永久に重なる
警察は純樹を涼子殺害犯として送検するために調書を作成中。その一環で現場写真を撮りに来た。だが、ここから裕美たちの反撃が始まる。二人の反撃は警察に通じるのか?
裕美たちがこのホテルに滞在して7日目。世間も夏休みに入ってきたのか、日増しに宿泊客の数が増えてきた。午前11時。熊野たちが警察車両2台でホテルにやって来た。
裕美と鈴が熊野に依頼しておいた調査結果を報告するためと、純樹を起訴するための法的手続きに必要な現場確認をするために、純樹を連れてやって来たのだ。
熊野以外に二人の私服捜査員を同行しているが、佐久間は長野へ行っているらしく姿は見えない。
一同は一旦、太一が4階に準備した会議室に集まった。裕美と鈴、達彦、和真、太一が同席している。純樹はまだ勾留中のため、手錠をして二人の刑事に挟まれていたが、これからホテル内を移動するため、太一の依頼で手錠は外してもらった。
「お帰りなさい」
裕美は明るい笑顔で純樹を迎えた。刑事たちはまだ純樹への疑惑を捨てきれないようだが、裕美には自信がある。その自信は、熊野から和真と恵子の事件当夜の行動を聞いた時に固まっていた。
仮に恵子の証言が本当だとしても、とても不自然で何か裏があるとしか思えない。自分が恵子の立場なら、漁火しか見えない田舎の真暗な海岸通りをドライブしたいとも思わないし、南紀まで来てほとんどひとりで放置された後、ようやく二人きりになれた時に闇夜のドライブだけで満足できる訳がない。
自分なら、勝浦温泉とか白浜温泉とか、高級旅館に泊まって朝早く大阪に戻る。どうせ朝から仕事をするのは和真だけなのだから。
「まだ、帰って来た訳ではありませんけど、心配掛けてごめんなさい」
純樹は、意外に明るい笑顔を浮かべてみんなを安心させた。
「大丈夫ですよ、もうすぐ帰れますから」
鈴も自信あり気に言ったが、刑事たちは苦笑いを浮かべている。
一同は、まず15階のレストランに入った。昼間は営業をしていないため他の客はいない。純樹が事件当夜座っていたテーブルの前に立って調書用の写真を撮った。
「次はどこへ行った?」
「午後9時半前にこのレストランを出て、エレベータに乗りました」
「どのエレベータだ?」
純樹は自分が乗ったエレベータの前に立たされて写真を撮られた。
「偉そうね、あの刑事。何て名前?」
鈴が聞こえよがしに熊野に聞く。
「仕事ですから、勘弁してやってください」
どうやら熊野の先輩らしく、彼は小声で謝った。次の写真は涼子の部屋の前。中へ入り涼子を待っていたと言うソファの前でも写真を撮った。
「熊野君、記念撮影は終わった?」
鈴が棘のある言い方をして刑事たちに冷たく睨まれた。
「記念撮影とは何だ、遊びじゃないんだぞ」
丸顔に口ひげを生やした中年の刑事が強面で鈴を怒鳴りつける。
「善良な市民に向かってその口の利き方は何よ!大体、容疑者と言ってもまだ犯人と決まった訳じゃないのに、偉そうな口の利き方をしない方が良くてよ」
鈴が丸顔を見上げて声を張った。
「この小娘を叩き出せ」
言いつけられた熊野が困惑している。
「もし誤認逮捕だったら、あなた純樹さんに土下座して謝りなさいよね、狸さん!」
その言葉に一同は笑いを堪えた。確かにこの刑事の顔は狸顔をしている。顔のことを言われた刑事は、子供じみた反応もできず周囲の空気に押黙った。
「まあまあ、鈴さんも冷静になってください。これからが大切な時間なんですから」
熊野が全員をにソファに勧める。
「良いのか?現場だぞ」
狸が訝った。
「現場検証は終わっていますので。でも、できるだけ物には触らないでください。今回の事件では、警察庁刑事部、星里課長のご息女である鈴さんと、彼女の先輩である裕美さんの情報提供が大変役立ちましたので、お礼の意味も込めてこの場を設けさせて頂きました。皆さん少しだけお付き合いください」
狸刑事たちは目を丸くした。そして、最初に言っておけと言った怒りの視線を熊野に浴びせている。
「それでは、小娘の星里鈴がこの連続殺人事件の真相をご説明します。なお、この仮説は、私と裕美さんの推理、それに熊野君の地道な捜査結果に基づくものです」
