夏の泡
第二の事件が発生。またまた純樹が疑われ、とうとう警察へ連行されてしまう。鈴のスイッチが入り刑事モードになると純樹の自慰行為の有無まで問い詰める。
だが和真から聞かされた過去の事実に、裕美までも純樹を疑ってしまう。
翌日、南紀に来てから5日目の朝、8時の目覚ましで起きていた裕美はバルコニー側のチェアに座って、海風を浴びたままぼんやりと海を眺めている。朝食は8時30分に集合して四人で取ることにしている。風音に混じって届いて来る波の音が何とも心地良い。
だが、その静かな潮騒の音に混じって、緊張感を抱かせるサイレンの音が遠くの方で響いていることに裕美は気付いた。その響きは次第に存在感を増してこちらの方へ近づいて来る。寝ぼけた気分が急に高揚して神経の先まではっきり目覚めてしまった。
「火事かしら?」
思わずひとりごちてからべランダに出て周囲を見渡すが、視界の範囲では煙らしいものは見えない。すると、パトカーや黒塗りの覆面パトカーが次々とホテルの駐車場に滑り込んできた。
警察関係者がどんどん車を降りて建物内に入って来る。裕美は思わず廊下に出てみた。鈴もドアから顔を出してきた。
「万引きでもあったのかしら?」
真面目顔で言っている鈴に少し噴き出しそうになったが、
「下りてみるわ」
と言って、鈴と二人でエントランスロビーまで下りてみた。従業員たちも浮足立った感じで、太一が小忙しく指示をしている。
「何かあったんですか?」
裕美が太一に尋ねる。彼は足早に近づいて来て、
「今朝、涼子さんが部屋で亡くなっているところを発見されました。詳細は何もわかっていません。そのうち刑事さんから情報が入ると思いますので、何かわかったらお伝えします。ショックでしょうが、カフェでゆっくりしていてください」
無理に笑顔を作って二人を安心させようとした。
「わかりました」
二人は中二階のカフェでコーヒーを席に運んだ。大会関係者はすべてセルフサービスだ。
「また純樹さんが疑われたりしないと良いですけど」
鈴が不安気に言ってコーヒーの湯気を見つめている。
「動機が無いでしょう」
さすがに、裕美も純樹は無関係だと確信している。
「もしかして、愛人が?」
「さあ、何の情報も無い今は、あれこれ詮索しても仕方ないわ。とにかく、涼子さんの冥福をお祈りしてから食事を頂きましょう」
二人は、涼子の部屋のある方角に向かって手を合わせて黙とうした。そこへ純樹と達彦が眠そうな顔で現れる。
「何してるんだ?朝のお祈りか?」
「あなたたち、あの騒音に気付かなかったの?」
「何かあったのか?」
「きっと火事の中でも眠り続ける人たちですね」
鈴が二人のコーヒーを取りにゆく。裕美が二人に事情を話すとさすがに二人ともショックを受けたようだ。特に純樹は一瞬で顔が青ざめている。
「顔色悪いわよ、涼子さんと何かあったの?」
裕美も不安になってくる。
「いえ、何も」
男たち二人も涼子に黙とうを捧げた。
「続けざまに二人も殺されるなんて」
達彦が溜息交じりに零す。
「まだ殺人と決まった訳じゃないでしょう」
「あんな元気な人が病気や自殺で亡くなったとは考えられないだろう。部屋の中の事故なんて何が考えられる?酒にも強い人だ。酔って事故に遭うなんてあり得ない」
達彦が殺人説を強調する。
「呪われた家族?次は和真さんかも」
鈴も真面目顔だ。
「余り下司な勘繰りは止めましょうよ。人が亡くなったばかりよ」
裕美の言葉で事件の話題は止めて、今日の帰りルートの検討をしながら朝食を取った。鈴が海遊館に寄って帰りたいと言い、裕美は白浜のアドベンチャワールドに寄りたいと主張した。と、そこへ二人の男が近づいて来た。
「お食事中すまない」
佐久間と熊野刑事だ。
「あら、刑事さん。何かわかりましたか?」
