひっそりとした森の中にありました。
ふわふわと石畳に舞っていた雪は、いつしかしんしんと足元を濡らし、少女が気づいた頃には彼女の栗毛を真白に染めていました。森の道は灯りひとつないので、道に積もった雪がその道を照らすようでした。
体の表面が濡れて冷え、重く抱え慣れない荷物に手が痺れてしまったとき、ようやっと家が見えてきました。
早く母さんに見せたいわ。きっと母さんなら喜んでくれる!
少女はそう思いながら懸命に荷物を抱え、母親の待つ家の木戸をくぐろうとしてふと、本当に喜ぶかしら、と心配になりました。
もしかしたら母さんも、本当は明るい灯りの中で美味しいご馳走を食べたいんじゃないかしら……
1度そう思ってしまえば、腕に抱えている聖樹が貧相に見えてきました。
今日は聖誕祭なのに、こんなただの木じゃ、母さんは喜ばないわ。そうよ、聖樹の飾りを探しに行こう!
少女の目蓋には街の家々に飾られた聖樹のきらびやかな姿が浮かびます。少女は、靴磨きの道具を雪の上に置き、窓からそっと母親が眠っているのを確認すると、聖樹を抱えて今来た道を再び歩き出しました。
目蓋に浮かんだキラキラとした赤や白、そして黄色の飾りをどこで手に入れるか、少女はさくさくと雪を踏みしめながら街の灯りを目指しました。頭に積もった雪が彼女の体温で溶け、額や耳の裏から雫を流します。それに時折ひやりと肩をすくませながら、少女は歩き続けました。
もうすぐ街の入り口というとき、突然景色が明るくなりました。
重く垂れ込めた曇天で、雪の白さが灯りになる程の夜でしたが、その雲がサァ、と晴れ渡ったようでした。雪がピタリとやみました。少女は視界が明るくなったことに驚き、自分の影が黒々とするのを見、思わず空を振り返りました。
蜂蜜を垂らしたようなまろい月が出ていました。
「あぁ、あれを飾りに出来たらいいのに」
少女は思わず声に出し、でも無理ね、と葉のチクチクに顔をしかめて歩き出そうとしました。ですが少女はどこからか声が聞こえるような気がして、足を止めます。それは聖樹の枝から聞こえるようでした。
「ね、森の湖に取りに行けばいいよ」
よく見れば何かのサナギのようでした。サナギから声が聞こえるなんて、と少女は自分の耳を疑いましたがやはり声はそれから聞こえてきます。
「ねぇ、湖の氷に月を映せばいいよ。きっとまあるい飾りが出来るよ」
「……ほんとう?」
「なんで僕が嘘を言うのさ。早く温かい家の中へ入ってもらいたいってのに」
聖誕祭の夜は、不思議なことが起こると決まっていました。ですから少女も心底不思議に思いましたが、サナギの明るい口調も手伝ったか、言う通り湖に行ってみることにしました。
雲が晴れたせいか森の夜は明るく、少女は迷うことなく先を急ぎました。サナギは見た目によらず大変おしゃべりで、寒くて凍えそうな体を忘れさせてくれました。
「それで何色の飾りが欲しいんだっけ」
「黄色と赤と……白かしら」
「黄色はお月さん、赤はアレでいいけど、白か。ちょっと思いつかないなぁ」
「白は難しいの?」
「今は冬だろ? 白は冬の神様の色だから、今の時期は神様の降らせる雪しか持ってないんだ」
「そう」と答えながら、少女は深く納得していました。確かにそうだろうと思ったのです。
そんな話をしている内に湖に辿り着きました。湖は静謐に沈み、水面は薄く氷が張っていました。夏であればさざめくような水面に月がてらてらと揺れるのでしょうが、今は雪の降りる冬です。
サナギは「どう、凍ってる?」と少女に尋ね、湖の水面が確かに凍っていることを確かめると「氷に乗ってご覧」と言いました。
少女は、氷が割れてしまわないか少し心配になりましたが、サナギが見透かしたように「大丈夫。今日は月が出てるから」と胸を張ったようでした。
恐る恐る、雪ですっかり濡れた靴先を乗せました。しゃり、と美しい音。少女はゆっくりと歩を進め、湖の上を歩きました。
月が霜の降りた氷の水面に映っていました。
とろりとした月の姿は、氷に映ると白さを増して、まるで磨り硝子に金を包んだような美しさでした。
「さ、聖樹でそれを撫でてご覧」