と、鈴は前置きをした。裕美と熊野以外の、何も聞かされていない者たちは呆然として成り行きを見つめている。
「まず、この界隈で同時期に発生した両事件は、同一人物によって計画されたものです」
鈴が第一声を放った。
「だからこの純樹が両方の犯人なんだよ」
「狸は黙っていなさい!あなた、この事件の担当じゃないでしょう!たまたま今日は手が空いていたから、現地調査に付合わされただけで詳細はわかっていない!」
狸は再び怒りの視線を熊野に向ける。鈴が適当に言ったことだが当たっている。狸は、熊野が事前に情報を漏らしていると疑っているようだ。
「純樹さんは犯人ではありません。はめられただけです。そして涼子さん殺しの犯人は和真社長です」
突然の言葉に、和真も太一も狸も言葉を失っている。その隙を突いて鈴は話を進める。
「榊原観光は未上場会社で、いわゆる同族企業です。和真社長は代表取締役社長ではありますが、奥さんの涼子さんがほぼ全ての株を保持しており、いつでも和真さんを解任することができます。結婚当初は、涼子さんも経営には口は出さず夫婦仲も良かったのでしょう。何せ妻のあんな姿を隠し撮りするくらいですから。きっと出張の際には持ち運んだのでは?」
和真は黙って鈴の話を聞いている。
「ところが、次第に涼子さんは経営に口を出すようになり、我が侭も激しくなった。和真さんの経営手腕は確かで、現に企業規模を倍にしています。でも、企業が大きくなった分涼子さんが傲慢になり、何かと無茶な要望をするようになった。最近では、正勝さんが提案した無謀な温泉導入案にも涼子さんが賛成していた」
和真の表情は変わらない。
「次第に夫婦仲は冷めてゆき、どちらが先かは知りませんが二人は浮気をするようになった。涼子さんは若い男と奔放に遊び、和真さんは藤山恵子と言う、ここにいる裕美さんと幾つも変わらない若い女性を囲っている」
(何でここで私を出すのよ)
「それでも和真さんは、自分は涼子さんに惚れられていると言う自信があった。自分の浮気への当てつけに涼子さんが遊んでいるくらいに考えていた。おめでたい人です。しかし、最近は涼子さんが本気で離婚を考えていると言う気配を感じ始めていた」
「それが殺人の動機か?第一そんな証拠でもあるのか?」
和真がようやく口を開いたが、馬鹿々々しいと言った口調で薄ら笑いを浮かべている。
「あなたの経営手腕の評価は推測です。でも夫婦仲の話は涼子さんからたくさん伺いましたから、夫のあなたより詳しいですよ。ここ最近涼子さんの愚痴なんて聞いてあげたことがないでしょう?あなたに離婚を示唆していることも本人から聞きました。社長を首にしてやると怒鳴った話も聞いています」
「涼子さんの話は私も一緒にお聞きしています。鈴ちゃんの作り話ではありません」
裕美が証言をすると、和真の顔色が少し青ざめていった。
「だいたい、和真社長はどうして純樹さんを部屋に呼んで、わざわざ涼子さんのやらしい動画を見せたりしたのですか?特殊な趣味でもお持ちですか?」
鈴が和真の直接攻撃を開始する。
「ホテルに缶詰めにされて、不自由しているだろうと思ったからだ。男としての思いやりだよ」
和真の顔色は戻っていない。
「和真さんがお若い頃とは違って、今では各部屋で好きな動画が見られる時代ですよ、ご存じでしょう?ご自分のホテルですから。現に達彦さんはプリペイドカードを買って、たくさんエッチ動画を見ていますよ」
鈴が達彦を見てニコリと笑った。
「俺のことは放っておいてくれ」
達彦は涼しい顔をしてコーヒーをすする。
「動画を見た純樹さんが欲情して涼子さんに下心を抱いたかどうかはともかく、和真さんは、周囲にそう思わせるような事実を作った。そして涼子さんには、純樹君が興奮した表情で凝視していたとでも言って、涼子さんの遊び心をくすぐった。更に、太一さんに指示をして、純樹さんには涼子さんが21時30分に呼んでいると伝え、涼子さんには純樹さんが21時30分ではなく、30分早い21時頃に部屋に行くと告げた。そうですよね、太一さん」
だが、太一は黙っている。上司の立場を悪くする発言を軽々しく言えないのだろう。