鈴が気高い態度で二人に情報提供を求める。
「本宮純樹君に同行頂きたい。今は任意だがいずれ逮捕状が出るはずだ」
佐久間がそう言って空いている椅子に腰を下ろした。
「刑事さんたちもコーヒーをいかがですか?朝早くから大変でしたね」
裕美の優しい声色に刑事たちの緊張が緩んで、
「お願いします」
と、熊野が軽く笑った。静かに立上がった裕美がホットコーヒーを運んで来るまで誰も口を効かない。
「どうぞ」
「ありがとう」
裕美が座るや否や、鈴が口火を切る。
「まずは、何が起きたのかを教えてください。次に純樹さんが逮捕される理由」
鈴の態度は、一切の誤魔化しや不遜な態度は許さないぞと言った気迫がこもっている。熟練刑事である佐久間も、彼女の背後にある警察庁刑事部課長の姿が気にならない訳ではない。
佐久間が熊野に目で合図を送ると、熊野が丁寧な物言いで説明を始めた。
「まず事件のあらましから。被害者は柳原涼子さん30歳。今朝8時頃、いつものようにルームサービス係が彼女の部屋に朝食を運びましたが誰も出て来なかった。内線電話で呼び出したが返事が無いので、女性の係が二人で部屋に入りました。涼子さんは寝坊して起きないこともあるので、その時は起こすように命じられていたようです。涼子さんはベッドルームで絞殺されていました。下着姿で仰向け状態。両手首に玩具の手錠がはめてあり、その手錠はベッドのヘッドボードにつながれていました」
「それって猟奇殺人的な?それとも変質者的な感じですか?」
鈴は真剣な眼差しで熊野を見つめている。
「部屋に争った形跡はありません。衣服も一箇所に畳んで置いてありました。身体に打撲痕や傷跡もありません。従って合意の上でベッドに入ったと思われます」
「吉川線は?」
「ありません。手錠をされていますからね」
「索条痕は?」
「ありません。厳密には扼殺です。手で首を絞められています。指紋もありません」
「薬物とか泥酔していた形跡は?」
次々に繰り出される鈴の質問に驚きの表情を浮かべながら、
「最終判断は司法解剖の結果を待ってからですが、部屋がきれいに片付いていることから、我々は合意のもとベッドに入り、性行為の一環として手錠をはめたと考えています」
と、熊野は答えた。
「行為の最中に犯人が豹変して殺人を犯したと言うことですね?」
「我々は殺人と過失致死の両面で調べています。つまり、首を軽く圧迫しながら性行為をしていたが、力加減を誤って殺してしまった可能性と……」
そこまで熊野が話した時に佐久間が割り込んで、
「特に、女性と比べて極端に身体が大きいとそう言うことが起きやすいと思いますよ、本宮純樹君。手錠にあなたの指紋が残っていました。べったりとね」
純樹に嫌疑の視線を送りながら言った。全員が息を飲んだまま純樹の目をじっと見つめている。
「僕は手錠なんて知りません。見たことも無い!」
彼は必死で全員の瞳に無実を訴える。
「大丈夫よ。私はあなたを信じるわ」
裕美が優しい声色で彼をなだめる。
「私もです」
「当然だ」
達彦も大袈裟に頷いて見せた。
「指紋はどう説明するんだ?」
佐久間がじっと純樹を見つめている。ほんの少しの変化も見逃さないと言った感じだ。
「そんなの、純樹さんが眠っている間に付けることもできるわ。あなた、和真さんの部屋で眠ったことがあるでしょう?」
今度は男たち全員が裕美の迫力に驚いて視線を集める。
「それに、首には指紋が残っていないのに手錠にだけ指紋が残るのは不自然でしょう!」
鈴が鋭い指摘をする。
「とにかく、署でゆっくり話を聞かせてもらおうか」
佐久間がそう言って話を切り上げようとした時、