サナギの言う通りに、少女は木の幹を握りしめてしゃり、しゃりと氷の月を撫でました。するとどうでしょう。撫でる度、彼女の手のひらくらいの小さくまるい月がコロ、と出てくるのです。少女は「わ!」と喜び、何度も何度も聖樹で氷を撫でました。撫でるほど、氷は削れていくようでした。すっかり氷が薄くなって、水面が目に見えてへこんでしまうと、やっと少女は手を止めました。
少女の周りには、磨り硝子で蜂蜜を閉じ込めたようなまあるい月が転がっています。触れると凍りきった氷のように、手にピタリとつき、聖樹の枝にも同じようにくっつきました。
少女はせっせとそれらを枝に飾り、よく見ようと本物の月の光にかざしました。静かな白い光が、小さな聖樹の飾りをまるで本物のように輝かせました。きらりきらりと細かな霜が繊細に光ります。
「なんてきれいなの!」
少女が残った月の飾りを1つ前掛けに仕舞ったとき、氷を削りすぎたからでしょうか、湖の水面にヒビがはいりました。サナギが気づいて「危ない!」と叫び、少女はすぐに走り出したので、湖に落ちないで済みました。
「赤はヒイラギの実で決まりだよ」
サナギはまた胸を張ったようでした。
「でも、どこを探せばいいの?」
「もちろんコマドリのところさ」
そうサナギは道中機嫌良く教えましたが、少女の歩く先にヒイラギの赤と緑が見えた頃には「僕がコマドリに食べられないように隠しておいてね」と口を閉ざしました。
ヒイラギの実は、月に照らされて艶々と光っていました。その赤は、鋭いトゲを持つ葉の緑に映えて燃えるようでした。
「きれい」
思わず呟いたとき、ヒイラギの茂みが囲む大きな木の洞から、小さなコマドリが顔を出しました。
「誰ですの? 聖誕祭の夜に出歩くなんて」
コマドリは洞の縁に足を掛け、居丈高にその赤い腹を見せながら言いました。
「あの、ヒイラギの実を分けて頂けないでしょうか」
少女はかしこまっていいました。コマドリの言いようが、まるで裕福な奥様のようだったからでした。
「その手に持っているのは聖樹ですね。あら、氷の月をつけているのですね。ふぅん、まぁいいでしょう。ヒイラギの実を飾りに選んだことを褒めて差し上げます」
「ありがとうございます、奥様」
少女は思わず頭を下げてお礼を言いました。そして急いで茂みに手を伸ばし、少女の親指ほどの艶々と美しい赤を摘み取りました。どうやらこのヒイラギも特別な物らしく、実を摘むとちぎった部分からたら、と甘い香りの蜜を滴らせました。そしてそれが糊となって聖樹の枝に上手くくっつくのでした。
少女は手に付いた甘そうな蜜を舐め取りたい気持ちを我慢しながら、どんどん実を飾っていきます。ふと見上げると、コマドリも満足そうにこちらを見ていました。それにホッとしたとき、少女は手を滑らせて聖樹をヒイラギの茂みに落としてしまいました。少女の両手は、長いこと冬の夜を彷徨ったせいで、真っ赤にかじかんでいましたから。
「いたたたた!」
サナギが、運の悪いことにヒイラギのトゲに触れてしまったようでした。
「誰です? まさか! それをわたくしに食べさせなさい!」
少女はすっかり枝に飾りをつけ終わっていましたので、慌てて聖樹を抱えると「失礼します、奥様!」と元来た道を駆け出しました。ですが「お待ちなさい! それを寄越しなさい!」とコマドリは羽を素早く羽ばたかせて追いかけてきます。サナギが「ヒイラギの実を投げるんだ!」と震えながら叫び、少女は聖樹から赤い実をちぎっては投げました。少女は夢中で飾り実をつけ過ぎたので、少しちぎったくらいでは無くなりません。
コマドリは飛びながら、実をその小さな嘴で捕まえては食べ追いかけてきましたが、少女が街の灯りが見える道に戻った頃には羽ばたきひとつ聞こえなくなっていました。
少女は重い聖樹を抱え、雪の積もる凍りそうな夜の中を走ったせいで、もう立ち上がれないほどくたびれてしまいました。
「大丈夫かい。守ってくれてありがとう」
サナギは、コマドリへの恐怖にまだ震えるように少女を労いましたが、彼女は息を切らして目尻に涙を溜めました。
「もう母さんのところに帰りたい……」
「もう1つは要らないの?」
「もう充分よ。早く母さんのところへ帰りたいわ」
「そう」とサナギはまた震えたようでした。少女は何も言わず、月の冴え冴えと輝く雪の道を家に向かって歩き始めました。
「ねぇ」
サナギは話し掛けます。