「19時頃にホテルを出た和真さんは、先に車で待機していた恵子さんの助手席に乗って駐車場を出た。そして、すぐにホテル西側の非常口辺りで車を降り、恵子さんはそのまま太地方面へ向かう。従業員の中にいる協力者が中から非常口を開けてあなたを招き入れる。そしてあなたは階段を使って13階まで上がった。疲れたでしょうね?13階では協力者が再び廊下から非常扉を開けて待っていた」
「おいおい、一体何人共犯者がいると言うんだ?」
狸が口を出す。
「ひとりで十分よ。ホテル4階は、事務所と貸会議室になっています。夜はお客はいません。共犯者は4階の非常扉から階段室に入ります。その際に扉に何か薄い物を挟み込みます。非常階段は従業員用エレベータよりも奥にありますから従業員も気付きにくい。4階から1階まで下りて、非常口を開けて和真さんを中に入れる。共犯者は4階廊下に戻り扉を閉める。そしてそのまま従業員用エレベータで13階に移動。和真さんが階段室からノックすれば扉を開ける。ごく簡単なトリックです」
鈴は、ここでアイスコーヒーをひと口飲んだ。その間に熊野が補足する。
「非常扉は5分以上開放されるとアラームが鳴りますが、それ以内なら大丈夫です。4階から1階まで5分あれば十分往復できます。確認しました」
「では、その共犯者は誰なんだ?」
狸が再び口を開いた。
「その時間帯に従業員用エレベータで4階と13階に降りた人物はひとりしかいませんでしたが、それは後で話します」
熊野が鈴に目で合図し話を続けるよう促す。
「13階に着いた和真さんは、しばらく空き部屋で時間を過ごした。恐らく隣の部屋でしょう。やがて20時38分に涼子さんが戻る。和真さんは涼子さんの部屋をノックします。彼女は純樹さんだと思って扉を開けたか、或いは和真さんだと気づいても、忘れ物を取りに来ただけですぐに出ると言えば素直に開けたでしょう。部屋に入った和真さんは、隙を見て涼子さんの首を絞め殺害。この殺害場面は私の想像を語ります。実は、お二人はときどきSMプレーをされていた。女子会での涼子さんの体験談からの結論です。あなたは手袋をはめ、いきなり手錠を取り出して涼子さんに迫る。最近溜まっているんだ、すぐに済むとか言いながら彼女に手錠を掛ける。この手錠はご遺体に掛けていた物とは別の物だと思います。あなたは涼子さんをベッドに拘束するか、後ろ手にして手錠を掛けた。涼子さんも下手に逆らって時間を費やすよりもさっさと終わらせたいと思って協力した。そうやって涼子さんの首に吉川線が残らないようにして扼殺した。そしてベッドルームのクローゼットに涼子さんを隠した。やがて純樹さんが部屋を訪れる。和真さんもクローゼットに隠れます。クローゼットは二つありますから、大嫌いな奥さんと狭い空間で過ごす必要も無い。やがて純樹さんが出て行った。和真さんは涼子さんをベッドに寝かせ、以前純樹さんが部屋で眠っている時に握らせた手錠を使って彼女の手首を拘束し、恥ずかしい姿をさせた。酷い男ね」
鈴はそこまで話すと大きく深呼吸をした。
「証拠を見せろ。何度も言わせるな」
和真は真青な顔色をして声を震わせている。
「証拠ならありますよ」
裕美が明瞭に告げてから、
「順番が大切なんです」
と、目元に笑みを浮かべて強い口調で話し始める。
「あなたは事件の翌日、この部屋に来て涼子さんのご遺体を確認した。そして会議室で刑事さんから説明を受けましたよね。その時あなたはこう言ったんです『あんなやらしい下着を着けて』と。どうして涼子さんの下着がやらしいと感じたのですか?ご遺体の確認時は全身にシーツが掛かっていて、顔しか見ていませんでしたよ」
全員の鋭い視線が和真の答えを待っている。
「懇親会の前に涼子が部屋でシャワーを浴びていたからだ。シャワーを浴びてから下着で部屋をうろついていたから知っているんだ」
「何色でした?」
「よく覚えていない」
「覚えていないのにやらしい下着と言ったのですか?」
裕美の言葉は和真の心臓に冷たく突き刺さってゆく。
「黒かったような気がする」
「涼子さんが懇親会で着けていた下着は白ですよ。しかも至ってノーマルな、高校生が着ていてもおかしくないような下着です。彼女は懇親会の後、私たちと大浴場に行きましたから覚えています。そして風呂上がりに着替えた下着は黒色の大胆な下着でした」