「ちょっと待ってください。逮捕状が出るまでは任意なんでしょう?まずはマネージャとして、そして純樹さんに憧れている後輩として、純樹さんに真実の説明を求めます。純樹さん、昨夜のことを全て話してください。あなたが涼子さんのことをどう思っているのかも含めて」
と、鋭い語気で迫った鈴の眼は、浮気の疑いがある夫を咎めるような鋭利な光を放っている。もしかして、鈴は純樹に恋していたのではないかと裕美が疑ってしまうほどの迫力だ。
「その前にひとつだけ良いですか?」
熊野が鈴に対して丁寧に断った。まるで上司に対しているようだ。鈴は静かに頷く。許可を得た熊野は純樹に向かって質問した。
「この前正勝さんのことでお話を聞いた時に、正勝さんとは事故以来一度も会っていないし連絡も取っていないと言われましたね?」
「はい。間違いありません」
「和真さんや涼子さんとはどうですか?」
「ありません。この大会で会ったのが4年ぶりです。勿論連絡も取っていません。第一連絡先も知りませんし、用事もありません。事故後の諸々のことは、全て榊原観光の社員の方が行われましたから……。ああ、これは前も話しましたね」
「わかりました」
熊野も佐久間も純樹の瞳をじっと見つめて真偽のほどを窺っている様子だ。
「では、一昨日の夜、和真社長に誘われて和真さんの部屋で飲んでいた時のことから聞かせてください。質問は随時します」
鈴がやや硬い口調で純樹に説明を促した。
「一昨日の夜、ここのレストランで和真さんと食事をすることになり、達彦と三人で同じテーブルに座りました。大会の進行方法など、来年に向けた話題で盛り上がっていました。そのうち色々な方が社長に挨拶に来られて話しに集中できなくなったので、和真社長が部屋に誘ってくださりました。達彦はドラマを見るために自分の部屋に戻りました」
「部屋に行く前に私のステーキを食べて行ったわよね」
裕美の言葉に彼は頷いてから続ける。
「和真社長の部屋に入ってからは、水割りを飲みながら大会のことを色々と意見させてもらいました。1時間も話すと話題は大会のことから世間話に移り、僕は酔いが回って少しウトウトし始めました。一度、眠りに落ちたと思います。ふと目覚めると、和真さんがDVDをセットしていて動画が流れ始めました。これは非売品だ、ゆっくり見ていってくれと言うと和真さんはベッドルームに入られました。和真さんの意図がわからないまましばらく動画を眺めていましたが、よくわからない動画だったのでそのまま眠ってしまいました。気が付いたら2時前だったので自分の部屋に戻りました。」
「2時頃に戻って来たのは私も知っています。私は彼の隣の部屋なのですが、たまたま起きた時にドアの閉まる音がしました」
裕美が刑事たちに純樹の言葉の証明をした。熊野はメモを取っている。
「あの動画が涼子さんだとは気が付かなかったのですか?」
鈴が詰問する。
「眠くてぼんやりしていたので内容も覚えていません」
「でも、したんでしょう?」
「え?」
「だって、ゴミ箱にティッシュが山積みになっていたと、涼子さんが言ってましたよ」
鈴の質問に純樹は少し笑いを零してから、
「和真さんと飲んでいる時にテーブルで水割りを零してしまって、ティッシュで拭いただけですよ」
と説明した。
「じゃあ本当にしてないんですね?」
「そこ、そんなに大事?」
裕美が怪訝な表情で鈴を見つめる。
「だって、先輩が涼子さんを積極的に誘う動機があるかどうかは重要だと思います。ねえ、熊野さん」
「ねえ、と言われても。そもそも、何の動画なんですか?その話は初めて聞きます」
熊野が遠慮気味に鈴に尋ねると、彼女は恥ずかしげもなく淡々と動画の内容を説明した。
「動画が涼子さんだとは気づかなかったのよね?」
裕美が改めて確認した。