「もういやよ。あんな怖い思いはたくさん」
「そうじゃないよ」
サナギはなぜかふるふると震えています。少女はその様子に心配になり「どうしたの?」と尋ねました。サナギは何も答えません。
聖樹は氷の月とヒイラギの赤い実を飾られ、きらりきらり、しゃり、ぴかぴか、と空の月の光を反射します。見違えるように飾られた聖樹に、少女は改めて「もう充分よ」とサナギに話し掛けたとき、一際大きくサナギが震えました。
ぴり、とかすかな音がしました。それはほんの小さな音でした。少女はじっとサナギを見つめました。褐色のサナギの背が割れ、中から真白なチョウがゆっくりと身を伸ばしました。透けるような白い体を揺すりながら、チョウは羽を広げ始めました。
少女はその羽化の様子を、息を飲んで見守りました。緊張して、聖樹を殊更握りしめました。
静かに降り注ぐ月の光の下、走ったときの汗が完全に冷え切る頃、チョウはようやくしっかりと羽を伸ばしきり、その色を変え始めました。
透き通るようだった翅脈が線を描き、濃い青の鱗粉が羽を美しく装いました。
「あなた、なんてきれい」
少女は寒さを忘れてチョウの姿に見とれました。
「ありがとう。僕を守ってくれて」
チョウは再び少女に礼を言い、その間にも可憐な羽に美しい模様をほどこします。そうしてすっかり立派なチョウになって少女に言いました。
「白の飾りは見つけられないけど、僕の青をお礼にあげるよ」
と、チョウはふる、と羽を動かした瞬間、ふわりと宙に浮かびました。少女はチョウが彼女の周りをひと周りするのを喜びを浮かべて眺め、その羽が虹色にも見える青い鱗粉を落とすのを見て、抱えていた聖樹を高く掲げました。
「お母さんのところにお帰り!」
白く輝く月の光に、生まれたてのチョウの青い輝きが降り注ぎました。それは聖樹のチクチクする細かな葉に繊細に降り積もり、少し傾けただけでも色を変えささやかに光りました。
なんてきれいなの!
きらりきらり、しゃり、ぴかぴか、きらきら、しゃり……
これなら母さんも喜んでくれるわ!
「あぁ! 見つけた!」
少女は気がつけば温かい母親の胸に抱かれていました。凍るように冷えていた体が、じんわりと溶けていくようです。
少女の母親は、彼女の帰りが遅いことを心配し外に出ました。木戸の前に靴磨きの道具が放り投げられているのを見て、慌てて彼女を探しに出たのでした。もつれる足を引きずりながら息を切れて苦しくなった頃、少女は雪の降る道で倒れているのを見つけたのでした。少女の体は氷のように冷たくなっていました。
ですが母親が必死に体を抱きしめていると、少女はぱちり、と目を覚まして母親を不思議そうに見上げました。
「……母さん、外は寒いのよ。だめじゃない寝ていなきゃ」
「中に入るのはあなたの方ですよ。こんなに冷え切って……!」
母親はさらにきつく少女を抱きしめました。
「母さん。母さんに聖樹を持って帰りたくて」
「馬鹿な子ね。私はあなたが早く帰って来さえすれば、他はどうでもいいのに。冬の神様に連れて行かれてしまったかと思いましたよ」
母親は涙を流して少女の手を取りました。痩せて乾燥してはいましたが、とても温かな手でした。
そのとき少女は、あんなに強く抱えていた聖樹がどこにも無くなっていることに気づきました。
「母さん聖樹が!」
「いいのよ、可愛い子。冬の神様がお前を気に入って迷わせたのでしょう。さぁ、帰りましょう」
少女は先程まで感じていた凍えるような寒さが消え、母親の握った手からぽかぽかと温かくなるのを感じていました。母娘は手をきつく繋ぎ、雪の降る中を家へと帰りました。
その晩は、白が森を隠すように雪が降り積もったのでした。
翌朝、少女は前掛けに氷の月と、いつの間に入ったのかヒイラギの実を2つ見つけました。氷の月もヒイラギの実も甘くいい匂いがしました。少女は昨夜のことを母親にすっかり話すと、ヒイラギの実をペロリと舐めました。その美味しかったこと! 甘かったこと!
少女はそれを母親と分け合って食べました。すると不思議なことに、病弱だった母親は元気を取り戻し、2人はいつまでも仲良く暮らしたということです。
お読みいただきありがとうございます!
なんとかクリスマス中に間に合いました!(ギリギリ