序章
綺麗だね。
ただ、心に浮かんだ言葉をそのままに口にした少年は、しかし奇妙なものでも見たかのような両親の反応に出迎えられた。
少年は首を傾げ、車窓の外を流れゆく景色の中、未だ視界から消えること無く存在を主張する山の遥か上空を指差す。そして先程見た光景を説明し終えると、もう一度同じ言葉を紡いだ。
今度は両親への同意を求めながら、ねえ、「あれ」は光っていてすごく綺麗だよね、と。
だがそれに同意の言葉が返されることは無く、母の顔には戸惑いが、父の顔には忌々しげな怒気が浮かんでおり、少年はギクリと体を強張らせる。そして父から矢継ぎ早に飛ばされる罵倒に身を竦め、もういつの頃からか忘れる程に繰り返された、身に染みついた言葉を条件反射に繰り返す。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」
今は運転で手が塞がっているから罵詈雑言を浴びせられる程度で済んでいるが、恐らく、いや、必ず、帰宅して玄関の扉が閉ざされた瞬間に父からは「しつけ」という名の理不尽な行いが自分になされると少年は知っていた。ミラー越しに自分へと向けられる父の視線が雄弁にそれを物語り、少年は後部座席で己を抱きすくめるように身を縮めた。
助手席の母はそんな様子に何一つ関わらず、自分へのとばっちりが来ることを恐れて車の外へ、何を見るともなしに視線を投げかけていた。これもいつものことだ。
少年は項垂れ、この後に訪れる恐ろしい時間がなるべく早く過ぎるように、と祈ることしか出来なかった。
これは今から十年前の出来事。
美しいものを美しい、と共感し、家族と笑い合う。
そんなささやかな日常すら許されなかった一人の少年、桧山士郎の褪せかけた記憶の断片である。