「はい。映像が暗くて何の動画なのかさえわかりませんでした。ただ、翌朝、試合会場で和真さんに昨夜のお礼言った時、動画の正体を告げられて急に罪悪感を覚えました」
「本当は興奮して、生身の涼子さんを抱いてみたいと思ったんじゃないのか?」
佐久間がオヤジらしい言葉を吐いて純樹を揺さぶる。
「だから、純樹さんは動画を見ながらしていないと言ったじゃないですか。私の質問の重要性がわかった?」
鈴が佐久間を睨む。
「刑事さんから見れば若い女性かも知れませんけど、僕たちから見れば、失礼ながらオバサンですよ。さすがに三十歳の大人を抱こうとは思いません」
佐久間は純樹が返すであろう言葉を予期していたのか、反論もせずに黙って彼の瞳を見つめている。
「その後、昨夜までは和真さんや涼子さんと接触は無かったのですか?」
「決勝戦の直後、お二人がお揃いの時に、おめでとうと声を掛けて頂いただけです。後はみんなも知ってのとおり、夜の表彰式と懇親会で和真さんとは少し話しました」
「懇親会では、涼子さんは私たちとずっと同じテーブルでした」
裕美が熊野に告げる。更に純樹が続ける。
「和真さんが途中で会場を出られた後、太一さんから涼子さんの伝言を聞きました」
「また伝言?」
鈴が怪訝そうな声を上げ、佐久間は訝し気に眉を動かした。
「涼子さんの伝言は、21時30分頃に涼子さんの部屋に来て欲しいと言う内容でした。22時から二次会があることを太一さんが告げたそうですが、涼子さんは用事はすぐに済むと仰ったそうです」
「30分じゃなあ。目的は別のことみたいだな」
「そして、外出する和真さんが太一さんに預けた部屋のカードキーを渡されました。和真さんはこのことをご存知ないとのことでした」
「カードキーを?」
「はい。涼子さんもぎりぎりになるから、部屋に居なければ入って待っているようにと……」
「何だか罠の香りがしますね。純樹さんは、なぜ呼ばれたと思いましたか?」
鈴が問う。
「もしかすると、僕が動画を見たことを涼子さんが知って、叱られるか、強く口止めされるのではないかと思いました。すぐに済む用事と言われたので……」
「なるほどね。それで行ったんですか?」
鈴が話を進める。
「はい。やはり涼子さんは留守だったので部屋で待っていました。でもなかなか帰って来ません。ベッドルームもドアが開いていたので覗いて見ましたがいませんでした」
「トイレやバスルームも確認しましたか?」
純樹は頷いてから、
「21時55分まで待っていたんですが、諦めて二次会会場に移動しました」
とはっきりした口調で言った。
「確かに、純樹さんは22時を少し過ぎて二次会に来られました。覚えています。達彦さんは21時30分頃まで純樹さんと一緒だったんでしょう?」
鈴が仕切っている。
「ああ、他の選手たちと四五人で飲んでいたけど、21時半頃にちょっと用事があると言って純樹さんは席を立った」
鈴が熊野にメモを取るよう目で促している。
「涼子さんは、私たちと食事をした後、三人でお風呂に入りました」
「何時頃ですか?」
裕美の説明に熊野が反応する。
「20時頃だったかなあ。三人とも一度部屋に戻って着替えを持って来て大浴場に入りました。涼子さんも同じくらいに現れて露天風呂に一緒に入りました。少しだけ涼子さんが先に上がって……」
裕美が時間を思い出そうとしていると、
「涼子さんが脱衣場から出て行ったのは20時30分を少し過ぎていました。私、二次会まで寝られるかなと思って時間を確認したので覚えています」
と、鈴が裕美を見て言った。
「と言うことは、涼子さんは、20時30分頃から22時頃までどこにいたか不明と言うことですね。そして21時30分から22時まで部屋に居ないことは確実。その後、涼子さんが部屋に戻り、男を連れ込んだと言うことになる。君の言うことが本当なら」