全員の視線が和真に疑惑の念を投げ掛けている。
「言われてみれば白だったかも知れない」
和真は完全に動揺している。その瞬間を見逃さない鈴が、
「そんな言い訳が狸の前で通じると思っているのですか?あなたは涼子さんを殺害した後に服を脱がせてベッドに寝かせた。その時に黒いレース生地でTバックの、大胆な下着を目にしたんですよ!」
と、激しい口調でとどめを刺そうとした。
「そんな勘違いや言い間違いで殺人犯にされてたまるか。弁護士を呼べ!」
声を震わせながら和真が叫ぶ。それは怒りと言うよりも動揺の表れだ。
「自分のことは自分でしなさい」
鈴が冷たく言い放つ。更に裕美が落ち着いた声で追い打ちを掛けた。
「弁護士を呼ぼうが言い逃れはできませんよ、これだけ証人がいるのですから」
「俺もはっきり聞いたぞ」
狸も鋭い目つきで和真を睨みつめている。
「それに、あなたはもうひとつ致命的な失敗を犯しています」
裕美の言葉に、和真は青白く張りつめた表情をピクピクと引きつらせている。そしてもう何も言わないと心に決めたように、堅く口を閉じて唇を噛みしめた。
「あなたはクラシック音楽が大好きですよね?そして邦楽が大嫌い。特にJPOP系の音楽など雑音程度にしか思っていない。涼子さんの言葉です」
裕美が何を言っても和真は黙っている。ボロを出すのが怖いのだろう。
「あなたがこの部屋に入って涼子さんを殺害した時、JPOPのジャズが流れていたのでは?あなたは涼子さんをクローゼットに隠してから純樹さんが来るまでの間、そうですね、30分から40分間、邦楽の雑音を聞いているのが堪えられなくなった。しかも殺害の興奮を落ち着かせたいとも思った。あなたはいつも精神安定剤代わりに聞いているショパンにCDを入れ替えた。だから、翌朝鑑識の方が確認した時には、『ショパンノクターン夜想曲集』のCDがプレーヤーに入っていた」
和真はニヤリと笑って、
「私は部屋に入っていないから、何の音楽が流れていたのか知る訳がないだろう」
裕美の罠を見破って得意げな表情をした。
「あなたは音楽CDを入れ替えていないと主張されるのですね?」
「ここには戻っていないと言っているんだ」
和真は慎重に言葉を選んでいる。裕美はそっと立上がってオーディオセットの前に立ち、プレーヤーデッキの横に山積みにされているCDケースを指差しながら話を進めた。
「鑑識さんは全てのCDとケースの指紋を採取しています。涼子さんの邦楽CDにも、あなたと涼子さんの指紋がたくさん付いていました。邦楽嫌いのあなたがどうして邦楽CDに触れたのですか?」
「そんなもの、この部屋に何泊もしていたんだ。私のCDを探すために涼子のCDに触れることもあるだろう。確かに涼子が聞いていたCDを取り出したこともある。だが、いつ触ったかなど覚えていない」
和真は同意を求めるような視線を刑事たちに向けて走らせる。
「それが、残念なことに、ここにあるのは涼子さんのCDばかりじゃないんですよ」
再び、和真の表情が不安に歪み始める。
「鈴ちゃんが懇親会で涼子さんに渡したCDがここにあります」
その言葉の意味を、和真はまだ解していない。
「涼子さんは懇親会の間、それをショルダーバッグに入れていました。部屋に持ち帰ったのはお風呂に入る前の19時50分です。そんな鈴ちゃんのCDに、なぜあなたの指紋が付いているのですか?」
裕美が鋭い語尾で和真を刺した後、
「19時にこのホテルを出た和真さんがこのCDに触れるはずがない。これはどう言うこと?」
と、わざとらしく鈴に問い掛けた。
「和真さんが嘘を吐いている。涼子さんがここへ戻ってCDを置いた19時50分以降に、和真さんがこの部屋に入ったと言うことです」
「鈴ちゃん、念のためだけど和真さんと以前から知り合いだったの?」
裕美が白々しく確かめる。
「まさか。殺人犯なんかと知り合いじゃないですよ」
「だよね。ここでも順番が狂っていますよ、和真さん」
裕美の言葉が終わった後、しばらく口を閉ざしていた和真が急に目を見開き、切羽詰まった声で叫んだ。
