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裏切りの夏  作者: 夢追人
8/12

夏の泡2

熊野の情報提供した監視カメラの録画情報と涼子の部屋の入室記録で鈴と裕美の推理が進む。

そして熊野も佐久間も見逃していた重要なポイントに鈴たちが気づく。

 裕美と鈴は、ホテルから徒歩で十分ほどの所にある小さな居酒屋で熊野と食事をしている。裕美たちは和真の計らいで延泊させてもらえることになった。しかも宿泊費は不要である上に食事券まで頂いた。勿論、捜査に協力することが条件だ。

「達彦君は来ないのか?」

「あんな大食い&大酒飲みを連れてきたら熊野さんに迷惑だと思って」

 鈴が可愛い笑顔で熊野を見つめている。彼女は熊野に食事代を出させる積りらしい。内心、裕美は感心している。

「それに、彼は労働で疲れ切っていますから」

「労働?」

「ええ、宿泊代と食事代を無料にしてもらう代わりに、達彦さんには肉体労働をして頂くことで交渉成立しました。ホテルの仕事には力仕事も多く、太一さんは大変喜んでいました」

「鈴さんが勝手に交渉したのでしょう?」

 熊野が探るように鈴を見つめてから、

「達彦君なら力仕事に向いていますね。君たちは働かなくても良いのですか?」

 と言って、お手拭きで手を拭った。

「私たちは頭脳仕事担当です」

「オジサンとのデートもですか?」

 熊野が爽やかに笑う。裕美は彼のこの笑顔が好きになった。

「熊野さんはまだオジサンじゃないですよ。佐久間さんは典型的なオヤジですけどね」

 鈴が誘惑的な笑顔で熊野を見つめている。

(小悪魔)裕美は心の中で呟いてから、

「お疲れの所、申し訳ありません」

 と発声して三人は生ビールで乾杯した。

「どうせひとりで飯を食う身なので、むしろありがたいですよ」

 熊野がプライベートの顔になっている。

「あら、独身なんですか?」

 熊野は小さく頷く。そうして、店員にあれこれと注文をしながら彼女たちの要望も取り入れて、良いお兄さん役を演じている。先日、鈴の父親である星里刑事部課長から本署に連絡が入り、捜査を慎重に進めて欲しいと言う個人的な依頼があった。明言はしないが娘の知り合いが容疑者になっていることが依頼の理由であることは明らかだ。

 更に、娘が迷惑を掛けるがよろしく頼むとも言われた。佐久間も熊野もその言葉の真意を推し測りながら忖度するしかない。二人で相談した結果、熊野が個人的な場で限定的な捜査情報を共有することにした。

 料理がテーブルに並び、お互いの私生活などを話しながら場が和んできたところで熊野が話を切り出した。

「酔わないうちに話しておきますけど、和真、涼子夫妻部屋の入室記録を調べた結果、まず、19時50分に涼子さんのキーの記録がありました。これは入浴前に着替えを取りに戻った時刻と一致しています。次が20時38分。涼子さんが浴場から戻って来た時間です。その後が21時27分、和真さんのキー番号。つまり、純樹君が入った記録です。後は何もありませんでした」

 熊野は鈴の瞳を優しく見つめる。裕美は、熊野が鈴に好意を抱いているのではないかと、女の右脳が囁いた。

「ひとつ確認ですけど、この記録は入室する時だけに記録されるものですよね?」

 鈴も柔らかな瞳で見つめている。

「そうです。中からドアを開けた時は記録されません。ですから、部屋から出て行ったり、逆にドアを開けて誰かを招き入れたりした場合は記録されません」

 プライベートでも鈴に敬語を使う彼は可愛い。

「涼子さんはどうやって部屋に入ったのでしょう?21時27分に純樹さんがキーを使って入室した時には涼子さんは居なかった。そしてその後の入室記録が無い。つまり涼子さんが部屋に入った記録が無い。でも涼子さんの遺体はあの部屋に在った」

 裕美が枝豆を皿に取り分けながら言った。

「普通に考えれば、純樹君が嘘を言っていることになります。部屋に入った時に涼子さんは居たのかも知れません」

 熊野は、裕美が自分のために枝豆を取り分けてくれたことに驚いている。鈴は、そんな熊野を柔らかく見つめて、

「若しくは、純樹さんが21時27分に入った時には涼子さんは居なくて、その後、涼子さんがドアをノックして純樹さんがドアを開けた」

 と、推論した。

「涼子さんがノック?自分のカードキーを持っているのに?」

 熊野が怪訝な声を出す。

「誰かが部屋に居ると思ったらノックしますよ。突然入ったら相手が驚くでしょうから」

「中で何をしているかわからないし」

 裕美も同意する。

「なるほど。涼子さんが最初から在室していたのか?純樹君が招き入れたのか?いずれにしても、純樹君が部屋を出た後に入室記録を残さずに入室する方法を見つけない限り、彼が嘘を言っていることになりますね」