「本当です」
「30分もあれば殺すことはできる」
佐久間が陰険な瞳で純樹を見つめた。裕美はそんな佐久間の態度が我慢出来ずに、
「何で、そんな短い時間でわざわざ犯行を行う必要があるんですか?しかも、自分がその時間に部屋に入っていることは太一さんによってすぐに証明されてしまうのに。純樹さんはルームキーを持っているんですよ。その気になれば深夜にだって部屋を訪れることはできるじゃないですか」
と反論した。
「確かにそうだな。だが、ホテルには防犯カメラもあるし、ルームキーを使用した記録も残る。深夜に訪れようと同じことだ。それくらいのことはいくら大学生でも知っているだろう」
佐久間はやや小馬鹿にした口調で裕美に答えた。
「だから何ですか?証拠が残るリスクは同じでも、犯行を確実に行える確率は深夜の方が高いのでは?論理破綻していますよ、オジサン」
裕美の反撃で重くなった空気を変えるように鈴が明るく提案する。
「防犯カメラとルームキー記録の調査結果を教えてくださいね。ああ、それから、今から現場を見せてください。耳寄りな情報と引き換えに」
熊野に向かって小悪魔の微笑みを送っている。
「防犯カメラにルームキー、それと犯行現場視察。こちらは三つも与えるんだ。そちらも情報を三つ提供しないと取引にならない」
佐久間が冷たく言った。
「わかりました。まずひとつめ。和真社長の愛人が同じフロアに宿泊していました」
その瞬間、二人の刑事の目が大きく見開く。
「同じフロア?和真社長の部屋と同じフロアなのか?」
達彦も驚いている。
「動機の面では愛人が一番疑わしいと思いませんか?詳しくはバイトの北沼君に聞いてください。ふたつめ。昨夜、涼子さんは男を部屋に呼ぶようなことを示唆していました。恐らく若い男だと思います。選手たちの方を見つめながらその話をしていましたから」
「それが純樹君じゃないのか?」
「たった30分で楽しめますか?まあ良いです。相手が誰であろうと、とにかく涼子さんは男を連れ込む雰囲気でした」
「君の思い過ごしと言うことは?」
熊野は遠慮気味だ。
「みっつめの情報ではっきりしますよ」
裕美が鈴をフォローした。
「わかりました。じゃあ、そのみっつめは?」
「それは現場で話した方が解りやすいので」
鈴はそう言って立上った。
裕美たち一同は13階にある和真夫妻のスウィートルームを訪れた。ドアを開ける前に佐久間が純樹に向かって、
「君はここにいろ」
と指示してから、今度は裕美たちに、
「まだ鑑識が現場調査をしているから邪魔をするな。部屋に入ってもベッドルームには入るな。それから物には一切手を触れるんじゃない。余計なこともしゃべるな」
と言って、履物を覆うビニル袋と手袋を彼女たちに渡した。三人は刑事たちの後に続いて部屋に入る。すぐにリビングルームが広がっており、純樹が眠っていたと言うソファセットとテレビ、オーディオ設備が目に入った。40畳ほどあるリビングの奥にベッドルームがあり、ドアが開いている。
涼子の遺体にはシーツが掛けられていて顔は見えない。鈴がオーディオセットに近づき、そこに山積みされている音楽CDケースを目で追った。
「プレーヤーにはどんなCDが入っていましたか?」
熊野が鑑識に確認する。
「ショパンノクターン夜想曲集」
年配の鑑識員が答えた。
「みっつめはショパンか?」
佐久間が薄笑いを浮かべて鈴に確認する。鈴が現場を見るために、つまらない情報を勿体ぶって出し惜しみしていたと考えているようだ。
「このCDは、昨夜、私が涼子さんにお貸しした物です。JPOPをジャズ風にアレンジしている物で、男女の雰囲気づくりに役立ちます」
鈴が山積みされているケースの一番上に置いてあるCDケースを指差している。