「申し訳ない、刑事さん。実はどうしても聞きたいCDをこの部屋に置き忘れていて、いけないと思いながらも現場検証後のこの部屋に入ってしまいました。確か昨夜でした。昨夜ここに来た時に触ってしまったのかも知れません」
和真の声が哀れなほど苦しそうに震えているので、言葉の後も不自然な沈黙が続いたが、熊野は表情を動かさずに、
「そうですか。それでは殺人罪の上に証拠隠滅の疑いも出てきましたね」
と、和真の訴えを退けた。そして更に、
「指紋採取は事件発覚日の朝に行っています。そのCDはその日から証拠品として署でずっと保管しています。鈴さんの依頼でね」
と、冷たく言った。和真は、あたかもここに邦楽CDがあるかのように話していた裕美を呆けた表情で見つめている。
「ここには無いわよ~」
鈴がペロリと舌を出してから、
「せっかく手袋をして指紋が残らないように首を絞めたのに……。どうして手袋を脱いじゃったの?自分の部屋だから油断したのかな?お医者さんプレーは嫌い?狸さん、犯人をお連れして」
と和真を弄ってから狸に命令した。
「協力者は誰なんだ?」
狸が問い掛ける。
「もう、わかるでしょう?おバカね」
鈴がそう言った時、
「太一君は正勝と私の指示で動いただけだ。何も知らない。事件とは無関係だ」
と、和真が太一をかばった。
「どんな指示をしたのですか?」
鈴が和真を睨みつけて、全てをここで吐かせようとした。
「正勝兄さんが涼子の殺害計画を私に持ってきた。涼子は、私や正勝を経営陣から外して、自分の言いなりになる幹部や、外部から引き抜いた者を経営陣に入れようとしていた。だから私は正勝兄さんの計画に乗った。勿論、最初は涼子の裏切りなど半信半疑だった。しかし、正勝が殺害された時点で、私は涼子が先手を打ってきたと確信した。次は私が殺される。だからやられる前にやった。君たちの推理どおり、太一君には、純樹君や涼子への伝言と非常口からの誘導を指示しただけだ。彼は何も知らない。太一君、犯罪に巻き込んで申し訳ない」
そう言って和真は頭を下げた。
「太一さんが無関係なことは理解しています。後のことは心配しないで、署で全てを話してください」
熊野が狸に向かって軽く頭を下げると、彼らは立上がって和真を連行していった。
「狸さん、後で純樹さんに謝りなさいよ!」
鈴の声に、狸は背中をピクリとさせてから無言で出ていった。
「勘弁してください」
熊野が辛そうな表情で鈴に懇願している。
「僕のことならもう良いよ」
純樹が笑顔を浮かべて鈴の気持に応えた。
「そうですか。まあ、熊野君にはこれからまだまだ働いてもらうから許してあげるわね」
鈴は愛らしくウインクをした。
熊野を含めた刑事たちが和真を連行してホテルを出た後、残された裕美や純樹たちがこれからどうしたものかと思案していると、とりあえず後一週間の滞在を太一が許可してくれた。刑事たちが純樹にもう少しの間この辺りにいるよう求めたためだ。
涼子殺害の犯人は判明したが正勝殺害の犯人はまだわかっていない。和真の取り調べで新たな手掛かりが出てくるかも知れないからだろう。要するに、純樹はまだ正勝殺害の容疑者であると言うことだ。
「今から夫婦松の崖に行ってみましょうよ。現場百回て言うのに、私たちまだ一度も現場を見ていませんよ」
和真を逮捕できたためか、鈴が張り切っている。
「こいつ、刑事になりきっている」
達彦が呆れ顔を浮かべる。
「じゃあ、自転車で行ってみましょうよ。海岸のサイクリングロードを走ってみたいの。ああ、純樹さんは留置所から戻ったばかりだから部屋でゆっくりしていても良いのよ」
裕美は留置所の生活などわからないが、風呂にも入っていないのではないかと想像した。
「いえ、大丈夫です。僕ももう一度確認したいです」
「俺なら、風呂に入ってビールでも飲んでいるけどな」
達彦が心配そうに言う。
「それからプリペードカードを使うんでしょう?」
鈴が笑った。
「お前、見たように言うな。俺を覗いているのか?」
彼の言葉は聞き流して裕美と鈴が歩き始める。
「ありがとな」
純樹が達彦の肩を軽く叩く。四人は1階のフロントに下りて自転車のレンタルを申し出た。自転車は5種類あって、それぞれ4台ずつ用意されており、全部で20台あると説明を受けた。