 熊野は蛸の唐揚げを口に放り込む。裕美たちの反応を敢えて見ないようにしているようだ。純樹の苦境を悟った裕美と鈴は刺身を箸でつまみながら、

「防犯カメラはどうでした?愛人は映っていましたか?」

 と、話題を変える。

「あのホテルの客室防犯カメラは、エレベータホールにしかありません。宿泊客がエレベータを乗降する位置で録画してあります。プライバシー保護のために廊下にはありません。他には、従業員用エレベータが建物の両端に一基ずつあり、そのエレベータの中にカメラがあります」

「要するに、どちらの防犯カメラにも映らずに涼子さんの部屋へ行くのは不可能ってことね。で、愛人は映っていたの?」

「愛人は事件当夜の18時40分頃に13階の防犯カメラに映っていました。そのままエレベータを使って1階ロビーへ、そして18時45分頃チェックアウトをしています。ああ、愛人の名前は藤山恵子25歳。新地でホステスをしています」

「25歳って、私とそんなに変わらないじゃない」

 裕美が驚いて熊野の顔を見つめる。

「そんなものですよ、浮気なんて」

 結婚もしていないくせにしたり顔で言っている熊野が可愛く見える。

「和真社長の録画は?」

「和真さんは、レストランのある15階から一気に1階まで下りてロビーを出ています。1階エントランスホールのカメラに映っている時間が19時3分でした。勿論、従業員用エレベータの録画には二人とも映っていませんでした」

「きっと二人で帰ったのね、大阪へ」

 鈴は確信している。

「純樹さんと涼子さんの記録は?」

「まず、13階エレベターホールのカメラですが、純樹君が21時24分と22時5分に映っています。それ以降は翌日まで映っていません。涼子さんも19時45分にレストランから、20時30分に大浴場から戻って来た時の記録以外一切映っていませんでした。他の宿泊客の映像もありますが、年恰好が二人とは違い過ぎますので変装していたとは思えません。次に従業員用エレベータ内のカメラですが、これには多くの従業員が頻繁に乗り降りする様子が映っていました。13階でも多数の従業員が乗り降りしていますが二人の姿はありませんでした。変装等の偽装が絶対に不可能とは言えませんが、純樹君は大柄ですからすぐにバレるでしょう」

「じゃあ、涼子さんは大浴場から戻った後部屋から出ていないことになりますね。そして純樹さん以外の関係者は誰も映っていない。ある意味、密室殺人事件ね」

 鈴が目を輝かせて身を乗り出したが、

「私たちは、純樹さんが犯人じゃないと信じているから密室殺人事件だけど、警察の目から見れば、ますます純樹さんの立場が苦しくなるじゃない」

 と言った裕美の言葉に、鈴ははっとして自分の口を手で押さえた。


13FEVホール録画 18時40分 19時45分 20時30分 21時24分 22時5分

         愛人    涼子   涼子   純樹   純樹

和真夫妻の入室記録    19時50分   20時38分  21時27分(22時頃)

             涼子入浴前  涼子入浴後 純樹   純樹退室

1Fロビー       18時45分 19時2分

            愛人   和真


 彼女はしばらく頭をフル回転させた後、慌てた様子で、

「13階をうろつくことは可能ですよね。共用のトイレとか、備品倉庫とか、展望スペースとか。あ、きっと空いている部屋にいたのよ。涼子さんの権限なら、空き部屋を使うくらい簡単でしょう?そこに男を連れ込んでいて死んでしまったのよ」

 と、思いつくままを口にした。熊野は、鈴のそんな様子に苦笑いを浮かべながら言った。

「まあ、空き部屋を使っていればカードキーの記録ですぐにわかります。念のために調べるとして、いずれにしても、全ての証拠が純樹君に不利な物ばかりです。これらの証拠を並べて出る結論は、純樹君が21時27分に涼子さんを訪れた時に涼子さんが部屋に居たか、鈴ちゃんの言うように13階の他の場所にいて戻って来た。そしてノックをして純樹君が招き入れた。その後、事情は分からないが純樹君が涼子さんを殺害して、性行為中のアクシデントに見せ掛けるための細工をした。と言うことです。警察はこの線で動いています」

 裕美は、やや絶望的な気持ちに飲み込まれそうになっている。しかし、どう考えてもあの純樹が殺人なんてあり得ないし、仮に誘惑に負けてアクシデントが起きたとしても、彼なら正直に自首するはずだ。そんな風に裕美が自分を叱咤していると、急に鈴が明るい声を出して、