「念のために中身を確認してください」
熊野は鈴が示したCDケースを手に取って調べる。
「CDはケースの中に入っています。涼子さんがこれを欲しがった訳ですか?」
「昨夜、このCDを使えそうだと言っていました。要するに男を連れ込むと言うことです。でも、デッキには入っていなかった。この部屋では使わなかったようです」
「もしかしたら、20時半から22時までそのCDを持って他の部屋にいたのかも」
裕美が勝手な想像を口にした。と、その時、廊下で男の声がして見張りの警官がドアをノックした。和真が大阪から到着した様子だ。事件発覚後すぐに連絡されている。
佐久間が和真を招き入れて手短に状況を説明しながらベッドルームに入り、本人確認を依頼した。シーツの顔の部分だけを捲ると和真が小さく頷き、小さな嗚咽を漏らして涼子に抱きつこうとしたが佐久間に止められた。そしてベッドルームから抱えられるようにして引き出された。
「他の場所に移動しましょう。詳しく説明します」
佐久間は和真を廊下に誘導しながら裕美たちにも部屋を出るように促した。
「純樹君には署の方へ移ってもらう。もう、良いだろう?」
佐久間が鈴に確認する。現場を見せてやったのだから少しは譲歩しろと言っているような懇願に近い口調だ。被害者の夫と容疑者の純樹を一緒にする訳にもいかないのだろう。
「わかりました。純樹さん、少しの間辛抱してください。きっと私たちが無実を証明しますから。あ、それから熊野君、ひとつお願いがあるの」
鈴が純樹を慰めた後、熊野に何かを耳打ちしている。
裕美も純樹のことが心配だが慰める言葉が思い浮かばない。いや、下手に言葉を掛けると、周りに聞かれたくないことまで口にしてしまいそうで、冷静に話せる自信がなかった。仕方なく、鈴の言葉に大きく頷いてからじっと彼の瞳を見つめた。純樹も一瞬裕美の視線をとらえたが、不安を見抜かれたくないのかすぐに視線を外して、みんなを安心させるための笑顔を浮かべた。
和真は状況が飲み込めない様子で刑事たちの表情を見つめている。純樹は別のエレベータで移動し、裕美たちと和真は事務所横の応接室に入った。
和真に呼ばれた太一が人数分の飲み物を用意した。佐久間が今までの情報を要約して和真に説明している間、裕美はアイスコーヒーを飲みながら和真の様子を窺っている。
和真は本当に悲しんでいるのだろうか。普段は経営に無頓着で遊んでばかりいる涼子が、気ままに口を出しては、和真の意思を無視して経営方針を決めることには我慢ならないだろう。夫婦仲もお互いが浮気をしているような仮面夫婦。
裕美は涼子に肩入れする気はないが、やはり外に女を囲うような男は端から信用できない。涼子を殺害する動機は、純樹なんかよりも和真や彼の愛人の方がよほど強いではないか。
裕美はふと鈴の表情を見つめた。彼女もじっと和真の様子を見つめている。もしかしたら同様のことを考えているのだろうか。佐久間の説明を聞き終わった和真が両手で頭を抱え、
「だから、男遊びもほどほどにしろと言っていたんだ」
妻が死んだ悔しさと怒りを、自分の言葉に耳を貸さない彼女の行動にぶつけようとしている。被害者である涼子を責めることが全く理不尽であることは誰もがわかっている。勿論一番許せないのは犯人だ。だが、鬱憤をどこかにぶつけなければ和真の精神がバランスを失ってしまうのだろう。
「あんなやらしい下着を付けて、SM趣向の男と遊んでいたなんて……」
ついさっきまで和真を疑っていた裕美だが、転じて、和真が犯人でないとしたら、妻が若い男とSMチックな性行為をしていたことを突然知らされ、しかも、その結末が死であると言う事実に直面していることになる。