結局、全員が違う種類の自転者を借りて出発した。ホテルの裏庭にある駐輪場からチャペルの横を抜け、一旦ビーチの手前まで進んでから、車が1台走れるほどの幅を持ったサイクリングロードをゆっくりと進む。
「ここからは、あなたたちは全速力で走ってちょうだい。競争よ!タイムも計ってね!」
裕美が二人の男たちの背中に声を掛ける。二人は時計を確認してから必死でペダルを踏み始め、瞬く間にその背中が見えなくなってゆく。
「どうしてあんなに単純なのかしら?」
言った本人が呆れている。
「可愛いじゃないですか」
消えゆく背中を嬉しそうに見つめて鈴が笑った。裕美も、純樹の子供ぽい姿を久しぶりに見て安堵の気分が広がってきた。
裕美と鈴も所要時間を計ってみた。ホテルから道の駅まで約5分、道の駅から小里浜まで約8分。小里浜を過ぎたあたりから坂道になり、その坂道の途中で人がひとり通れるほどの獣道が分岐していた。自転車を押しながら雑木林の薄暗い獣道を進むと、1分ほどで急に目の前が開け、白波が縞模様に走る真青な海と白い雲がポカリと浮かぶ青空が視界に広がり、平らなあずき色の岩場が現れた。
「わあ、きれいな海!」
鈴が思わず叫ぶ。二人は小里浜から夫婦松の崖まで5分ほど要していた。結局のところ、ホテルから夫婦松の崖まで女性で約16分。純樹たちは12分ほどで到着する道のりだ。
「先輩たちは特殊ですから、あまり参考にならないですね」
鈴が裕美に意見する。
「じゃあ、競争させるなよ」
汗を拭きながら達彦が零す。
「負けたから機嫌が悪いのよ」
裕美が彼の性格を思い出して、半ば本気で責めながら笑顔を流した。
「ここなら人目に付きにくいですね」
鈴が雑木林を振り返って言った。蒼く生い茂った木々が目隠しになって、サイクリングロードの様子は全く見えない。ロードの分岐点に『夫婦松の崖』と書かれた案内板が無ければ、分かれ道にも気付かずに通り過ぎてしまうだろう。
ここはテニスコート半面くらいの平らな岩場になっていて、木製のベンチが二つ固定してある。崖の向こうに二本の松がポカリと浮いている感じで、青い空に細い緑がくっきりと映えている。崖の途中から青空を目指してやや斜めに伸びている二本の松は、岸壁の無機質な肌に有機的な夫婦愛を描いている。
「ここから落ちたら助からないな」
達彦が恐る恐る下を覗いてみる。
「でも、突き落すのは無理かもね」
裕美は、殺人犯の視線で周囲を観察している。確かに手すりは無いが、崖淵は平らではなく、腰くらいの高さの岩が1メートル幅くらいで淵に沿って走っている。
要するに、天然の転落防止壁ができ上がっているのだ。
「この岩の上に上がらないと転落はしないでしょうね。さっき達彦さんがやったように、普通はこの岩に手や膝を着いて下を覗くでしょう」
鈴も刑事視線で周囲を見ている。
「いい大人がこの岩に立って度胸試しなんてしないでしょう?」
裕美が純樹に視線を送る。
「でも、男は単純ですからね」
鈴が達彦に向かって言った。
「試してみますか?」
達彦は自転車競争に負けた悔しさを度胸試しで晴らそうとしている。だが純樹は事件の方に興味を示して、
「突き落とすのが難しいなら、正勝さんは殺されるか気絶させられた状態で、ここから落とされたってことですか?」
と、裕美を見つめた。彼女は見つめられてなぜか嬉しくなった。その隙に鈴が刑事口調で純樹に情報提供する。
「正勝さんがここへ来るルートは二つに絞られています。ひとつは、13時頃に展望台レストランを出て誰かの車に乗り、どこか他の場所で殺害されてここへ運ばれたか、気絶した状態でここまで運ばれてから殺され、崖から落とされた。もうひとつは、レストランを出た正勝さんがここまで歩いて来て誰かと落ち合った。そして殺されてから落とされた」
次に裕美が続ける。
「車はレストランの駐車場までしか入って来れないから、そこから遺体を担ぐか大型バッグに入れて運ぶことになる。深夜なら人目に付かないから不可能ではない。でも、今のところ正勝さんを車に乗せる人物が浮かんでこないことから、他の場所で殺害されたシナリオよりも、正勝さんも犯人も、展望台レストランからここまで歩いて来たと言うシナリオの方が現実的だと思う」