「私、わかっちゃいました!犯人は、愛人でも純樹さんでもありません!」

 と、軽い口調で言い放った。

「そうですね、あのフロアの宿泊客は他にもいましたからね。かなりお年寄りですけど」

 熊野はほくそ笑んでいる。

「20時38分、涼子さんが風呂上がりで部屋に戻った頃に、約束していたSM趣味の若い男がノックして涼子さんが招き入れた。それから純樹さんが来るまでの間、ベッドルームで色々やって、純樹さんが来る頃にバルコニーに隠れた。スウィートルームのバルコニーは広いし、カーテンを閉めていたら外は見えない。約30分間、二人はバルコニーで息を潜めてスリルを味わいながら、色々を続けたんですよ。何せSM趣味だからちょっと普通の人とは好みが変わっている。純樹さんが部屋を出た後に、ベッドルームで益々盛り上がって、興奮のあまりつい度を越して涼子さんが亡くなってしまった。だから犯人は大慌てで逃げ去った」

 話しながら考えがまとまったのか、鈴はまんざらではないと言った自信の表情を見せた。

「だが、エレベータホールの防犯カメラには、その時間帯に誰も映っていない。何しろスウィートルームのフロアだから、出入りする宿泊客も少ない」

「従業員用エレベータの録画をもう一度調べてください。きっと従業員以外の若い男が従業員に変装して映っているわ。いえ、従業員かも知れない!」

 裕美の脳裏に、一瞬北沼君の表情が浮かんだが、

「思い付きの割には一応筋は通ってるわね。純樹さんには用事はすぐに済むと言っていたのだから、男だけ隠しておいて、涼子さんは純樹さんに会って用事を済ませば良かったのに、と言う疑問は残るけどね」

 と言って焼き物に箸を伸ばした。

「バルコニーでしたかったのよ。誰かに見られているかも知れないと思うと興奮するんでしょう?」

(もしかして、あなたにもそんな趣味があるの?)

「手錠についた指紋の問題もあります。何せ手錠には純樹君と涼子さんの指紋しか付いていなかったのですから」

 熊野が冷静な表情で鈴を見つめた。

「お医者さんごっこみたいなプレーで、手袋でもしていれば指紋は残らないわよ。それが証拠に首には指紋が残っていないでしょう。SM男はお医者プレーも好みだった」

(お医者さんプレー?どんなプレー?あなた、したことあるの?)

 裕美は鈴の表情を見ながら想像してみたがよくわからない。鈴は少し甘えた視線で熊野を斜めに見上げている。

「わかりました。第三者の線を考えて、もう一度録画を調べてみます」

 裕美は、鈴の露骨な女の使い方とあまりに単純な熊野に驚きながら揚げ物を口にした。

「後、和真さんと愛人恵子の足取りも確認してくださいね。高速道路の記録で調べられるでしょう?勿論、愛人恵子だけが車に乗っている可能性もあるからその点はしっかり確認してね」

 鈴が更に甘えた態度でお願いした。

「そこまで指示されなくても……。こう見えてもプロなんですからね」

 熊野は、愛らしい鈴の瞳に反論出来ずに、苦笑いを浮かべながらビールを飲んだ。

「ところで、正勝さんの事件の調査は進んでいるんですか?」

「こちらも大した進捗は無いですね。ああ、正勝さんが純樹さんに電話を掛ける前に、白浜町に住む別の男に電話していることが分かりました。我々はその男の身元を調査してみたのですが、正勝さんとの接点はなく間違い電話だったようです」

「何かへん。何、この違和感!その番号は何番ですか?」

 鈴がこめかみを押さえながら熊野を急かした。彼は少々面倒臭そうに手帳を取り出して、ビールをひと口飲んでから番号を言った。その番号を聞いた瞬間、裕美にも鈴の違和感が飛び火した。

「それって、純樹さんの番号と末尾が違うだけですよ!」

 裕美の興奮した様子に熊野は驚きながら、

「番号を間違えることくらい、誰にでもあるでしょう?」

 と、箸を止めたままで言いつつも、言った端から自分の愚かさに気が付いた。

「そうでもないと思うけどなあ。携帯に番号登録はしていなくても純樹さんからの着信履歴があったでしょう。まだ覚えたての番号だから、自分の記憶よりも携帯を頼りにするんじゃない?絶対とは言えないけど」

 そうだった。熊野は先日佐久間と議論した内容を思い起こした。あの時も同様の会話をして、正勝が記憶している純樹君以外の者へ電話しようとして間違えたのだという結論に達した。だが、その誤った番号が純樹君の番号と近いことに気づくことができなかった自分を恥じている。熊野は、今頭に浮かんだ仮説を口にしてみる。