最近の夫婦愛は別にして、やはり、人として気の毒であり、何の確証もないまま彼を犯人扱いするのはゆき過ぎだと裕美は反省した。そして犯人を一旦見知らぬ男に戻した裕美は、たとえ事故であったにせよ、女性にあんな恰好をさせたまま放置して逃げる犯人は決して許せない。
実際のところ、真相はどうだったのだろう?裕美は、わずかなしじまの中で考えを巡らせる。刑事たちも言っているように、犯人は単に性行為を楽しんでいた中でアクシデントが発生し、我を忘れて逃げてしまったのか?それとも、最初から悪意のある計画的な犯行で、涼子が死後に辱めを受けようが、それさえも犯人を満足させる仕業だったのかも知れない。まあ、動機はわからないが人間のクズがなせる業だ。
裕美は、自分が猜疑心の沼に沈み込んで混沌とした思考を繰り返していることに気が付いた。なぜかこう言う時は鈴の表情を見つめることで安心できる自分がおかしかった。鈴は、なぜか目を丸くして和真を見つめながら、誰にも見られないように、ショートパンツから伸びた細い太腿をポリポリと掻いている。
和真は、アイスコーヒーをストローも使わずにゴクゴクと飲んでから深呼吸をした。
「すみません、少し取り乱してしまいました」
「もう少し時間を置きましょうか?」
佐久間が和真を気遣う。
「いえ、大丈夫です」
「そうですか。お疲れになったらいつでも言ってください」
佐久間が事件に関する質問を始めた。純樹の話との整合性を確認する質問だった。
一昨日の夜、純樹を部屋に招いた時の話しの内容も、行動も合致していた。和真がベッドルームに入った後は、涼子が戻って来たのも気づかず、朝、目が覚めたら涼子が横に眠っていて、純樹は部屋にはいなかった。その後、試合会場で挨拶をし、夜まで顔を合わせていない。
「まさか純樹君が犯人なんですか?」
佐久間の質問がひととおり終えたタイミングで和真が疑問を口にした。
「まだ決まった訳ではありません。容疑者のひとりだと言うだけです。そもそも動機が見つかりません。彼は4年前に涼子さんと会っていますが、殺人を犯すほどのトラブルなど無かったようですし、それ以降は電話すらしていない」
熊野が今までの調査結果を安易に漏らしたので、佐久間が咳払いをして制止した。
「無い訳ではない」
和真がポツリと零した。瞬間、全員が過敏に反応する。
「どう言うことですか?」
「純樹君が涼子のことを恨みに思っていたとしても、私たちは彼を責めることはできません」
「詳しく話して貰えませんか?」
和真は大きく呼吸をして少し心を落ち着かせてから、ゆっくりとした口調で話し始める。
「4年前の事故のことは話しましたよね?」
和真が佐久間に確認してから、一瞬、裕美たちの方を見て迷った目をしたので、
「私たちも知っています」
と鈴が澄んだ声を響かせた。
「事故のあった夜、ボートに乗る時に、涼子の父である榊原高雄が救命胴衣を静江さんに渡すように正勝に指示しました。ペンションには救命胴衣は二つしかありませんでしたから」
「二つだけ?」
「はい。当時も今も、お客様を乗せてボートを出すようなサービスはしていません。単に、正勝の趣味で川下りをしていただけです。ですから安全のための装備は不完全でした」
「では、どうして皆さんで川下りなどしたのですか?しかも夜に」
「正勝は仕事が暇な夜に、よくひとりで川下りをして星空を楽しんでいました。実際、街の灯りなどひとつも無い中で、月を始めとした星たちの輝きを見上げながら川面を静かに流される感覚はとても神秘的で、星空も最高に美しかった」
「ひとつ良いですか?ボートにはエンジンが付いていたのでしょ?それでもそんなに静かなのですか?」
裕美は頭の中に風景を描いている。
「仰るとおり。川の流れに任せている時はエンジンはアイドリング状態なのでとても静かです。ボートを大きくコントロールする必要がある時だけエンジンの出力を上げます」