「そうですか……」
純樹が頭の中を整理している。
「アッ!」
突然叫んだ鈴がグルグルと辺りを歩き始めた。全員がポカンと彼女を見ている。
「ああ、私は何てバカなんでしょう!」
海原に向かって叫んでいる。
「今頃気づいたのか?」
達彦が笑っている。
「あなたにだけは言われたくないわ。ね、鈴ちゃん」
だが鈴は、裕美の言葉にも耳を貸さずにじっと波を見つめている。
「何か忘れ物でもしましたか?」
「犯人はどうして純樹さんをここへ呼び出すことができたんでしょう!」
海から振り返った鈴が目を輝かせている。
「純樹さんの番号を知っていたからだろう?パスワードが掛かっていても電話帳を使わずに掛けることができた」
達彦が当然のように言う。
「私たちは当初、正勝さんが純樹さんを呼び出したと聞かされていたから、正勝さんを殺した犯人が純樹さんを呼び出したことを知っても疑問を感じなかった」
心地よい海風が鈴の髪をなびかせて去ってゆく。純樹は彼女の頭越しに海原に走る白い波をぼんやりと見つめている。そんな彼の穏やかな瞳を見た瞬間、裕美は脳裏を針で突かれたような閃きを覚えて思わず口走る。
「犯人はどうして、純樹さんが小里浜で正勝さんを待っていることを知っていたのか!」
鈴と裕美は顔を見合わせた。
「言われてみると確かに……」
「犯人は、犯人と正勝さんの二人で純樹さんを殺そうと、正勝さんに計画を持ち掛けていたのかも!」
鈴が慎重に仮説を続ける。
「犯人は、正勝さんをここへ呼び出すために純樹さん殺害を持ち出した。常識的に考えて、犯人と正勝さんが顔見知りだったとしても、わざわざこんな崖っぷちの危険な場所に理由もなく呼び出せますか?サスペンス劇場じゃないんだから。純樹さん殺害計画の一環なら、正勝さんも何の疑いも無くやって来きます。」
「僕は、呼び出されてのこのこやって来ましたけどね」
純樹が自虐的な笑顔を浮かべる。
「それは、先輩がこの場所を知らなかったからですよ。正勝さんは何度かホテルに来ていて、観光スポットであるこの場所に危険があることも知っていたはずです」
「しかし、正勝さんが純樹さん殺害計画に加わる理由って何んだ?純樹さんを殺す理由は?何か正勝さんの秘密でも握っているんですか?」
達彦が純樹の瞳を見つめたが、純樹は困惑顔で両手を広げて首を振っている。
「和真さんが言っていた、涼子さんが先手を打って正勝さんを殺害したと言う可能性は?」
今度は鈴に問い掛ける。
「涼子さんにはホエールウォッチングに出ていたと言う完璧なアリバイがあります」
鈴に続いて裕美が推理する。
「榊原観光にとらわれない方が良いかも。正勝さんの本拠地は長野よ。殺すほど憎んでいる人がいるとしたら地元の人間の方が蓋然性が高いと思うの」
裕美は、刑事の佐久間が長野へ調査へ向かったことを思い出した。
「そうですね。地元の人なら事件のことを知っているでしょうし、正勝さんと僕の関係を利用することもあり得ると思います」
純樹に同意されて嬉しくなった裕美は、
「嘘を並べて、正勝さんに純樹さん殺害の動機を植え付けたのかもね。ペンション経営も上手くなかったようだし。色々後ろ暗いことがあったのかも」
と、そこまで言ってはっと純樹の表情を確かめた。(もしかすると、事故のことで何か秘密があるのかも)一瞬そんな考えが浮かんだが、きっと仕事や借金に関わるようなことだろうと思い直した。
「やっぱり、現場に来て初めてわかることがありましたね。次は展望台レストランへ行きましょう。お昼時ですし」
鈴がお腹を摩りながら笑っている。
「そうですね、お腹も空いてきましたし」
純樹はそう言って青空を気持ち良さそうに見上げた。裕美は、留置場からは青空は見えないのかなと想像してみた。
夫婦松の崖から自転車を押して歩くとすぐに雑木林が開けて、展望台の白い建物が目に入ってきた。裕美たちが歩いて来たサイクリングロードは駐車場に突き当たるが、コンクリートで補強された駐車場は裕美たちの位置より数メートル高い位置にある。