「では、純樹君の番号を覚えている何者かが、正勝さんの携帯を使って純樹さんに電話を掛けたとか?連絡先の登録を確認することはあっても着信履歴を確認する人は稀でしょう。自分が覚えているなら直接番号を押します」

「パスワードはどうするの?」

 鈴が冷ややかに熊野を見つめる。彼は答えに窮してしまう。すると裕美がジョッキを手にして、

「もし第三者が正勝さんの携帯を使ったのなら、パスワードを知っている身近な人を疑う必要があるわね。身近な人なら正勝さんが携帯に登録しないことを知っている。もし計画的な犯行なら、事前に自分の携帯にでも記録しておくでしょう。間違えたのは末尾だけだから単なるミスよ」

 と、ビールを飲み干した。

「仮に事情を知る者の犯行だとして、純樹君に電話を掛けた時の正勝さんの声はどう説明できますか?ちゃんと待ち合わせ場所を伝えています」

「そんなの、正勝さんの過去の録音を合成するとか、事前に録音しておくとか、方法はいくらでもありますよ。どうせ一方的に話を伝えて切れたんでしょう?会話はしていないはずですよ」

 熊野は再び手帳を取り出して記録を調べている。

「確かにそうですね。会話はしていない。その後、純樹君から正勝さんに掛けた時には、電話には出たが風の音しか聞こえなかった」

「十分怪しいわよ」

 鈴は日本酒のメニューを開くと裕美も覗き込んだ。

「我々の調査では、正勝さんは事件当時の13時頃に展望台レストランを出ましたが、その後、バスにもタクシーにも乗っていません。目撃者もいないことから誰かの自動車に拾われたか、徒歩で人気の少ない海岸線の道、即ち夫婦松の崖に向かう道を歩いていたと言うことになります。もし、純樹君に電話を掛けたのが犯人だとすると、正勝さんは自動車の中か、自動車で運ばれたどこか別の場所か、或いは夫婦の松の崖で既に殺害されていたことになる」

 そこまで話すと熊野はビールをお代りした。

「夫婦の松の崖で殺害されていた蓋然性は低いと思うわ」

 裕美が冷酒の銘柄を目で追いながらそう言うと、

「純樹さんが電話を掛けたのは夫婦の松の崖ですよね?」

 鈴が確認する。熊野は二人が何を言い出すのか不安そうに頷いた。

「正勝さんの携帯も崖にあったのよね。純樹さんのからの電話に応答できないでしょう。もう亡くなっているのだから……」

「息絶え絶えで何とか応答ボタンを押したが話す力は無かった……。とか?」

 熊野が遠慮気味に反論する。

「それで、諦めてわざわざ電話を切る訳?死に際の人が」

 裕美は少し小馬鹿にしてから、鈴と二人で冷酒を注文した。『雑賀』と『龍神丸』だ。

「今のは冗談ですよ。携帯は犯人が持っていて別の場所で応答したのでしょう。そして後から携帯だけ捨てに戻った」

「それも冗談ですか?真昼に死体を崖にさらした後に携帯だけ捨てにわざわざ戻ってくるの?熊野さんは絶対殺人計画を立てない方が良いですよ」

 鈴の指摘に苦笑いする熊野は運ばれてきたビールをひと口飲む。

「では、やはり正勝さんは自動車の中か他の場所で殺されたのでしょうか……」

 熊野は刺身を見つめながら考え込んでいる。

「そんなこと、今ある情報だけじゃわからないわよ。これ以上考えても無駄。それよりも地元に正勝さんと近しい人はいたの?」

 裕美の問いに熊野は再び手帳を捲りながら、

「いえ、今のところ、この地域に正勝さんの知り合いや仕事上の関係者はいません。ホテルの従業員では幹部クラスの人間と面識がある程度で、深い付き合いの人はいませんでした」

 と答えた。

「太一さんは?」

「勿論、旧知の仲ですけど、太一さんが正社員になってこちらのホテルに移ってからは、特に親交は無かったようです。どうも、正勝さんは榊原観光の中でアンタッチャブルな存在だったようです。だから誰も接触したがらなかった」