「事故が起きる直前は、エンジンの出力を上げていたのですね?」
「はい、あの辺りは流れが速いので、エンジンでボートを制御していました」
「正勝さんの個人的な趣味を皆さんで楽しむことになった経緯を教えてください」
「正勝が高雄にその話をしたのです。元々船好きな高雄はとても興味を持ちました。高雄がペンションに行ったのも、実はそれが一番の目的でした」
「どうして純樹さんや静江さんまで誘われたのですか?」
和真は一瞬答えに詰まった。彼は事実を知らないようだ。すると太一が代わりに答えた。
「高雄さんが誘ったのです。高雄さんは若い二人を可愛がっていましたから。皆さんは現場を見ていないので不安に感じるかも知れませんが、夜の川下りと言っても、流れはとても静かで安全なんです。障害物もほとんどありませんから、たとえ星の無い夜でも船首に付けたライトを照らすだけで十分航行できます。私も何度かご一緒させてもらいました。本当に長閑で心が癒されます」
「川下りが安全で高雄さんが二人を誘い、救命胴衣も二つしかないことはわかりました。それが純樹さんの動機とどんな関係があるのですか?」
「救命胴衣のひとつは正勝が付けていました。もしも誰かが川に落ちた時に、川に飛び込んで助ける役目だからです。そしてもうひとつは、高雄の命令で静江さんに渡されました。勿論、身内でない一番若い女性だからです」
「妥当な判断ですね」
「ところが、静江さんに渡された救命胴衣を涼子が奪いました。ボートに乗ってすぐでした。涼子は泳げないので、泳げる静江さんよりも自分が着るべきだと強引に奪い取りました。高雄も涼子の気性はわかっているし、そもそも安全だと思っているので溜息を吐いただけで何も言いませんでした」
「しかし事故は起きてしまった」
「そうです。結果的には救命胴衣を着けていた涼子は助かり、付けていなかった静江さんは重傷を負ってしまった」
「それが、純樹さんが涼子さんを殺害する動機だと言うことですか?」
佐久間が和真をじっと見つめている。
「さあ、わかりません。あくまでも参考情報です。どんな事情があろうとも、バカな行動をするような青年ではないと信じる気持ちの方が強いです」
裕美は、後頭部を殴られたような衝撃に震えている。もしかすると本当に純樹が殺人を犯したのではないか?そんな不安が彼女を支配している。
正勝が操舵していたボートが事故を起こしたからと言って、悪意のなかった正勝を殺してまで復讐する気持ちにはならないと思う。しかし、女子高生から救命胴衣を奪って生き延び、何食わぬ顔で今の贅沢な生活を、女王様気分で過ごしている涼子の姿を目の当たりにしてしまった純樹が殺意を抱いたとしても不思議ではない。
「和真社長は、今でも涼子さんを愛しているんですか?」
突然、鈴が大胆な質問をした。
「当然でしょう」
和真はじっと鈴の瞳を見つめた後、ちらりと太一と視線を合わせてから、
「悲しみ方が足らないからですか?」
と、再度鈴を見つめて薄笑いを浮かべた。
「大人は激しく感情を出せないものですよ、従業員の手前もありますからね」
太一が優しい口調で答えると更に鈴が何かを言おうとしたが、佐久間が咳払いをした。
「では、我々は一旦署に戻って捜査結果をまとめます」
立上がった佐久間がちらりと鈴を睨んだ。鈴が愛人のことを口にしそうだったので口止めしたのだろう。愛人がこのホテルに来ていたことについてはまだ未確認情報だ。噂レベルの情報で和真を揺さぶる訳にはいかない。少しふくれている鈴を見つめながら裕美はそう考えた。
ストリーミングで音楽を聴く習慣はまだまだ普及していませんでしたね。音楽CDやDVDが主流。MDと言うのもありました。