雑木林を抜けると芝生が植えてあり、その中を舗装された路が駐車場に続いている。裕美たちが急な坂の舗装道を上がると駐車場が目の前に広がった。
乗用車が20~30台、バスが数台駐車できるスペースがあり、四割ほど埋まっている。展望台の方に目をやると、駐車場に面しているガラス窓から土産物の売店を覗くことができる。そのガラス窓の外側には屋台が2台並んでいた。
「これじゃあ、駐車場に車を置いて誰にも見つからずに夫婦松の方へ行くのは無理みたいね。売店や屋台の前を通らないとサイクリングロードに入れないわ」
裕美が周囲の環境を確認した。
「熊野君も、こんな簡単なことに気が付かないとはね」
鈴が溜息交じりに呟く。
「警察がお前らに全てを話す訳がないだろう」
達彦はそう言って建物に入ってゆく。裕美と鈴は、屋台でサザエの壺焼きを売っているお婆さんや、焼きそばを焼いているお爺さんたちに事件当日の話を聞いてから建物に入った。
純樹と達彦は、ひと足先に入って土産物屋の奥にあるレストランで席を確保している。裕美たちは土産物の売店でも何人かに話を聞いた。鈴は、懇親会二次会で知り合った町内会長や旅館組合長の名前を出しながら、巧みに情報収集して裕美を驚かせた。
「みんな、あの日のことは良く覚えていたわ」
裕美がレストランの席に座るなり口を開く。海景色が良く見える席だ。
「そりゃ、自分たちの社長を始め、この町の有力者たちが一度に来たんだ。それなりに気も張っていただろうよ」
この展望台レストランも榊原観光が経営している。
「それなら、壺焼きのお婆さんは正勝さんがどっちへ向かったかを見たんじゃないですか?」
純樹が裕美を見つめる。
「それが、ちょうどサザエを補給するために土産物屋の方へ戻るタイミングで正勝さんとすれ違ったらしいの。焼きそばの屋台はまだ営業していなかった。だから、正勝さんがどっちへ向かったかはわからない。だけど、あの日10時から17時の間でサイクリングロードへ向かったのは、午後にここで休憩した自転車のグループ1組。5~6人のグループだけだそうよ」
「自信たっぷりだな、あのお婆さん」
達彦がメニューを見つめながら言った。
「ビーチバレー大会の前日だし観光客もほとんど来なかったらしいの。しかもお婆さんが屋台を離れたのは一度だけ。休憩時は土産物売店のおばさんが屋台に来てから交代するので、無人になることはなかった。だから絶対に間違いないって。交代要員のおばさんにも確認は取れたわ。でも、警察の人は疑っているようだった。年寄りだから信じてくれないのよって怒ってた」
「まあ、警察の気持ちもわかる気がする。みんなサービスランチで良いよな?」
達彦がお店の人を呼んだ。
「仮にお婆さんの言葉を信じると、自転車のグループ以外、ここの駐車場からサイクリングロードへは入っていないことになる。正勝さんはここから歩いて行ったとして、犯人はどこから夫婦松の崖に行ったのでしょう?」
純樹がお冷を口にしながら疑問を吐いたが想像はついているようだ。
「自転車を使うと道の駅から女の足で約15分程度。きっと犯人はサイクリングロードを走って来たか自転車に乗って来た。出発点は道の駅かホテル」
鈴が限定的な口調で言ってから、
「純樹さんは13時30分頃小里浜にいたんですよね?誰かサイクリングロードを通る人を見ませんでしたか?」
と、尋ねた。
「さあ、星型の砂粒探しに必死だったんで、全く気が付かなかった」
純樹が砂浜に佇んで砂粒を探している姿を想像した瞬間、裕美の脳裏にある場面が浮かんで、
「鈴ちゃん、ホテルに着いた日の写真を見せて!」
と、自分でも驚くほど大きな声を出してしまった。目を丸くした鈴が慌ててスマフォの画像を捲り始めた。
自転車利用の場合(サイクリングロード使用)
ホテル 5分 道の駅 10分 小里浜 1分 夫婦松 3分 展望台
ホテル ⇒ 夫婦松 男子12分 女子16分
ホテル ⇒ 展望台 男子15分 女子19分
自動車利用の場合(県道使用)小里浜、夫婦松へは道がない
ホテル 10分 道の駅 20分 展望台
ホテル ⇒ 展望台 30分
事件は終盤。純樹の涼子殺害の疑いは晴れたが、正勝殺害の容疑はまだ残っている。男たちを労働させながら女たちの推理は進む。