 熊野は、手帳をテーブルに置いてサラダに箸を伸ばす。その手帳を鈴が横目で見つめている。

「正勝さんは社長の実兄だと言うだけで、能力も無いのに経営者になり、赤字を続けながら趣味のようにペンション経営をしていたようですから」

 記憶を辿って話した熊野は取り皿に盛ったサラダを口に運ぶ。と、その瞬間、

「ちょっと見せてね」

「アッ」

 鈴が熊野の手帳をさっと取り上げて、裕美と二人で中を覗く。

「わあ、几帳面な字!優等生のノートみたい」

「従業員たちのアリバイが書いてあるわ。正勝さんの死亡推定時刻のアリバイね」

 裕美と鈴は、ざっと手帳に目を通した。

「いや、それはさずがに不味いですよ。返してください」

「仕方ないわね」

 鈴が悪戯な笑顔を浮かべて手帳を差し出した。

「そこに書いてある、間違い電話先の留守電、必ずコピーしてきてね」

 鈴の甘えるような言葉に熊野は大きく頷く。彼の素直な態度に満足した二人は、運ばれたばかりの冷酒を美味そうに流し込んだ。


15F 非階 従業EV  Rest   客EV Rest 客EV バー 従業EV 非階


14F 非階 従業EV  浴場   客EV 浴場 客EV 娯楽 従業EV 非階


13F 非階 従業EV 客室(涼子)客EV 客室 客EV 客室 従業EV 非階

    

4F 非階 従業EV  事務所  客EV 会議 客EV 会議 従業EV 非階


1F 非階 従業EV  売店   客EV ロビ 客EV カフェ従業EV 非階

  駐車場

    

 裕美と鈴は、達彦、バイトの北沼の四人で13階の廊下を歩いている。エレベータホールで監視カメラの位置を確認した後、非常階段の前まで歩いてきた。

「この非常階段を使えば、他の階からカメラに映らずに涼子さんの部屋まで行けるんじゃない?」

「無理ですね。この扉は廊下側からは開きますけど、階段室からは開きません」

 裕美と鈴が一度廊下から階段室へ出てみた。空調が入っていないため蒸し暑い。良く磨かれたPタイルの階段が一階まで続いているようだ。鈴が閉じた扉を開けようとしてみる。

「だめですね」

 鈴がそう言ってからドアをノックした。

「ね?無理でしょう」

「この非常階段はどこまで続いているの?」

「1階まで続いています。1階に非常口があって外に出られます」

「非常階段はここだけ?」

 建物の反対側にもうひとつあります。構造はここと同じです」

「じゃあ、行ってみましょう」

 鈴が廊下を反対側に歩き始める。

「じゃあ、て。信用無いんですね僕は」

 北沼が少し拗ねている。

「何事も自分の目で確かめるのが刑事の基本よ」

「お前はいつから刑事になったんだ?」

 建物の両端に非常階段と従業員用エレベータがあり、建物中央部に客用のエレベータが四基ある。四人は従業員用エレベータに乗って1階まで下りた。エレベータ内の天井隅にカメラを確認した。

「叱られませんか?」

 北沼が気弱になっている。

「大丈夫よ、太一さんには許可を取ってあるから。でも、達彦さんはあまり遊んでちゃだめよ。昼休みが終わったらさっさと働きなさい」

 裕美が事務口調で指示する。

「理不尽だ……」

「部費で生ビールを飲ませてあげてるじゃないですか」

 鈴が優しく慰める。

「2杯だけな」

 エレベータを降りた後、1階の廊下から階段室に入ると北沼が外部に通じる非常口を開けた。

「この扉も外からは開きません。どうぞ」

 裕美と鈴が彼の後に続く。非常口を出て右手にゆくとホテルの裏庭に続き、レンタル自転車の置き場がある。スポーツバイクを借りてひとりで小里浜に向かった日の、純樹のサングラスをした姿がなぜか裕美の脳裏に浮かんだ。

「やっぱり開きませんね」

 閉じた非常口を外から引いてみた鈴が呟く。非常口を出て左に進むとホテルの前庭に続き、その向こうは一段低くなった駐車場がある。非常口からまっすぐ歩いて階段を下りると、その駐車場から続く道に合流する。

 裕美は何かに惹かれるようにその階段を下りてゆく。

「ここで車を降りれば、非常口まで誰にも見られずに近づくことは出来そうね」

 後からついて来た鈴に言った裕美は、周囲を見渡しながら防犯カメラを探す。時折海風が強く吹いて二人の髪を流している。

「何してるんだ?」

 達彦が非常口を開けて中から叫んでいる。

「まだいるわ」

 裕美が囁いてから、

「この辺りにはカメラは無いの?」

 と大声を出した。扉付近にいる北沼が、

「外にあるのは駐車場と搬入口、それからプールだけですね」

 と大声で答えた。鈴もひととおり周囲を確認してから裕美に意見する。

「非常口まで辿り着いても、中からでないと扉は開きませんよ」

「そんなの、どうにでもなるわ。非常扉のロックは警備室でコントロールしていて、その中に協力者がいたり、制御システムをハッキングしたりして開けることは可能よ」

 裕美は自信あり気に反論したが、それは不安の裏返しだ。昨夜熊野と色々な仮説を立てたが、警察が描いているシナリオ、即ち純樹犯行説が一番説得力があることは確かだ。

 責任感が強くお人よしの純樹のことだ。もしも涼子に動画を見たことを責められたら、彼には何の落ち度がなくとも彼女の指示に従うかも知れない。そして部屋で二人きりになったとしたら、彼も大会が終わってリラックスしている。酒も入っている。性欲を持て余している若い男が熟女の誘惑に惹かれたとしてもそれを責めるのは酷なことだ。

