東南アジアの夜
初の海外旅行の、最初の夜から最悪な気分だった。
今、僕は蒸し暑い深夜のホテルのロビーで女の子と友人の行為が終わるのを文庫本を読んで待っていた。ロビーにはクーラーはなく、業務用の扇風機で暑さをしのぐしかない。普通の海外旅行のつもりが僕だけが不遇な状況に置かれているのには理由があった。遊び半分で行ったゴーゴーバーで友人が一目惚れした女の子をこともあろうに【お持ち帰り】したのだ。
僕と友人は予算を削減するために一つの部屋をシェアしていた。だから女の子を連れ込むのは面倒だから、まあ記念がてら見るだけ見に行ってみよう、と言っていたのに……、全く人の欲は理性的じゃない。友人は二人でヤろうなんてクレイジーなことを言っていたが、僕は断ってホテルのロビーで時間をつぶすことにしたのだった。
日本から持ってきていた文庫本を四分の一ほど読み終わった頃、部屋のドアが開いて女の子だけが出てきた。行為と支払いは既に終わったようだった。
髪の綺麗な女の子だった。年齢は分からないが幼さの残る顔からすると大体二十代前半だろう。店で与えていると思われる露出の多い赤い服は彼女の幼い顔にはあまり似合っていなかった。
名前も知らない綺麗な女の子は挨拶でもしようというのか僕の座っていたソファに近づいてきた。ほんのりと異国の石鹸の香りがした。本から顔を上げて、
「お疲れ様。もう終わった?」と最近少ししゃべれるようになったばかりの英語で訊くと、
「ええ、お待たせしちゃいましたね」とぎこちない発音の英語で女の子は答えた。
「そう」
僕はようやく蒸し暑い夜から解放されると歓喜して文庫本を片手にソファから立ち上がって部屋に戻ろうとして、手を引かれた。
何だろうと思う間もなく、気がつくと彼女の唇が頬に触れていた。柔らかいようなかすかな感覚と、顔が離れた拍子にふわりと先刻の香り。少しして彼女が顔を離した後に、僕はキスをされたことに気がついた。
顔を離した後、彼女の瞳の色が栗色であることを知った。少しの静寂の後、僕はかけるべき言葉が見つからず、ポケットに入っていた五百ペソを彼女の手に握らせて、
「タクシーを拾って帰るといい。もう遅いし……、それに夜道は危ないから」
そう言って僕が自分の部屋に戻ろうとしたが、彼女は手を離さなかった。暑い外気のせいか掴まれた手が汗ばんでいた。
僕はもう一度異国の女の目を見た。栗色の目がホテルのオレンジの光を反射している。母国語も違う、生まれ育ちも違う、ましてや性別さえも違う彼女の考えていることは僕に分かるはずもなく、僕らは暫く見つめ合っていた。
いつまでも続いていくように思えた時間は彼女の目の光が横に逸れて終わった。
「Bye」彼女は言い慣れた発音でそう言って去った。See youとは言わなかった。
彼女が僕を引き留めた理由はよく分からなかった。そして彼女がキスをした理由も。
僕は部屋に戻って上半身裸の満足げな友人にそのことを言うと、
「ふうん? ……うーん、関係あるかどうかはわからないけど彼女、来週にはこの仕事辞めるって言ってたよ」
「あ、っそ」
僕は昼間に市場で買ってきておいたロンガンを食べながら彼女の瞳の色を思い浮かべた。