 後は涼子の趣向に流される。純樹が大会に手錠など持ってくるはずがない。全て彼女の言葉どおりに動き、首を絞めると言うプレーの中で過去の怒りがふと蘇り、自然と力を強めてしまう状況も想像に難くない。

 と、そこまで考えると裕美は思わず首を振った。つい最悪の事態を想像してしまうが、その度に純樹の純粋な心を思い起して自分を叱咤する。

「戻りましょうか?達彦さんも仕事に戻りましたよ」

 思い悩んでいる裕美を鈴が労わるように言った。

「ええ」

 こんな逡巡から抜け出すには真犯人を見つけるしかない。どう考えても動機は和真たちの方が強いのだ。しかも和真はこのホテルの権力者だ。人も、システムも、ある程度は好きに動かすことができる。

「熊野君を呼んでシステムの記録を調べさせましょうか?」

 鈴が裕美の顔色を窺いながら提案した時、駐車場の方からラップ風の音楽と、低音スピーカーの大きな振動が近づいて来た。派手なデコレーションを施したワンボックスカーに上半身裸の若い男子が数人乗っている。裕美たちの横を通り過ぎる時に中から手を振ってきたので、裕美も軽く手を上げて応えた。

「きっと金持ちのボンボンですね、あんな車にお金を掛けられるなんて」

 鈴が車を見送りながら零す。

「きっと彼らも思っているはずよ、こんなホテルに泊まって、金持ちのお嬢様だろうって」

 そう言った瞬間、なぜか裕美には和真が犯人である確信のような熱い塊が腹の底から込み上げて来た。

「すぐに熊野君を呼んで」


 特急列車は岐阜を出て高山線に入った。この線は電化されていないため、ディーゼル車が牽引している。時折重油の香りがどこからともなく流れてくる。

 佐久間はひとりで長野に向かっている。勿論、正勝の経営していたペンションを調査するためだ。現地では地元警察にも手伝ってもらう。

 小娘たちの意見に左右されるのはあまり嬉しいことではないが、事件解決のためなら誰の考えだろうと関係ない。正勝のスマフォのパスワードに関しては、彼女たちしか知らない情報であるが、正勝が純樹に電話する前に掛けた番号が、純樹の番号と末尾違いであったことに気付かなかったことは、刑事として悔しい思いもある。おかげで犯人は正勝を殺害してから純樹に電話を掛けたことが確定した。

 佐久間は、正勝に最近接近していた人物を調べるためにペンションに向かっている。前回地元警察に依頼したのは、正勝と純樹、静江の接触記録だけだったが、今回は最近連絡を取っていた人物全てを洗い出す積りだ。

 正勝殺害が計画的犯罪であるなら、必ず、計画を立案するための情報収集が必要だ。だから、犯人との接触の跡が必ず残っていると佐久間は確信している。

 そして、涼子殺害の犯人も、もしかしたら同一犯ではないかと言った想像も浮かんでくる。同時期に同じホテルの宿泊者が殺されるなどと言う偶然は、そうそう起きるものではない。

 涼子の事件では、あらゆる証拠が純樹を犯人だと指し示しているし動機もある。しかし、小娘たちは和真を疑っているらしい。その話を熊野から聞いた時は鼻先で笑っていたが、確かに動機はあるし、事件当夜の和真の行動も完全に潔白ではないことが分かってからは、少し考えも変わってきた。

 和真は、やはり愛人である恵子と二人で大阪に戻っていた。二人の乗った車が高速道路の料金所を通過した記録を調査したところ、紀伊田辺から阪和自動車道に乗ったのが23時20分だった。

 和真がホテルのエントランスを出たのが19時3分であるから、そのまま大阪に向かえば、19時40分から50分の間には紀伊田辺インターに到着するはずだ。

 二人の話では、太地辺りまでドライブしていたと言う。ホテルからは大阪と反対方向だ。ホテルから太地まで約1時間掛かるから往復で2時間。ホテルから紀伊田辺まで40分。三箇所くらいで車を止めて景色を眺めながら話をしていたので更に1時間要したらしい。

 途中で寄ったと言うコンビニの防犯カメラにも、恵子が立ち寄った映像は残っているが和真は映っていない。恵子だけがトイレに行くためにコンビニで買い物をしたと言う証言だ。

 そもそも恵子は何をしに来ていたのか。本妻がいる部屋と同じフロアでひとりで過ごし、和真が涼子の眼を盗んで密会するためか?ふたりの話では、毎年夏に二人で旅行をするのだが、今年は和真が休みを取れなかった。だから、旅行代わりに恵子をホテルに招待して、大会の合間に遊びに行く積りだったらしい。元々、この大会に涼子は参加する予定ではなかったと和真は言ったが、涼子に確認することは出来ない。

 佐久間は缶コーヒーを飲み干してから車窓の流れを見つめた。木曽川の流れが頻繁に現れるようになっていた。


 鈴に呼びつけられた熊野がホテルにやって来たのは、夕陽が傾き始めた頃だった。裕美と鈴が熊野を非常出口や非常階段室に案内した後、オープンカフェの一番端に席を取った頃、バイトを終えた達彦も戻ってきた。

 四人はテーブルに置いたホテルの平面図を囲んでいる。最初に、涼子が殺害された事件当夜の、和真と恵子の行動について熊野が説明した。二人は、真直ぐに大阪へは戻らずに、3時間ほど南紀をドライブしてから戻ったと言うことだ。

「怪しいですね?」

 鈴が熊野の瞳を愛らしく覗いている。だが、熊野は何とも言えずに黙している。そんな彼に裕美は畳み掛けるように、

「犯行時刻に和真さんが車に乗っていた証拠は無いんでしょう?やっぱり、和真さんはこの辺りで車を降りてホテルに戻ったのよ。中から誰かに開けてもらって」

 と、平面図で駐車場を指差しながら強気に言った。

「誰に開けてもらうんだ?」

 何も考えていない、呆けた顔で達彦が質問して裕美をイラッとさせる。

「社長なのよ。誰でも言いなりになるでしょう」

「いや、後で調べてすぐにばれるようなことはしないでしょう。本当に和真さんが戻ったのだとしたら、必ず共犯者がいるはずです」

 熊野が裕美を見つめる。

「じゃあ、建物設備の監視をしている担当者に頼んで、1階と13階の非常階段口扉を一時的に開放したとか」

 鈴が軽い口調で言ってアイスティをストローで混ぜる。

「それも危険ですね。設定を変更するとすべて記録に残りますから、共犯者はすぐに割れてしまいます」

 熊野が刑事らしい知見を見せた。アイスティを少し口に入れた鈴が、熊野を見つめながら次の仮説を口する。

「やっぱり、ベタですけど共犯者が建物の中から開けたってことね。共犯者は、まずどこかのフロアの非常階段扉を開けると、そこに何か薄手の物を扉に挟んで非常階段を1階まで下りた。そこで和真さんの合図を待って、外に通じる非常出口の扉を中から開ける。そして再び階段を使って元の階まで戻り、廊下に入って扉を閉める」

 鈴は熊野の反応を待っている。

「少し扉が開いていても誰も気づかないのはどこのフロアかしら?1階は売店が並んでいるから夜でも人通りは多いし、客室フロアは人通りは少ないけど、もし宿泊客が目にすれば印象に残るでしょうね、廊下には注意を引くような物はあまり無いから」

 裕美は、自分がこのホテルの廊下を歩いている時に、何も気を惹くものがなかったことを思い出している。せいぜい生け花が何箇所かに置いてあるだけで特に印象に残るものはない。

「そんなの4階に決まってるだろう」

 全員の訝し気な視線を気にせず、達彦が当たり前のように語り始める。

「4階は貸会議室のフロアなので夜はほとんど人はいない。ホテルの事務所があるので、従業員がエレベータを使うけど、従業員用エレベータは非常階段口よりも事務所側にあるから、扉がわずかに開いているくらいなら誰も気づかないよ。ああ、それから、非常階段口の扉は連続5分間開いていると中央監視室で警報が鳴るんだ。だから、あまり上の階だと1階まで往復する間に警報が鳴ってしまう。間違いなく4階だ」

「達彦君は、もうここの従業員だな」

「働かせて正解でしょう?」

 裕美が熊野に微笑み掛けた。

「では、4階の廊下から非常階段に出て扉に何か薄い物を挟み1階まで下りた共犯者は、和真さんを招き入れ和真さんはそのまま13階まで階段で上がった。共犯者は4階で廊下に戻り、従業員用エレベータを使って13階へ移動。そして和真さんを廊下側に入れた。と言うことですね」

 熊野が考えを整理するように言った。

「時間は19時から19時30分の間ってとこね」

「それから、涼子さんが部屋に戻るまでの約1時間、和真さんはどこにいたのかしら?」

「空き部屋はたくさんあるよ。13階は全てスウィートルームだからそうそう埋まらない」

 達彦が答える。

「共用トイレや倉庫に隠れていたら、カードキーの使用記録が残らない」

 鈴が、居酒屋での会話を思い出して熊野に笑みを送る。すると達彦が更に内部情報を明かす。

「ついでに調べたんだけど、フロア毎に掃除用の共通キーがある。カードキーではなくて通常の金属キーだ。それは台帳管理で、鍵置場は事務所内にあるけど、従業員なら比較的簡単に使用出来る。つまり、こっそり使用して戻しておけば誰が使ったかはわからない」

「部屋に貴重品は置いておけないわね、このホテルでは」

「貴重品はセーフティボックスに保管をお願いします」

 達彦がホテル従業員に成りきっているが、裕美は無視して推理を続ける。

「13階に着いた和真さんは、しばらく空き部屋で時間を過ごした。恐らく隣か向かいの部屋ね。20時半頃に涼子さんが戻って来る。近くの部屋なら扉を開ける様子はわかるはず」

「もしかしたら、防犯カメラで共犯者が監視していて連絡したかも知れない」

 鈴も推理モードに入っている。

「和真さんは涼子さんの部屋をノックした。彼女は何の疑いもなしに扉を開けたか、のぞき窓で確認して和真さんとわかっても、和真さんが忘れ物をしたと言えば、すぐに出てゆくと思って開けたのでしょう。部屋に入った和真さんは隙を見て涼子さんを絞殺。その後どこかへ遺体を隠した」

 そこまで言った裕美が達彦の顔を見つめる。

「ベッドルームには大きなクローゼットが二つある」

「なるほど。そこなら、純樹君もわざわざ調べないからな」

 熊野が達彦の意見を取り入れる。

「やがて純樹さんが部屋を訪れる。和真さんもベッドルームのクローゼットに隠れた。30分ほどで純樹さんが出て行く。和真さんは涼子さんをベッドに寝かせ、以前純樹さんが部屋で眠っている時に握らせた手錠を使って彼女の手首を拘束し、あんな姿をさせた。そして部屋を出た和真さんは非常階段を使って外に出た」

 裕美は自分で納得している。

「途中で誰かに見られたら?」

 熊野が口にした疑問に達彦が答える。

「従業員は、原則非常階段室に入らないよう指導されている。勝手に物を置いたり扉を閉め忘れたりしないようにね。第一、階段側からは開かないから使い道がない。だから従業員に出会う蓋然性は極めて低いです」

「後は証拠が必要ね」

 鈴の言葉に全員が項垂れてしまった。それが最大の問題だ。いくら推論を並べてみても和真が認める訳がない。裕美も、想像の世界から現実に戻されてその壁の大きさに小さく溜息を吐いた。そして、ホテルの平面図が載っているパンフレットを何気なく裏返して、観光案内の付近地図をぼんやりと眺めた。

 ホテルのビーチ以外に小里浜や夫婦松の崖、展望台レストラン、そして展望台まで続く海岸線を走るサイクリングロードなどが案内されている。

「こんな所に道の駅があるのね」

 熊野に見せてもらった正勝殺害事件調書の中に、正勝と接点がある従業員の当日の行動を記載した部分があったのだが、そこにこの道の駅が載っていたことを裕美は思い出した。

「海辺だから景色も良いでしょうね。砂浜にも出られるみたいだし。彼氏とドライブに来てランチしながら海を見るのも良いわね」

 鈴も厳しい現実から逃れたいのか、気分転換するように軽口を流した。

「海を見ながらランチするんだろう?」

 達彦もつまらない突っ込みをする。

「どっちでも良いでしょう」

「だって、食堂に入った瞬間から海は見えている。そこにランチが運ばれてくるんだから海が先だろう」

 達彦もしつこい。

「意味不明。それより、ランチするのに『食堂』ですか……。」

 鈴がクスリと笑う。みんなも少し気楽な気分に戻って笑みを零した時、

「順番か……」

 と、裕美は呟いて、順番なら彼氏を見つけるのが一番最初だろうと胸の中で零した。が、次の瞬間、急に何やら違和感を覚えて、

「熊野君、調べて欲しいことがあるの!」

 と、思わす叫んだ。その輝く瞳を全員がぽかんと見つめていた。

星里シリーズ名物の居酒屋での推理論議。ここが原点です。

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